2023-06「〝If knowledge ain't your power, what the fuck is you rhyming for?〟ですよ。」

 今月から装いを新たにします。記憶の定着もできていなければ、月に一回書く記事が〝日記〟であるはずもないから。やることは変わらないにしても、ずっと同じタイトルでいるのも飽きがきたのかもね。

今月のツイート

映画:バビロン・シンドローム

 「最後のあれ」とは、マイケル・B・ジョーダン監督の『クリード 過去の逆襲』の上映後についてきた特典アニメ「クリード SHINJIDAI」のこと。この感想と同じことが、『ザ・フラッシュ』のクライマックスにもいえる。「この歴史、この文脈を、私が新たに引き継いでみせる……!」という力み。

『バビロン』について、チャゼルがキャリアを積んだ頃にはこれまでのようにハリウッドで映画を作れなくなっている可能性があるから、今のうちに『バビロン』を作ったのかもしれない、というツイートがあった(タランティーノの発言をうけての感想)。たしかにあの総決算感は切迫感があるもので、尋常じゃないように思う。

 「女の子がラップをするアニメがない」という話がTwitterで話題になっていた。『けいおん!』の頃であれば「いやー、ラップは部活動でやらないからね」という話になる。だが、いまや学外で活動する『ぼっち・ざ・ろっく!』が出てきたのでそういう話では済ませられない。

 この記事を書いているうちに『パンティ&ストッキングwithガーターベルト』の二期が発表された。嬉しい。ちなみに私は本作をサンドリオンの汐入あすかさんを通じて知りました。そのとき汐入さんも二期を待っていると言っていた。

結局このサブプロットはうまくいったとは思わないけれど。

映画:アトロク映画祭

 アトロク映画祭で『イントゥ・ザ・スパイダーバース』と『ガメラ2 レギオン襲来』を見た。宇多丸さん、宇垣さん、日比さん、宇内さん、山本さんも見てきた。ガメラに関しては第一作のほうが好みだった。

 『スパイダーバース』は遠景がきれい、という美点は、続編における「上下逆さまに眺めたブルックリン」のすばらしいショットに結実したといえるんじゃないでしょうか。

私の生活にも、LEXを聞くのがふさわしい瞬間が辛うじてある。

アニメ:『スター・ウォーズ:ビジョンズ』シーズン2

 ジョージ・ルーカスが1944年に生まれ、60年代に青年時代を送ったことを考えれば、『スター・ウォーズ』の反権力の想像力には(もちろんSFというジャンル的なものであったとしても)時代の影響があったことを思わずにいられない。そしてそれは今後どんどん失われていく……。

 思えば、現代の運動家らしき像は、『ソロ』のなかでL-3というドロイド解放を訴えるドロイドとしてすでに登場していたのだった。いや、あれは実際に惑星ケッセルで実力行使に出たから違うか。

あまりこういうことをつぶやいても仕方がないのだが、Twitterはどうでもいいことをつぶやく場所なので、こういうツイートをつぶやいてもよい。

映画:『怪物』

 是枝裕和の新作なので公開日に見た。今回は監督自身が脚本を書いていないからか、是枝作品を見たという感じではなかった。三つの視点という構造も、「怪物」というテーマを描くうえでこの手法を採用した意図はわかるものの、それほど関心するものではなかった。

 そもそも〝羅生門効果〟には限界がある気がする。同様の構造をもつ『最後の決闘裁判』も、たしかに性犯罪と二次被害というテーマに沿った手法の選択の結果で、さらに「真実」を描くという決定的な変更を加えている点は斬新なのだが、にしてもそこまでよい作品かといわれればそうではなかった。

(これはたぶん、「ジョークグッズは、それを使用する人のおもしろさを加算するのでなく、一定の数値に固定するのだ」という話に似ている)

 内容に関していえば、明らかに第三幕に入ってからのみずみずしさが炸裂しているのが面白かった。もちろん前半にも映画作家としての演出の確かさというのはちりばめられているのだけども。第三幕でとくに印象に残ったのは、棄てられた車両の上で二人が話すシーン。父親が不倫していたという話にたいして「だいぶおもしろいね」と返す。車両の屋根に立つ、という実生活ではありえない逸脱した行為が可能な場所で、「社会の倫理」から外れた返答が出てきたことの記録。

 釈迦は「天上天下唯我独尊」といったあとも、何かしらの言葉を話したのだろうか。あるいは、話すことができたのだろうか。このことについて、仏僧・宗教学者のなかで論争は起きたのか、起きなかったのか。知っている人がいたら教えてください。

映画:『ウーマン・トーキング』

 とてもよい映画だった。男性たちが繰り返し村の女性をレイプをしていたことが明らかになったあと、この村から出ていくかどうかを女性たちだけで話し合う、その会話劇。最近でいえば『イニシェリン島の精霊』のような寓意に富んだ作品だった。

 劇中、緊張感のある議論が続く。あらゆる行動を禁止されてきたがために「夢を見ることしか許されなかった」女性の切実な夢想=理想が語られかと思うと、すかさず「私の夢は誰かが声明文なんて書かないことだよ」という皮肉が返ってくるようなやりとり。

 女性だけで出ていくにしても男児は連れていくとして、ではその年齢の線引きはどうするのか、という議題が出てくる。やさしさと同時に性的好奇心が旺盛で制御ができない13才・14才の少年は危険ではないのか、という話は、思春期からまだ地続きに感じる人間として迫ってくるものがあった。

まだ行けていない。知らない美容垢からファボがとんできた。

ドキュメンタリー:『連邦議会襲撃事件 緊迫の4時間』※自殺の話題がある

 トランプの支持者と陰謀論の趨勢が社会問題なのは当然として、同時に、警察権力をどう見るかという問題も大きいと思った。21世紀の文化左派は「ファイト・ザ・パワー」を掲げ公権力を批判することに尽きるのだろう、とくにBLMの運動とその最中の痛ましい事件を思えば……。だが、議事堂襲撃事件で右派の陰謀論者たちと対峙したのは警察官たちだった。

 このドキュメンタリーを見て、事件当日の死者だけでなく、事件の後日に警察官の自殺者が複数名出たことを知った。自死に至った個人の心情は計り知れないにせよ、あくまであの事件がその場にいた人間にとって危機的な影響を及ぼしたことは、ドキュメンタリーの映像を見れば多少なりとも理解できる気がする。

 襲撃がはじまってから、議事堂入口のトンネルに押し寄せる群衆と、侵入を防ぐ警察官とたちの衝突・膠着状態が続いていた。それこそ群衆は先頭にいる者が疲弊したらすぐに後ろに控えている集団からすぐに入れ替えが効く。他方で、警察官の側は人員が不足している。市内から応援が駆けつけるや否や「フレッシュガイズアップフロント」と必死の号令をかけて人海戦術を行なっていた。

 警察官は「一般人は30秒も前線に出れば疲れ果てるが、警官は45分も戦闘していた」とインタビューで話していた。群衆との体力・筋力の鍛錬の違い、それらを備えた者で構成された集団が警察と呼ばれる「行政サービス」なのだった。このことを忘れていた。

オモコロの原宿さんが絶賛していたので見た。

映画:『ザ・フラッシュ』、『アクロス・ザ・スパイダーバース』

 『ザ・フラッシュ』に関しては、ヒーローの人命救助と別世界の自分=自己との対話という正攻法ぶりが好印象だった。(なのに『バビロン』っぽい色気を見せて……というのがこの記事の最初に書いたこと)

 版権越境型マルチバース系作品、並行宇宙といいながら実際には一部の作品は過去の作品と現代の作品をブリッジするという時系列的なしかたで世界を繋げているので、どういうこと?と思う。「もはやポストモダンのエンタメにおいては直線的な世代論もフラットな物語として並置して語らざるをえない」という解釈ができる。しないほうがいい。単にカムバックする俳優の年齢の問題だともいえる。CGで若返らせることができないという予算の問題でもある。

 『アクロス・ザ・スパイダーバース』も事前の評判どおりみごとなアニメーションだった。

 〝 フィル・ロード&クリストファー・ミラーの作品がずっと親子の話なのは、それがハリウッド映画としてオーソドックスだからに過ぎず、映像表現に力を入れたいためにストーリーを割り切っているのか〟と邪推してしまうこともある。けれども、『アクロス・ザ・スパイダーバース』においてその主題の描き方に過去のフィルモグラフィから見たときに変化があったことは確かなのだ。だから製作者がどういう理屈で親子の物語を繰り返しているのかはさほど問題ではない。

 マイルズとグウェンの会話を、地元の親のもとでくすぶっているやつと隣町ですっかりステップアップしているやつの会話、だけど実際はマルチバースを隔てた話である、というふうにしているのは、やっぱりちゃんとしていると思った。

 スポットもミゲルも結構好きなので結末はどうなるのかな……と心配している。前作でキングピンは生きて捕まっていたから大丈夫かな。キングピンは続編で再登場しないのかな。スポットがマルチバースから妻子を連れてきてくれそうだけど。

 規模やジャンル(SF)でいうと『ほしのこえ』のほうがふさわしいたとえだった。

音楽:RHYMESTER『Open The Window』

 みんな、新曲の宇多丸のヴァース聴いた? 勉強して書いたリリックというとなぜか悪いふうに聞こえるけれど、も、勉強大いに結構じゃないですか。勉強万歳じゃないですか。知識を詰め込んで的確な韻を踏んでいるラップが今のヒップホップでどれだけ聞けますか。「If knowledge ain't your power, what the fuck is you rhyming for?」ですよ。

 すでに発表されていたタイアップ曲が多く、新曲が三つだけ、事前にコンセプトを掲げて作られたアルバムでもない。ということもあって、世評(ツイッターのこと)では低評価も見かけるのだが。「商業的」といわれるタイアップ曲への多少のもやもやは、発表時から何回か聴いてすでに消化していたことが助けになっていたのかもしれない、私の場合。

 全曲解説ではDさんがこういっているので、次回作も楽しみだ。BLM運動についてリリックのなかで言及があると思っていたのだけど今回はなかったので、次回ということになるのかしら。あるいはソロプロジェクトのほうか。

 これはいい意味で言うんだけど、このアルバムはヒップホップの拡大解釈だと思う。だからこそ次はしっかりヒップホップをやらなきゃいけないんだけど、ヒップホップの拡大解釈として俺らにしかできないことをやれてると思うね。

全曲解説

 ニシダの文学好きの側面から気になり始めた。アトロクのブックライフトークに出ていたときも面白かった。

 労働者であるニシダが「ストライキをする権利があるんですよね?」と聞いたら、雇用主であるサーヤが即座に「そしたらクビですけどね」と返すくだりがある。私は左翼なので、聞いていて涙が出てくる。(例えば、声溜めラジオ#61)

 最近の動画でニシダが大学生のとき『資本論』を読んだと言っていて、ほえーとなった。

 國分功一郎と千葉雅也の対談本で言及されていたジョルジュ・アガンベン『身体の使用』を読んでいる。われわれはもはや言葉に規定される存在ではなくなりつつあるのではないか、という紹介のされ方だったのだけど、まだそういう話は出てきていない。

 第二部から読み始めちゃったのが普通にまずかったのかな。第二部「存在論の考古学」では、ハイデガーをときおり参照しながら、アリストテレスの存在論、中世キリスト教の三位一体の存在論、ライプニッツ・スピノザの様態の存在論を辿る……みたいなことをやっている。

映画:『飼育』

 大江健三郎原作、大島渚監督作品。

 横方向のパンやドリーが全編で使われる。たとえば、翌日に出兵を控えた青年が疎開にきた女学生を襲うシーン。上からのアングルのロングショットで、ずーっと右にドリーしていき、手前にあった木陰が途切れて全貌が明らかになる……というカット。あるいは、村の本家を正面に、左に米倉、右に捕虜を閉じ込める蔵というロケーションでの、本家と農民同士の大立ち回り。

 そのあとに、村人が黒人に少年を殴らせるシーンがある。ここでの転調が鮮やかだ。先ほどまでの横方向の映像ではなく、殴打するたびにカットがぱっ、ぱっ、と変わっていく映像が鮮烈なのだ。

 SIRUPのリリック。マイクリレーの最後に精神性の話がはじまってぎょっとするのだが、こういう驚きこそ音楽にリリックをのせることの意義を教えてくれる。その「思想」の強弱や正誤以前にある意義。

 ウィリアム・ゴールディングの小説。『ロビンソン・クルーソー』や『十五少年漂流記』のような〝孤島漂流もの〟なのだが、ただし少年たちが対立し分裂していくさまを描くという悲観的な作品。

「誰々はそれそれという仕方で「よきもの」を捏造しているが、私はその手に乗らずにこれこれの方法でやっていく」みたいな事をいおうと、結局これこれの「よさ」を捏造しているじゃん、という蟻地獄。

 じゃあ価値判断ぬきの議論ならいいのか。そうじゃない。不満は残る。その論をつきつめて論するにせよその論とはちがう論をもってきて論するにせよ、ある論を論するという論でその論を論でなくそうとしていることに変わりはない。いやずっと論で「いい」と思ってんのかよとおもってしまうから。

今月の下書き

 クリード三部作、現時点では宇多丸のフィルターを通すのがいちばん面白いという感想になる。『アフターサン』も原宿のフィルターを通すのがいちばん面白い。
 こういうのは「他人(権威)に自分の評価を左右させる」とかで咎めるひとがいそうだ。しかし、星の数ほど映画があって一本もそういう感想を抱く作品がない、というのもありえないことだろう。

反対意見の想定。すかさず自己正当化。

よくわからないがなぜか身を削って扶養してくれる赤子が隣にいるような感覚

動物化の時代における家族像ってこういうことでしょう。

 〝正気〟でいる人は、適当なしかたで喋るときに喋り、黙るときに黙る。
 教室でまず学ぶのは、先生が喋っているときに生徒は黙ることだ。相手が話しているときは話を黙って聞き、あとから質問するという仕組みを学ぶ。教師に「○○くんはどう思いますか?」とか「これがわかる人はいますか?」と尋ねられた瞬間に、生徒たちのなかの一人として「はい!」と自分の手を挙げる。
 ここにあるのは集団の状態から特定の一人を対象化するというエロティシズムに似た事態ではないだろうか。しかし、ごく健やかなエロティシズム。

 それぞれの段落で別のことをいっている。考えがまとまっていない。

「自我を傷つけるものを遠ざけておくすべを心得ている、ナルシシズム的な首尾一貫性」をもった女性を魅力的に思う、という話がフロイトの「ナルシシズム入門」にあり、ステディな関係になるなら独我論者がいいという欲望や、フィクションの存在としての緋田美琴を好きな理由の説明の一つにはなるのかもしれない。

 ナルシシズムに興味がある。

 そういえば、「自己愛性パーソナリティ障害」という語を用いて、特定の性格や振舞いをする人を過剰に敵視するツイートがTwitterにある。検索してみてほしい。あの言説はどこの発祥なんだろう。

 展望がない私にたいして、父は祖父の話を引き合いに出して、誰かに甘えて助けてもらうことの大切さを説く。敗戦直後、子供だった祖父は、両親を亡くして路頭に迷っていたが、親戚に甘えて助けてもらって生き延びたんだ、という話。私は、現在は戦後でないのであって甘えることのリアリティがそもそも祖父とは違うと思ってしまう。
 結論の「誰かに甘えること、助けてもらうことを学べ」だけいえば適当かつ実用的な助言である。そして例示が成功しているかどうかはその実用性にとっては些末なことだ。にもかかわらず祖父を例に出されると、それと同じリアリティで同じことを繰りかえすことはできない、と歪に強く反応してしまう。
 たぶんこれは家族の歴史というものを表している。大江健三郎『万延元年のフットボール』の意味がすこしわかった気がする。

『アクロス・ザ・スパイダーバース』、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』では、年長の世代からルーツの言語を話せるかを問われることが子供世代のプレッシャーになることが描かれていた。思い出せば私も大阪に帰省するたびに親戚から「東京でも関西弁は出るのか」とたずねられる。これも似たことなのかもしれないなと思った。

 家族。

みんな地震で死ぬ、あるいは行方不明者になるのかと思うと

つらい。大地震がいつか来るのになぜここにいるのか。みんなはどう思う?

今月の分はおしまいです。暗い話で終わっちゃった。



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