「よくそんな書いてばっかりで飽きないね」

若い頃から、友達や彼女によく言われてきた。私がいつも小説だったり、エッセイだったり、金にもならないものを黙々と書いていたからだ。それが仕事になって、かれこれ20年ぐらいになる。編集・記者・コピーライター・シナリオライター・ライターetc.職を転々としてきたが、今が一番書くのが楽しい。

2020年ほど、雑多に色んなものを書いた年はなかった。

・求人媒体のコピー
・コロナ関連のインタビュー記事
・ドラマのシナリオ
・店舗のプロモーションコピー
・SEOライティング
・Webマガジンのコンセプトコピー
・著名人同士の対談記事
・葬儀用のあいさつ文

これまではその時々、「求人なら求人」「記事なら記事」などガッツリ関わることが多かったが、今年は仕事のボリュームが激減したせいもあり、浅く広く、色んなものを手掛けることができた(そうしなければならなかった、という意味でもある)。

一口に「書く」と言っても、
・どこに載るのか
・誰に向けられたものなのか
・何のために書かれるのか
などによって、書き方はそれぞれ異なる。書いたことがないものは、手探りになるし、緊張もする。今回でいえば「葬儀のあいさつ文」「著名人の対談記事」「SEOライティング」は結構苦労した。でも、その分、学ぶことも多いし、何より、上手く書けた時は嬉しいものだ。

「上手く書けた」と実感するのは、クライアントに称賛されたり、結果につながったりするのはもちろんだけど、私はそれに限らない。一番実感するのは書いたものを自分で読み返して、納得がいった時だ。

人が何かを書こうとする時、そこには「こういうことを伝えたい」「こういうことを描写したい」「読んだ人にこういう風な気持ちになってほしい」という思いがある。ものを書く人間にとって、自分が思った通りに書けた、という喜びに勝るものはないと思う。

もちろん、その全能感は書くことに限らない。

人は自分が思った通りに再現することに、喜びを見出す。その点では、絵描きも、園芸家も、スポーツ選手も、調理師も、大工も…煎じ詰めれば、みんな同じではないだろうか。いや、職人と言われる人に限らないと思う。

私が書くことを好むのは、私が書くことでしか全能感が得られないからであって、その対象は人により異なって当然だ。それぞれに好きな道を選べばいい。

販売だって、自分が思った通りに接客できれば嬉しいし、
営業だって、自分が思った通りに契約が取れれば嬉しいし、
経理だって、自分が思った通りに計算ができれば嬉しい。

人生は「これなら私は思った通りに実現できる」そう思えるものを探せばいい。逆に、「どうやってもできっこない」と思えるものに無理して時間をかけることはないと思う。「置かれた場所で咲きなさい」という名句もあるけど、実際は置かれた場所が間違えている場合も結構ある。

蓮の花は砂漠には咲かない。サボテンの花は池には咲かない。

今、置かれた場所が合っていない。ここでは全能感を得られない。もしそう思うのなら、自分がもっと楽に生きられる場所を探すのもありだと思う。それが、たとえ周囲から「自分探し」と揶揄されたとしても。

そして「向いている」「好きだ」と思うものに出会ったら、しがみつく。離れない。そこで、はじめて「置かれた場所で咲きなさい」とか「石の上にも三年」の出番がくるのではないだろうか。

私だって、最初から何でも書けたわけではない。学生の頃に書いたものを読み返すと、ライターで火をつけたくなる。全能感など、所詮はその時々の自己満足にすぎないんだろうなと言うことを嫌というほど思い知らされる。

でも、私は、それでもいいと思っている。この世に好きなことが一つ、あるだけでも、人生はめっけものだ。さあ、2021年は何を書こうかな。

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