見出し画像

鉄筋たてたろうはどう生きてきたのか

(最初に注意)この記事には不動産投資に役立つことは一切書いていません。


真面目で勉強ができることだけが取り柄だった。

福岡生まれ福岡育ち。父親は郵便局員で母親はたまにパート。経済的には中の上の生活をしていたと思う。親はお見合い結婚で特別強い愛があったわけではないが、喧嘩している姿を見たことはないし、父親は必要な時だけ厳しいし、母親は適度におせっかいだし、正直いって理想の両親だと思う。

僕には運動センスも芸術センスもない。ドッヂボールのチーム分けではリーダー格が順番にチームメンバーを選んでいく。参加者が奇数の場合は、最終的に「要る、要らん」のじゃんけんをする。それでじゃんけんに勝ったリーダーに「要らん」と言われるような僕だ。音楽はピアノを長く習わせられていたが常に同期で一番下手くそだったし、絵も字もどんなに頑張っても全く平均レベルには届かなかった。

そんな中、国語算数理科社会、お勉強だけはそこそこできた。できたと言ってもめちゃくちゃできたわけではない。他ができない分、自信を保てるのはそれしかなかった。小学生なりに、親や先生や周りの人たちに認められるためには真面目に勉強ができる自分を保つのが良いという考えを持っていた。自我っていうものが普通の人はいつごろから芽生えるのかよくわからないが、僕の場合は小学校低学年のころから、自分はどう生きるべきか、生きているとはどういうことなのかをよく考えていたし、「真面目で勉強ができる自分でいよう」という考えに縛られていたと思う。良くも悪くも。

青春コンプレックスが生まれる。

この考えは大学入学後まで続く。当然のことながら真面目で勉強ができるような奴は今でいう陰キャ扱いで、運よくいじめられることはなかったものの、青春なんてまったく来なかった。学生時代の青春に対するコンプレックスは今でもめちゃくちゃ残ってる。そういう溜まっていくコンプレックスも当時は、「真面目に勉強さえやっていれば報われる」と思っていた。

地方なので家がお金持ちか超教育熱心じゃなければ中学受験なんかしない。僕は公立中学校に進み、他の人より勉強を頑張った。最終的には同学年でダントツの成績は出せるようになった。高校はそのエリアの公立トップ校に行くつもりだったが、楽勝だったので、その時点でその先の東大を目指そうと思った。勉強しかできないのに、それしか頑張ってないのに年間3000人も入学できる東大に届かないとしたら自分自身に生きている価値はあるのだろうか。ふわっとそういうことを考えていたと思う。

まわり道はそんなに悪くなかった。

そんなことを考えつつも、高校では青春の誘惑に負けてハードな運動系の部活に入ってしまった。勉強と両立させる気でいたが体力的にキツすぎて次第に全く勉強に手がつけられなくなった。途中で辞める勇気もなく、3年の夏で引退するまでに成績はガタ落ち。その時点で全く東大受験レベルでは無かったが、満足に努力することなく目標をあきらめることは、それまでの生き方を否定されるようで、浪人覚悟で東大受験に挑むことにした。それで見事に現役では全く合格に届かず浪人。

浪人していた1年間で身につけたことはその後の社会人生活でとても役に立っている。試験というものは攻略法がある。総合点で合否が決まるのだから点数を取りやすい分野を重点的に対策する。すべての科目は記憶と論理的思考力の組み合わせで点数をもぎ取る。記憶も論理的思考力もとにかく量をこなしていく必要がある。勉強に1点集中して取り組まなければ量をこなすことは難しい。そういう環境を1年も確保できたのは今思えばとても良かったと思う。最初の半年で合格レベルには達し、残りの半年はどこまでそれを確実にするかに徹した。受験したのは理系で最も合格点の低い理科二類。東大に行けさえすれば学部はどこでも良かった。結果的には理科二類の中では結構上位で合格できた。

19歳、上京して超えられない壁を知った。

19歳で福岡から上京し、初めての一人暮らし。ここで失われていた青春を取り戻そうと思い、大学デビューを試みた。が、全くダメだった。環境が変わったからと言って、19年間ずっと陰キャだったのにいきなり脱却できるわけがない。そして、東大では勉強ができるのが当たり前、その上で何の武器があるのかが問われるし、本当に頭が良いやつは理解できないぐらい頭が良い。理科二類は医学部に行く理科三類と同じクラスとなるが、クラスメイトの理科三類の2人は本当に異次元を感じるぐらい頭が良かった。同年代の全国TOP100に入る人達に努力で勝つことはできないことを思い知らされた。

全ての子供が勉強させられる中で、同年代の中で努力次第でTOP3000には入れてもTOP100には入れない。この事実が分かったタイミングで僕は「真面目に勉強さえやっていれば報われる」という考えを変えなければと思った。ただの東大生は同学年に3000人もいて特別な価値はないけど、僕は僕自身が世界で一番大事だ。何か武器を身につけなければ世界でひとりだけの特別な価値はない。でも何を武器にすればよいかわからなかった。社会に出た自分の姿も想像できなかったし、それどころか社会に出るのが怖くてしょうがなかった。

謙虚さと効率よく結果を出す生き方を学ぶ。

周りは皆、理系だったので大学院まで行って、さらに大学に残るか研究職に就くかなどを考えていたが、僕は周りの圧倒的な優秀さを見て、大学で学問を続けるのは愚策だと考えた。やりたいこと、現時点で武器はないけれど、将来やりたいことが見つかった時に、それに集中できるようなことをとりあえず身に着けようと考えた。どんな職業にもお金が絡む。お金は数字だ。数字は昔から得意だったから、お金の勉強をしようと考えた。大学在学中はほとんど大学に行かず、2年間ほど経済系の資格取得の勉強をしていた。大学に通わず単位を取るという器用さを僕は実は持っていた。真面目で生きてきたけど、考えを切り替えて、効率よく結果を出すという生き方を学んだ。これも、大学で出会った優秀な仲間たちがそうやって結果を出していたからそれを真似た。東大に入ってよかったのはやはり周りが優秀な人ばかりだったことだと思う。

就職は当時、超売り手市場。資格を持っていれば簡単に内定をとれたし好待遇だった。新卒で入社した会社はザ・サラリーマンな仕事で上から指示がある事務を淡々とこなす仕事であったが、お客様から感謝されない仕事なのがとても苦痛だった。精神的なストレスも多く拘束時間も長く、基本的には年功序列であるが、同期の数があまりに多く出世競争にも勝てないだろうし自分には長く勤めるのは無理だと考えた。コミュニケーションが必須の職業だが相変わらずのコミュ障を発揮していたが、なぜか仕事はそこそこ評価されていた。たぶんそれは実力じゃなくて真面目っぽい雰囲気だけで評価されていたような気がする。そんな感じで向いていないのはよくわかったので辞めやすいタイミングでその会社は辞めた。

不動産は全く興味が無かった。運よく出会えた。

次に入った会社で不動産投資と出会った。今、本業(不動産業ではない)としている会社と同業種である。なお、身バレ防止のために本業が何かはぼんやりさせて書いてる。分かる人には分かるだろうけど。この会社では不動産オーナーとともに不動産投資と向き合う。もともと不動産は全く興味なかったし、借金は悪と親に教わったから、絶対に手を出してはいけないものだと考えていた。しかし、当時は年収700万円ぐらいのごく普通のサラリーマンでも億円単位のローンを組んで1棟不動産投資が実現できていた。しかもフルローン・オーバーローンで。本当のゼロから月20万円~30万円のキャッシュフローが生まれる投資が現実に可能だった。そして、それを実現させている人たちはひとりも破綻していなかった。

元からの富裕層ではなく、普通の人でもできる不動産投資というものに運よく触れることができた結果、冷静に考えて自分自身が不動産投資にチャレンジしない理由が無かった。僕の当時の年収は500万円程度、金融資産も500万円程度だったが、いきなりオーバーローンで1.2億円、築17年、利回り11%のRCマンションを購入することができた。仕事で数多くの1棟不動産投資の事例を見ていたし、成功者がどのような物件を買っているかを把握していたので初めての借金もそれほど怖くなかった。仕事で事例研究ができ、融資環境と良い物件が存在する時期に不動産投資を開始できたのは本当に幸運であったと思う。

サラリーマンの限界。不動産取得から起業まで。

1棟目を取得してから、僕の中で仕事観が変わった。不動産投資はで自ら積極的にリスクを負い、利益を自分だけのものにする。サラリーマンの仕事には限界がある。自分が良いと思ったことでも所属する会社の方針により顧客に提案できることには限りがある。そして自分が顧客にどれほどの利益をもたらそうとも、自分が得られるのは限界のある給与だけである。サラリーマンとしての働き方を疑いだすと止まらなくなった。自分には真面目に堅実に生きていくサラリーマンが向いている、といつの間にか思い込んでいた。確かにコミュ障の自分が、あまりに自由な社会に出ていくのはとても怖いが、運よくキャッシュフローを稼ぐ不動産を持っている。思い切って独立しようと考えた。

27歳で自分の会社をスタートした。前職と同じく不動産オーナーのサポートをする仕事である。大口の顧客を2件だけ前の会社から引き継いだ。前職の社長はとても太っ腹な性格だったので、同業種なのにスムーズに独立させて貰えたしそれどころかサポートもしてもらった。そして前職でのノウハウは今でも使わせてもらっている。そういう会社に在籍できて本当に運が良かった。営業は全く未経験で、初めて新規顧客に営業した日の前の日は眠れなかった。でも業種の特性上、お客様は自社のサービスに興味があるから会ってくれている。きちんと自社のサービスとお客様のメリットを説明できれば契約は取れていった。口下手だが自分で決めたサービス内容には自信があったから自分でも驚くほど話ができる。営業も自信がついていった。

起業してから一発当てるまで。

起業した本業の会社ではとにかく種まきが重要だった。もちろんここで言う種は商売の種のことである。芽が出るのか花が咲くのかわからない種をとにかくたくさん撒く。もちろん芽が出るのがいつなのか、花が咲くのがいつなのかは分からない。起業してからずっとひとり種をまき続けた。その後同業者はたくさん出てきたが、この時こんなことをやっていたのは自分だけだったと思う。

この時撒いた種は、2年後3年後に大量の花を咲かせた。加速度的に本業は拡大して、ピークの時には月商1億円まで達した。ただこれは単にそのビジネスがブームだったので同業者が一気にパクり始めてピークは一瞬で終わった。ただ言えることはこのブームは僕が作ったということ。しっかり先を読んで淡々と準備を整えていたから確信している。優秀なビジネスモデルはパクられるし、パクられることが世間の評価のようなものだから、これはビジネスをしていく上で自信になった。

投資規模の拡大と投資家としてのレベルアップ。

その後、強烈な不動産投資ブームがやってきた。本業も新たに次々生まれてくる不動産投資家の数に比例して右肩上がりに拡大していったが、その少し前に一発当てたのでその資金や与信を使って、自分自身不動産投資を拡大させた。本業で数多くの不動産取得事例に当たり、さらに自分でも不動産を探すということの繰り返しで、不動産の目利き能力はこの時かなり鍛えられた。不動産業者も数多く当たっていったが、危ない提案をする業者も多く、関わるべきかどうかも慎重に判断できたと思う。(失敗したことももちろんあるが。)

僕の物件取得方針としては利回りというよりは総資産全体としての積算を意識した買い方だった。中古であれば積算価格>売買価格なのは必須だがキャッシュフローを意識しなければ当時は割と簡単に見つかった。新築は土地から仕込めば高利回りが出ることはたくさん見てきた事例から分かっていた。ルールとしては利回り目的で建ててキャッシュフローを取りに行くが、同時に何棟も建てない。売ってから新しいのを建てる。なぜなら新築は積算が割れるのですぐに債務超過になる。決して売ろうと思って建ててるわけではなくて、新しいのを建てようと思ったら売らざるを得なくなる。こんなことを続けて行ってたら、自然に中古物件は手元に残って残債が減っていきコンクリ貯金化し、キャッシュフローは生まず、キャッシュフローを稼ぐはずの新築物件は稼ぐ前に売ってしまいキャピタルゲインとなり、実際の手持ち物件はどんどん築古化している。

土地から新築RCとの出会い。

強烈な不動産投資ブームがピークを迎えたころ、中古の物件価格が異常に高くなり、地方の平成一桁築の積算RCが利回り7%台でも売れてしまうような状況で、23区内の土地から建築するRCでも表面7%は実現できることに気づいてしまった。そしてそれに対して金利1%台、融資年数35年が出る。下手したらフルローンが組めることもある。売却すれば利回5%前後で売れるだろう。こんなに美味しい投資があるのだろうか。それに気づいていた人はそんなに多くなかった。最初はこっそり自分だけでやっていた。

そんな中、本業からの派生で不動産業を本格的に始めることになった。ちなみに不動産業の会社に勤務した経験は全くない。最初は本業の顧客同士を仲介でつなげることを考えていたが、目線が高い同士なので全くうまく行かなかった。どうやったら不動産業で利益が出せるのか僕なりに真剣に考えた結果、自分の経験の中で出せるものしかないなと思い、土地の企画売りという方法に行き着いた。

不動産業者としての立ち位置。

土地は相場より安く買う。そうすれば相場で売れば最低でも諸費用込みでトントンにはなるから損はない。新築マンション用地の価格は利回りで決まる。賃料相場と土地価格と建築費を想定すれば売れる金額は分かる。この売れる利回りというのは感覚的なものだが、まさしく「自分が買ってもよい利回り」だし、僕はこの感覚だけは他の誰にも負けてない自信がある。だからこそバンバン土地は仕入れているし、売ってる価格にも自信がある。「自分が買ってもよい利回り」なので利益が乗っかっていようが自信をもってお客様に薦められる。

直近の2年ぐらいはこの方法がハマりすぎていて怖いぐらいである。堀塾や塩田塾の存在は分かっていたが、僕はパクってやったわけではないし、鉄筋たてたろうアカウントもなんとなく始めたことで、新築RCブームを担う一員になったのは偶然なのか必然なのかよく分からない。ただ、匿名アカウントで始めて、不動産投資の世界で僕の知識にニーズがあることはとても自信につながったし、新築RC投資に対する世間の興味もよく分かったので、より覚悟を決めて新築RC投資をビジネスとして向き合っていこうと思っている。

経営者として今後やりたいこと。

不動産業は前期ですでに経常利益1億円を超えており、すでに「一発当てた」と言って良いのかもしれない。本業で「一発当てた」時には世間的にはただ起業した時代が良かっただけという評価だっただろう。今回も時代が良かっただけなのだろうか。どうだろう。少なくとも、新規ビジネスで一発当てるためには、時代の流れを読む必要がある。そして前回そうだったように、今回もいずれ新築RCブームは終わっていくし、その次の展開を読まなければ、三発屋、四発屋になれない。

もう十分稼いだでしょ、なんでまだやろうとするのか。これは僕自身最近ようやく答えを見つけた。第一に、新たなチャレンジは生きがいである。真面目に生きることだけが自分に与えられた道だと思っていたが、頭を柔らかくしてその場その場で新しい道がないかを常に探る。その後の人生において最適な道のりは目の前の道だけ見ていても進めない。固定観念を排除し、常に時代の流れを読み、見つけた新しい道を勇気をもって踏み込む。その新しい道のりの先に大きな成果が見えた時の達成感、それを夢見て生きるのが楽しいと感じる。第二に、雇用を維持しさらに新たな雇用を生み出したい。人を雇うということは、その人の生活を会社を通じて支えるということにもなるし、その人の人生観に仕事を通じて影響を与えることになる。もちろん僕が影響されることもあるだろうし、助けられることもある。積極的に人と関わることは苦手だけど、誰かのために行動する、誰かに自分の行動が良い影響を及ぼしていることは意義があることだと感じる。

たくさんの人に関わって、頭を柔らかくして一生懸命先読みをして、勇気を持って新たなチャレンジをする。学生時代に青春コンプレックスをこじらせただけあって、とにかく事業を楽しみたいという気持ちが強い。世の中には上には上がいる。それを知ったときは打ちのめされそうになる。だから世の中に出ていくことは怖い。だけどそう思い続けて新たなチャレンジをしないことには楽しさも生きがいもない。そう思って自分のことを書いてみようと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?