2024-03「距離を保って友人の感傷的な態度を切り捨てると同時に、ひとつの画面のなかに二人が存在する事態を伝えようとする」
エピグラフにぴったりの一文を掲げて、今月もまとめる。
引きつづき、秋山駿の本を読み、1970年代の日本映画を見ている。
今月のツイート
七草さんって妹さんと暮らしているんですよね~、っていう。それだけじゃすまない。
いま読み返すまで気づかなかったんだけど、寮に泊まったはづきさんが千雪さんの服を借りていますね。これはたまげた。
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多摩ニュータウンの一日を、三人の女性の視点から描く。終盤、日本語ラップに合わせて踊るシーンがあり、とてもよかった。「この映画はここで終わるべきでは!」と思ったのだが、これは単に私が日本語ラップを贔屓していただけだった。あのシーンで終わったら、作品の構造が静的なイメージから動的なイメージへの変化ということになってしまう。ふたたび静的なイメージに戻ることのほうがずっとふさわしい。
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シャニマスの6thライブがあった。大量の告知が流れてきた。
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『学園アイドルマスター』が発表された。見た目や服装だけだと藤田ことねさんが気になる。しかし、いまの私では、ことねさんの拝金主義的(?)なマインドとの距離をうまくはかることができる気がしない。
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アカデミー賞の発表があった。『PERFECT DAYS』が国際映画賞を獲るところも見てみたかった気がする。
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シャニマス:【Good-bye ラブレター】三峰結華
【Good-bye ラブレター】が実装された。六月のブライダル以外で、こんな奇襲があるとは思ってなかった。
かりに婚姻制度一般、あるいは現状の婚姻制度にたいして懐疑的な態度をとるとするなら、コミュの主軸が結婚式でなく婚約に置かれていることは、相対的にではあるが、よかったのかもしれない。ただし、そのような態度をとると、三峰さんが自らを「優良物件」と称する冗談に多少の違和感をおぼえることになる。物件にたとえるなんてなんという自己疎外だろう、と。
三峰さんにとってプロデューサーは婚約の可能性の条件であるらしい。結婚とはたいていの場合誰かと一緒にいることであるが、三峰さんはその一緒にいることをプロデューサーから教わったからだ。婚姻制度に懐疑的な態度をとることは、この可能性の条件にたいしても眉をひそめることを意味するだろうか。必ずしもそうではないはずだ。
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Mummy-Dの1stソロアルバムが出たよ~。
「Hip HopはLoveを歌えるはずなんだ」という信念。
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漫画:U-temo『今日はまだフツーになれない』
二次元の女の子が好きな高橋と、漫画を描いている山下、二人の高校での出会いにはじまり、卒業後、高卒のフリーターと漫画家としての二人の生活を描く。
この作品は、友人同士が互いを見くびったり、反対にその傲慢を見透かされたりする瞬間を描いている。友情にもとづく甘咬みでありながら、その人なりの思考のスタイルとプライドをかけた、ささやかな対決。私はこの対決に弱い。
もっとも熾烈な対決が行われたのは第14話であろう。高校を卒業してしばらくして、山下は高橋の高校時代の友人に呼び出される。そこで、高橋が現状の生活をしていることには山下が影響を与えているのではないかと咎められる。山下は漫画家として活動しているが、高橋はどうなんだ、と。それを受けて山下は、自分が高橋を進学や就職から引き止めているのかもしれないという疑問を高橋に伝える。
高橋の返答は「うぬぼれんな」だ。この作品の二人はここぞという瞬間に相手を睨むのだが、その睨みは、しみったれた怨恨の感情を含まず、とても乾いている。なかでもここで山下の自惚れに抗う高橋の目は、「あたしはあたしの考えで あたしが決めたように生きている ムカつくねんけど そんなん思われんの」という言葉も相まって、その純粋でドライな睨みによって自分の存在のしかたをみごとに物語っていた。
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「普通とは何か?」と問うてみせる作品は数多く存在する。この作品が特出していると思われるのは、「普通であること」という主題を「一人/二人でいること」という方法をもちいて描いているところだ。たとえば、第12話のある一コマにそれは表れている。
まず、次の引用は高橋のセリフである。ここで問題になっているのは「普通」にたいする問いかけではない。
高橋が吐露するのは、自分ひとりがフツーでないこと自体ではなく、ひとりだけであることのさみしさだ。
この高橋の独白を聞いていた山下が胸の内でいだいた感想は「おもんな」である。山下は高橋のセンチメンタリズムから距離を置く。このときのコマは横長で、カフェの窓際にならぶカウンター席の背景と、そこで横に並んで座っている山下と高橋の全身を描いている。いわばロングショットだ。このロングショットは、距離を保って友人の感傷的な態度を切り捨てると同時に、ひとつの画面のなかに二人が存在する事態を伝えようとする方法でもある。すなわち、フツーでない者同士がこうして二人でいるのだと、高橋のさみしさに応答するものでもある。
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映画:「部屋の中の人」もの
ポール・シュレイダーの『魂のゆくえ』を見た。主人公の牧師が、ある夫婦との出会いをきっかけに、環境破壊や現状の教会の体制に問題意識を抱き、悪化する持病に苦しめられながら懊悩する話。題材のわりに撮影、編集、画面の色調はクールなので不思議な印象がのこる。
シュレイダーは自作のモチーフを「man in the room」と呼んでいる。部屋のなかで罪悪感と格闘したり、世を憂いたり、その考えを手記に書き留める一人の男が出てくる話だ。シュレイダー作品にかぎらず、「部屋の中の人」はひとつのジャンルとして考えられるのではないだろうか。
たとえば、私は『PERFECT DAYS』をこのジャンルの枠組みのなかで鑑賞したといってもいい。この場合、主人公・平山が木漏れ日の写真を撮っているのは手記のかわりだということになる。
ほかにも、ジム・ジャームッシュの『パターソン』はどうだろう。バス映画といったほうがふさわしいだろうけど、主人公・パターソンの家の小さな物置のような書斎も登場するシーンはわずかだが印象ぶかい。机の脇に詩集が並べられていた。あの部屋でパターソンはノートに詩を書き綴っていた。
部屋のなかで文章を書く寡黙な男のすがた。そのイメージを理想化するのは単に反転したマッチョイズムではないのかという疑いが残る。おそらく、観客の受容のしかたについていえば、その指摘は当たっているだろう。
しかし、必ずしも「部屋の中の人」ものであるからといって、男性原理にもとづく作品であるわけでもなかろう。たとえば、シャンタル・アケルマン『私、あなた、彼、彼女』を、このジャンルに入れることもできるだろう。冒頭、ひとりの女性が白いマットレスのほかは何もない部屋にいるようすを長回しのショットで映す。彼女は、袋入りの砂糖をスプーンですくって食べたり、何枚もの便箋に手紙を書いている。
そのあと、彼女はトラック運転手の男や、セックスの相手である女と出会うことになる。これらの出会いは、さっきまで彼女が「部屋の中の人」だった事実を長い時間をかけて刻みこまれたあとの出来事としてのみ見ることができる。
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ノクチルのインタビューのなかで、初登場時から今までの変化を語っていた。和久井さんは、「今まではいつまでこうしていられるんだろう、みたいに環境に対して受動的な感じだったのが、今回[CANVASシリーズ]は今日より明日!みたいな」(76頁)と言っている。また、岡咲さんは、ノクチルの初期の雰囲気を「きっと」感が強い、と表現していた。「このまま進んでいけば、きっとどこかに……みたいな」(同)。
その「きっと…」的な気分は、四年前の私の停滞した気分と一致していた。創作物と社会を安易に結びつける見方にかぎりなく近いけれども。そして、それから四年間の各アイドルごとの成長は、未だに「きっと…」のさなかにいる私の気分と乖離していくものでもある。
辛気臭い話になるので別の感想を。シャニラジだとアルストロメリアの三人のお話がすきなのだが、記事でも三人の雰囲気が伝わってきてよかった。アルストロメリアという一つのユニットとその世界観について、三人がそれぞれの角度で説明を加えていくので、読みごたえがあった。
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ニュース:ゴトゴト石
関東の大学生たちが、高知の山中にある願掛けの名所であった「ごとごと石」にいたずらをして、罰金刑を課されたというニュース。
12:00あたりからを聴いてほしい。この行動に至るまでの「細部を知りたい」「何が君たちをそうさせたのか聞きたい」という原宿さんの願望に私は共感をおぼえる。これに類する何の利益ももたらさない犯罪・迷惑行為のたぐいは、報道されなかったり発覚していないだけで星の数ほどあるのだろうけども、その一例がこうしてふっと目の前に浮上すると、否が応でも興味を唆られてしまう。
この興味はやはり犯罪と文学を結びつけるものだと思う。原宿さんの発言につづいて恐山さんがいみじくも『金閣寺』と連合赤軍を引き合いに出すとおり、犯罪文学的な興味を刺激されて、若者の集団の愚行でしか表現されえぬ何かがあるかのように思えてしまう。ゴトゴト石と犯罪行為を中心にした集団の形成。その集団の意識が、東京から高知までを移動していたのだと空想が膨らむ。
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映画:『海がきこえる』
Bunkamuraル・シネマでの上映。予約するときから連日満席だということは知っていて、「ジブリはすごいなあ」とぼんやり思っていた。実際に劇場のエレベーターを降りたら人がずらっと並んでいて、想像以上の賑わいにおどろいた。
加えておどろいたのは、若い観客が目立つことだ。カルチャーにめざとい若者たちが集まりました、というなかなか味わえない雰囲気だった。そして私もその末席を汚しに馳せ参じたわけだった。同質性のある観客たちがひとつの劇場に集まり、同じ映画を見る醍醐味。劇場のようすも含めて、たのしい映画体験だった。
『海がきこえる』は二回目の鑑賞だった。主人公・杜崎が里伽子とはじめて挨拶するシーンで、ピン送りが用いられていた。自己紹介を終えて、別れ際、奥の杜崎に合っていたピントが手前の里伽子の顔に移る。ついつい里伽子に目を向けてしまう視線の動きを、私たちも強制的に追体験する。ラブストーリーに必要な説得力をもたらしている。
再びピン送りが用いられるシーンがある。杜崎と里伽子が口論をする直前の場面だ。里伽子に話をつけようと屋上をあとにする杜崎から、手前に置かれたスプライトの空き缶にピントが移る。誰の視線の動きの再現でもないが、人間関係のドラマに物質的なものが差し込まれることで、あまり熱くなりすぎないように温度を調整するかのようカットだった。
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スター・ウォーズの新ドラマシリーズの予告映像が公開された。エピソードⅠよりも。
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【雨・雨・電・電】の感想を記事にしたいと思って、ずっと温めている。今年は投稿したいな。
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U-NEXTの毎日無料で数話読める作品のラインナップに『トリコ』が入っていた。グルメ界編の「エア」まで単行本で買っていたのだが、その後を読んでいなかった。
『恋より青く』はTwitterで存在を知った。
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たとえば、今年のアカデミー受賞作『オッペンハイマー』のページからキャストやスタッフのページを経由してさらにまた別の作品のページを経由して、それをくり返して最終的に『変な家』までたどり着けるのか。
シネフィルたちが映画知識を自慢しあうちょっといけ好かないゲームになる可能性が大いにあるが、それでもお遊びとして楽しそうではある。
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シャニマス:「GOTCHA」
あさひ、めぐる、樹里による楽曲『GOTCHA』が公開された。リリックもトラックもRIP SLYMEが提供している。
ヒップホップのパーティーチューンとしての側面にフォーカスしているのは、アイドルの楽曲として最適解だ。特にフックのリリックがよい。シャニマスのアイドルとそれを応援するファンの関係を歌っているようでもあり、フロアを盛り上げることに徹するMCの矜持を歌っているようでもある。
はやくライブが見たい。「振る舞い」をくり返してマイクロフォンナンバーを名乗り上げるところとか、カッコよすぎて大変だと思う。
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にちかW.I.N.G.をはづきさんの側から見たらこうなるか〜という感想。この姉妹が立たされている状況、あまりに難しすぎる。
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今月の下書き
難しい。
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首相も大統領も、天皇も教皇も三人称視点ではない。そう考えるとすごい。もしかすると彼らは三人称視点なのかもしれないけれど。だとしてもすごい。
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日活ロマンポルノといえば、この回の恐山のつっこみが思い出される。
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漫画『恋より青く』にそのようなシーンがあったので、思い出した記憶。受験シーズン、卒業シーズンならではの記憶。
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発達障害の当事者研究。頷けるところが多いが、立場上まだ問題として顕在化していないので、うーんと唸っている。
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眼鏡のレンズを拭きながら考えたこと。
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言わないだけで別の基準をもっているのだろうけれど。
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それが型通りなものに画一化することは問題ではなく、回答フォームに記入する方式にたいして、何かを削がれる。
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映画:中上健次
編集者によって手が加えられた原稿を秋山駿が「原文回復だ」といって助けたことで有名(?)な中篇。
ちょうど映画『祭りの準備』(1975)を見ていたら、中上健次の作品世界と近しいところがあり、このイメージを借用して中上の小説を読めるかもしれないと思ったのだった。父の影、母の支配が描かれることもさることながら、終盤、町の路地をすーっと映す後ろ向きのドリーショットがあって、それがまさにナカガミエスクだったのだ。
しかし、『祭りの準備』のイメージがふさわしいのは『枯木灘』のほうで、「灰色のコカ・コーラ」と近しい映画は藤田敏八『十八歳、海へ』(1979)のほうだった。こちらは中上の別の短篇が原作の映画で、東京を舞台に予備校生たちの無軌道な遊びを描いている。
『十八歳、海へ』の序盤には、鎌倉の豪邸が登場する。明け方の海で主人公の男女が太宰治をまねて心中ごっこをしている。すると浜辺を散歩していた老人がその様子を目撃する。彼は「ばか!早まった真似するな!」と叫び、砂浜に着物を脱ぎ捨て海に入り二人を救出する。若者たちの破滅的な行動に白いふんどしの老人が介入するのがなんともおかしい。
老人は好意で警察には通報せず、男女を近くの自宅に招待する。見晴らしのいいプール付きの邸宅だ。男女はさっき出会ったばかりにもかかわらず、同じ浴室でシャワーを浴びるはめになる。さらに老人も聖人君主ではなく、「心中の前には一生分の性行為を行うというのは、本当かね」とげすな関心を見せる。こうして主人公ふたりのエロティシズムが駆動しはじめる舞台は、どこか薄汚い裕福な老人によって用意されたのだ。
ヘテロトピアでの幻想は条件付きのものである。同監督作の『八月の濡れた砂』(1971)にも、若者たちが自由を謳歌する場所として別荘やヨットが登場するが、どちらも権威的な父親から与えられた・奪ったものである。
もっとも、『八月の~』では、ヨットに乗った四人の若者が絶望的な航海に乗り出したところで幕を閉じたのにたいして、『十八歳~』は旅客機でロタ島まで簡単にいってしまうのだが。しかも単なる一挿話として。むろん、外部への脱出が容易に可能になったのではなく、内部が拡大して脱出はますます不可能になったのだ。
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今月は終わり。
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