2024-05「投げキッスは最後にくり返されるだろうと予想しつつ」

今月のツイートまとめ。


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 コロナウイルスに罹ってしまった。半年ぶり二回目。前回より症状はマシだった。唾が呑み込めないほど喉が痛くなったり、高熱と悪寒で苦しんだりすることはなかった。大阪に行く予定が取り止めになってしまったことが残念だった。

オモコロ:「NYO SWORD」

 自宅療養中の娯楽としてオモコロチャンネルのイベントを配信で視聴しました。

 イベントでライブ披露されたシッコマン イン ザ パーティによる「NYO SWORD」。ラッパーたちが各々のスタイルを見せつけており、ちゃんとマイクリレーの醍醐味がある。なぜライターたちが各自のラップスタイルをもっているのかは不明。円盤が出たら、メイキング映像か制作秘話を語る座談会を特典につけてほしい。

 mimi-Zu(加藤さん)の「一度二度の排尿じゃ枯れねぇダム/膀胱シドー ベホマシステム」はパンチライン。そして、フロウや発声にどことなく1990年代後半・2000年代前半っぽさがある。音源のみならず、ステージングもかっこよかった。アンダーグラウンドな現場を経験してきたラッパーの風格があった。

 リリース直後の興奮のなかで、あわよくば正統性も担保したいという気持ちが湧いてきた。すると、頭の中でこういう妄言が思いつく。

 日本語ラップの創始者の一人は、いとうせいこうである。それは出版業界の編集者によるラップ・ミュージックの試みであった。そして四十年後、WEBメディアの編集者五人がマイクを握った。シッコマン イン ザ パーティーは、日本語ラップの系譜──ラップするエディター、そのど真ん中を行くヒップホップ・クルーなのである。

 昨年10月のコロナから回復した直後には『ザ・クリエイター/創造者』を見たのだった。それと同じことを繰りかえした。感染症の療養を終えたばかりの沈鬱な気分には、ギャレス・エドワーズ作品の黙示録的な世界観がふさわしい。さっきまでいた世界は、怪獣の進撃や兵器による爆撃によって破壊され尽くしてしまったという気分。

 いや、単に、4月末に『コング×ゴジラ 新たなる帝国』を見たから、シリーズの出発点を再確認するために見返しました。なんなら『ゴジラ対ヘドラ』も見た。1970年代の日本映画を見ようキャンペーンも兼ねて。

 『絆光記』について感想の記事を書きました。

 社会に抵抗するように内にこもり、私的なノートを書く人物。私が昨年から触れ始めた秋山駿の評論やポール・シュレイダーの映画がくりかえしとりあげるような人物像だ。これをさかのぼれば、ひとつには『地下室の手記』に辿りつく。ほかにも『テスト氏』も読んだりしていて、ぐつぐつと煮立っています。はたして、煮立った先に何が残るのか。

 マンスーンさんによる「◯◯のフリーレン」シリーズを嫌いになれない。投げキッスは萌えです。誰かフェルンのコスプレをして次のステージに進ませてください。シュタルクのコスプレをしてください。後生だから、おねがいします。あまり人にコスプレを頼むものじゃないか。

 1979年の日本映画。桃井かおりが主演を務めている。大学生の主人公・まり子が、二人の男性との色恋で右往左往する話。

 冒頭、まり子が借りるアパートの部屋から映画がはじまる。彼女とその同棲相手は明け方から情事をはじめる。中盤、まり子は中絶の手術を受ける。産婦人科から帰ってきて、部屋の隅でうずくまりおもむろに煮干しと菜っ葉の野菜を齧る。そのひとりの姿の寂寥感。しかし、終わり方はからっとしている。別の場所へ引っ越すのであろう、まり子が部屋を空けるところで映画は終わる。

 二人の部屋からはじまり、一人の身体になったばかりの一人の部屋を経て、無人の部屋へ、という変遷。

 ギャグもいいし、ドラマもいい。絵もいい。

映画:『猿の惑星/キングダム』

 クラシカルな冒険譚に心躍った。とくに前半がよい。幼馴染三人の友情も心を掴まれたし、思慮深いオランウータンの賢者・ラカとの出会いによって主人公の青年・ノアが世界のことを知る過程も胸を打つ。そして、いかなる場面でも、画面に映っているのは類人猿ばかりだ!と新鮮におどろけるのが楽しい。

 しかし、後半になると、単体の物語としての求心力は弱まってしまう。たしかに、『猿の惑星』シリーズならではの文明論的な示唆に富む話が語られ、冒険譚とはまた別の楽しさが用意されている。だが、後半から出てくるテーマは結局のところ三部作全体を通して語られるものなのだ。最終的な決着が持ち越されることが明らかなので、心が離れてしまう。

 とはいえ、単体の映画としての完成度は高い。こういう体幹がしっかりしたエンタメ映画をもっと見たいと思いました。過去作を見ればいいのかもしれないけど、新作として作られてほしいです。

 着実に仕事で結果を残す咲耶さんとそれを労わるシャニPの落ち着いた雰囲気が、美琴さんとPのそれに似ている。これは発見だった。

 どちらも、283プロ以前の過去のキャリアでの経験値を伺わせるものだといえる。ただ、美琴さんの場合はシャニPが後をついていくイメージで、咲耶さんの場合はシャニPと二人で新たに築いたイメージです。

映画:『Keiko』

 1979年の日本映画。先述した『もう頬づえはつかない』と同じATGが製作。同年の一か月前に公開している。どちらも、主人公の女性が何人かの男性との関係で悩みながら生活する姿を描いている点で共通している。ただし、異なるのは、本作の主人公・ケイコは女性の同僚と付き合うことになるということだ。

 特筆すべきは、女性の同性愛を描いていること自体ではなく、それをポルノグラフィックな主題として(「だけ」、と留保をつけてもいいのかもしれませんが)描かず、女性二人の生活を描いていることにある。

 たとえば、同棲をはじめるにあたって新居の畳を雑巾がけしている場面。恋人のほうは真面目に拭いているのだが、カメラが水平にパンするとケイコは寝そべりながらテキトーに拭いている。恋人は「なにやってんねん!」と戯れに雑巾をなげつける。かわそうとして姿勢をくずしたケイコは腕を胸の前で交差して「シュワッチ!」といって応戦する。

 このような場面のフラットさを含めたいくつかの点で、同じくレズビアン女性の物語である『燃ゆる女の肖像』(2019)を連想した。奇しくも、私が鑑賞した日の五日前に、他のアカウントが同様の感想をツイートをしていた。ただし、この比較には、『Keiko』のラストカットが誰の視線であるかを類推できるようになる/せざるをえなくなる副作用があるので注意が必要。

映画:『サード』

 1978年の日本映画。『もう頬づえはつかない』と同じ東陽一監督、ATG製作作品。脚本は寺山修司。主人公の高校生・〝サード〟の少年院での模範的な集団生活と、そこに入所するきっかけとなる殺人に至るまでを回想で描く。

 原作の中篇小説は語り手のモノローグのかたちをとっている。映画では、少年院の個性的な在院者たちが加わりアクセントになっている。脱獄ものではないが、共同生活のようすはジャンル的な楽しさがある。それに加えて、寺山修司らしく(と、いっていいのか不勉強なのでわからないけれど)映像と台詞ともに語り口がいささか風変わりで、見ていて飽きない。

 〝サード〟は、少年院に入る前、高校の同級生四人組で売春をおこなっていた。女子生徒二人が、何もない地元の町から抜け出すための資金が必要だといって、〝サード〟とその友人にいわゆるポン引きの役目を持ちかけたのだ。彼らは二人一組になって初体験を済ませたあと、土曜の夜に都会に出る。そして、売春の客を見つけてホテルまで連れていき二万円で身体を売る仕事をはじめる。 

 この四人組は、都市部へ向かう電車のなかで並んで座って揺られたり、終電で地元まで引き上げてから真っ暗な駅前の広場で円陣を組んで「行くぞ!」「おうっ!」とかけ声をかけたりする。やっていることは売春とその斡旋なのだけれども、そこにはアメリカン・グラフィティ的な青春物語の空気が漂う。これをどう受け止めるか。

 この売春業も、殺人という破局を迎えるのではある。ヤクザの客を掴んでしまい、女子を連れ込んだまま部屋を出ないことにしびれを切らして部屋に乗り込んだ〝サード〟が乱闘の末にヤクザを撲殺する。だが、もちろんこれは、売春斡旋をおこなう青年が殺人者として破滅する姿を描く訓話にはならない。

 売春斡旋や殺人にたいする罪の意識は出てこない。〝サード〟にとって、問題は、売春斡旋でそうしたように、こんどは少年院での生活をうまくやり過ごすことなのだ。この映画において罪悪感は機能することがない。少年院での生活は、売春と殺人にたいする罪責にならない。だからこそ、青春物語的な逸脱と監禁状態による閉塞感の釣り合いがとれていると感じられるのだろう。この感想は「退廃的」のひとことで済む気がするけれども。

 『フュリオサ』の公開に合わせて見ました。いわゆる履修、あるいは予習と呼ばれる行為。

 『マッドマックス2』で冒頭から続々とゴキゲンな見た目の車が登場するのを見て、「レゴブロックで再現したい!」という欲望が湧いてきた。ひさびさのことだった。

 実際に世の中のレゴビルダー諸氏はマッドマックスのビークルを再現してつくっている。マッドマックスがレゴの主題としてポピュラーなのは前から知っていたけれど、今回実際に見てみて、なるほど確かにこれはレゴで作りたくなるわけだと理解できた。だけど私は車を作るのは得意じゃなかったから、実行に移すかは検討中。

 主演 KREVA、脚本・演出 小林賢太郎のコントライブ。ラップ、ターンテーブル、サンプラーといった音楽と、言葉遊び的なコントとの融合の試み。

 「透明な学校」というコンセプトが面白かった。つまり、KREVAは、実際の学校ではない場所でヒップホップを学んだということ。ヒップホップの先人たちから教えを受けることは、「透明な学校」に通うことだという捉え方。

見たもの・読んだもの

 今月は特に下書きがなかった。とはいえ感想をツイートしていないものがいろいろあるので、それをまとめます。

映画:濱口竜介『親密さ』

 濱口竜介監督作品。劇団が舞台を上演するまでの話と、その実際の舞台のようすを見せる。四月末の『悪は存在しない』の公開にあわせて、いくつかの過去作が再上映されていた。この一作しか見られなかったのが残念。他の短い作品より上映時間が五時間もある本作を優先して劇場で見ておこう、という判断もあった。

 投げキッスは最後にくり返されるだろうと予想しつつ、しかし今度は男の方がやるのは予想外だった。さらに車両を駆けぬけながら投げキッスを送り合う。ますます驚きつつ、その光景につい顔がほころんだ。五時間の上映時間を見てきた観客へのご褒美かな、と思った。

座談会:「万博と70年代の文化」

 NDLで秋山駿関連の文献を閲覧できることがわかり、いろいろと漁っていました。なかでも「万博と70年代の文化」は、秋山駿が岡本太郎と共に出席していて興味を引いた。ここでの秋山は、岡本太郎を前にしても「万博と私が結びつかない」といういつもの調子だった。

秋山 ぼくは万国博が自分にとってどういう意味を持っているのかということが、うまく見出せないんです。[…]われわれは都営住宅とか、団地みたいなところに住んでいて、ホテルがどんどん建つということが、自分とどんな関係があるのか、ハッキリと考えられないんです。何かそこで大きなことが行なわれていると思うんですけれども、その意味が、自分にとってはよく考えられないんです。
 ですから、万国博というのは、クラシックな定義を使うと、社会から生まれながら、社会の上に立って、しかも次第に自分を社会から疎外していくもの、というような意味を持っているんじゃないかと思うんです。

『'70年への対話 第3 (現代と未来をめぐる論争)』(毎日放送、1970年)、166、167頁

 座談会のなかでは、万博がもつ意味として「祭り」、「縁日」、「呪術」としての機能がもちだされる。

 だが、秋山はそれでは納得せず疎外論を手放さない。いわく、万博の「祭り」で体験できる共同性は、いっても管理社会における抽象化された生活から出てくるものである(175頁)。そして、この抽象的な生活において、人が集まるだけでは人と人は結びつきれないのだ、と。

秋山 […]いま、縁日のことをおっしゃったが、人がなぜそこへ出て行くのかというと、ぼくは、それは人が集まるところで、人に触れたいという要求が強いからだと思うんです。ところがもしそれが都会の生活でしたら、人に触れる、人の集まるところで、自分もいるということが、満員電車という皮肉な現象でできていて、それすらも、肯定できないところに、われわれがいるんじゃないかと思うんです。

同、185頁。

 結局のところ、万博の「縁日」での人混みも同じようなものにしかならなのではないか。たいして岡本は次のように言う。

岡本 お祭りというか、縁日というのは、大勢の人が集まりますね。大勢の中に入ってホッとすると孤独感を味わう。だから自然に帰るというんじゃなく、大勢の中に入ってしまうことによって、逆に孤独になって、それでまた救われた気になるというイリュージョン。これは本物じゃないんだけれど、そこでごまかしができる。いまは、たいへんな矛盾の時代です。ますますひどくなって行くだろうけれど。

同、187頁。

 さらに、岡本はこの逆説的な孤独がさらに逆説的にインターナショナルなものに結びつくのだという(188頁)。都市から人のいない自然へと逃げるのではなく、まさにその人口が集中する都市のなかで救済を試みる。その「祭り」が国際性を勝ち得ると信じえたのだ。

 秋山はこの座談会のなかで、各人が孤独に抽象的な生活を送っていることを互いに認識しあうことによってのみ人と人が結びつくのではないかと提示している(185頁)。この唯一の積極的な提案は、認識という契機をどう捉えるかによるかもしれないが、「人はみな孤独に生きている」というインターナショナルなものへの結びつきの戦略とたいして変わらない。

映画:山下敦弘『水深ゼロメートルから』

 水泳の補修として呼び出された生徒たちは、プール掃除を命じられる。ふだん学校では話すことがなかった彼女たちは、それぞれの問題を抱えていた……、という『ブレックファスト・クラブ』の系譜。原作は高校演劇。

 太陽がのぼる空のショットからはじまり、校舎を映す淡々とした冒頭。あるいは、プールの壁の水色と床に散らばる砂の色、制服のシャツの白色など、色彩はたのしい。ほかにも、排水溝の赤い錆のアップを観客に見させるなど映画らしい試みもある。

 ただ、会話劇の進み方にのりきれなかった。登場人物が感情をあらわにしようがそれはほとんどが社会・学校の問題として提起できるものに思えた。そのような狭い話のなかで人物の内心や背景が開示されても、興味をもてなかった。
(寓話的なものとして見れば違ったのかもしれないけれど)

 ただ、結果的にはこの映画化は成功している。あの雨のラストシーン。複数の舞台に同時に雨が降りはじめ、映像の色が変化する。そして、対話の末に、ある人物が今まで見せようとしなかった姿をついに開示する。

 このラスト数十秒はとても見ごたえがあった。ぎりぎりのところで会話劇と映像が二つの方向で同時に勝利をおさめる、スリリングな終わり方だった。

小説:大江健三郎『日常生活の冒険』

 1964年の小説。作者本人と重なる語り手の作家が、その友人・斎木犀吉の縊死に至るまでの生前の冒険を語る。犀吉という青年の生き方が主題となり、彼に対して語り手が示す友情や反感が作品の基調となる。

 犀吉はいわゆる文学的な意味でのモラリストとして現れる。既存の規範を尊重する者ではなく、独自のモラルを発見し実践する人物である。彼はモラルについての考えをカードやノートに記し、しばしば友人である語り手に「吃りがちの甲高い早口」で自分の考えを披歴する。

 この犀吉の饒舌は次のように表現される。「しゃべればしゃべるほど、自分の核心から遠ざかるのを感じ、それからはコンクリート床のうえで逃げのびようとしているモグラさながら、しゃにむに恐怖と絶望の疾走をつづけ」る(96頁)。モラリストのモグラはほんらい外に出ることはできない。彼は、思考形式が孤独な瞑想に特化しているために、社会から弾き出されている。

 ただし、彼は内省的であるだけでなく、野心に満ちた自信家でもある。犯罪も厭わず、性の求道者でもある。そして、演劇で大きな仕事を残そうと計画を立てる。語り手を書斎から冒険に連れ出すのはきまって彼である。

 犀吉のようなモラリストは現実には存在しがたい。それはたとえば『テスト氏』の序文において作者自身によって「この種の人間の生存は現実の世界では数十分以上続きえないだろう」とあらかじめ断られているように。しかし、文学やフィクションは、つねに、このような実際に存在することが困難である人物をつくりあげる力が発揮される場であってほしい。

 今月の分は終わり。来月はもう少し投げキッス的な要素を増やしていきたい。

😘〜💕






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