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#31 思考詰込弁当

12月12日。土曜日。今日は酔っている。非常に酔っているので、思考が回らない。
今日のタイトルは【思考詰込弁当】とする。意味不明だ。でも本当に、今日は考えをまとめる力が残されていない。とりあえず思考の流れるままに書いてみる。まあボツ集みたいなもんだな。

今日の記録

10時頃、起床。納豆お茶漬けを食べて、Tully'sへ。役を進めるなど。生協でようやく、ピーター・シンガー『動物の解放』を買う。4500円。高い。

13時から、先輩の修論中間報告会。話を聞いたり、コメントを送るなど。来年は自分の番か。その後、飲み会。大いに飲む。その後、スマブラ。大いに飲む。

23時頃、解散。大いに飲んだ。周りの人と親睦が深められたのはよいこと。就活の話などもした。誰もが一度は、任天堂に憧れる。

思考詰込弁当

(4000字ぐらい)

安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしているときは、生のよろこびを書きつづる。

これは太宰治『葉』からの引用である。僕も基本は、こんな感じ。気分が明るいときはできるだけ暗い内容の投稿をしてきたし、逆に沈んでるときは、明るい内容で自分を励まそうともしてきた。そうでないときもあったけど。暗いときに暗い内容を書いてもつまらない。そういうときこそ、馬鹿げたことを書くべきである。

太宰の『葉』は、是非読んでほしいのだが、めちゃくちゃにとっちらかってる。これは確か、太宰が今までに書いてきた文章を引っ張り出してきて、ズタズタに引き裂いたのち、ところどころ拾い上げて言葉を写したものだそうな。

僕も今日は、アルコールで思考がまとまらないので、てきとうに書く。「毎日書く」というノルマを自分に課していると、こういう奇行にも走るものである。まあ、一つの記事にするほどまとまっていないことなどを書く。

* * *

先月から、ATOKを導入している。ATOKを知らない人のために付言すると、ATOKとは日本語入力ソフトのことで、なんか変換やサジェストの制度がすごい。

月300円払っているだけあって、確かにgoogle日本語入力よりは優秀な気がする。のだが、このATOK、仕様などでよく分からないことが多い。よく分からない故に検索するのだが、「ATOKを使いこなす方法!」などの記事は全然出てこない。

で、↑のような記事を見つけた。

この記事は面白いことに、ATOKの情報がググっても出てこないのはgoogleの陰謀だと論じている。ATOKではなく、google日本語入力を使わせようという企業的策略とのこと(もちろん本気ではない)。これは、面白いと思う。ATOKには絶妙に使いにくいところなどがあるのだが、おそらくその解決方法は永遠に闇の中だろう。

* * *

この前急に、「zoomで女性に告白する男はいるのか」ということが気になった。画面共有などでメッセージを写したら、割とステキなのかもしれない。もしかしたら「画面共有告白」の始祖になれるのではないかと思い、検索してみた。

で、こういう記事がヒットして、これ、面白い。テンションが、なんというか、普段関わっている人と別次元である。読むべし。

* * *

「男らしさ」という言葉がある。かつてミスチル桜井は「over」という曲で次のように歌っている。

いざとなれば、毎晩君が眠りにつく頃
相も変わらず電話かけてやる
なんて、まるで、その気はないけど、
わからなくなるよ
男らしさって、一体どんなことだろう

男らしさって、一体、どんなことなんだろうな。

* * *

どうも近頃、「男らしさ」というものは、”有害なもの”と認識されているようである。どういうことかといえば、「男らしさ」なんてものは男性の生き方を束縛するもので、ともすると女性への抑圧としても働きかねないから(いわゆる、「有害な男らしさ toxic masculinity」)、もうそんなものから自由になりましょうということだ。

これは主に、フェミニズムの主張との関連で言われることだ。「世の女性は”女性らしさ”という規範に苦しめられている」ということをフェミニズムが強調するので、男性の側から、「いやいや、男性だって”男らしさ”という規範に苦しめられているよ」と主張されるようになったということ。これはいわゆる、男性学とか言われるものだと思う(僕は詳しくない)。ここでの「男らしさ」とは、男は働いて家庭を支えるべきだとか(専業主夫は恥ずかしい)、他人に弱みを見せるべきではないとか(男の子は泣かない)、そうしたことが含まれる。そして男性学の論者は、女性同様男たちも「男らしさ」という規範に縛られるべきではなく、そこから自由になろうよと言うわけである。

僕はこういう議論には、結構懐疑的だ。なぜかといえば、仮にそうした「男らしさ」という規範がなくなったとき、じゃあモテの基準はどこになるんだろうと思うからだ。

結局男というのは、いかに女性にモテるかしか考えていない生き物だ、というのは、そんなに言い過ぎなことでもないと思う。いややっぱり、極言しすぎかもしれない。ただ依然として、男が「モテる」ためには、たくさん稼ぐだとか、自分が「強くたくましい」ことを示すだとか、なんかしら現状「男らしい」とされていることを達成しなければならないように思われる。そうなると、「男らしさ」というのは束縛であると同時に、指針でもある。そして僕のような人間からすれば、こうした指針がある方がありがたい。何を目指せばよいのかがわかりやすいからだ。

* * *

今年(2020年)に出た本で、太田啓子『これからの男の子たちへ』というのがある。僕はこれを一応購入したのだが、あんまりタイトルが適切ではなくて、というのもどちらかというと男の子を育てる親向けに書かれた本だからだ。もう「男の子」と呼べないような年頃の人間が呼んでもちょっとどうしようもなかった。当たり前か。

今手元にないため確認できないのだが、確かこの本で、「男らしさとモテ」について書かれていた。で、かなり大雑把に要約すると、次のようなことが書かれていたと思う。

「男らしさ」などに頼らずとも、人間として立派であれば、ちゃんと異性は振り向いてくれます。大事なのは心優しき人間であることです。「モテ」を意識してなんになるのでしょうか。あなたが優しい人間であれば、必ずそこを見てくれる人は現れるはずです。

全然正確じゃないかもしれないので、あんまり言うのはあれなのだが、僕はこれは理想論としてはいいかもしれないけれど、現実はそうじゃないよなあと思ってしまう。めちゃくちゃな凶悪犯(相模原)にも彼女はいたらしいし、あと迷惑YouTuber(刺身食べた人)にも恋人はいたらしい。あとは不倫で世を騒がせている人もたくさんいる。

上の引用のような主張で悲しくなるのは、「優しい心を持っていれば異性もちゃんと好いてくれる」と言うならば、じゃあ誰からも好かれない自分は、やっぱり人間として最悪だからなのかなと思ってしまうこと。まあそうなのかもしれないが、少なくとも僕は、大量殺人や迷惑行為、家族を裏切るような行為もしていない。僕は彼らよりも人格的に劣っているだとか、「優しい心」を持っていないということになるのだろうか? そうではないと思いたい。

のでやっぱり、個人的には、「男らしさとモテ」というのは結びつけた方がいいんじゃないかと思っている。彼らがちゃんと異性から好かれるのは、彼らが『男らしさ』を備えているからであって、僕がそうではないのは、やっぱり何か『男らしさ」に欠けるから、と言うことになると思う。その方がよい。何を目指せばよいかがクリアであるし、変な幻想のせいで傷つくこともなくなる。

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「自分らしく生きる」というのは、モテとの関連では難しいことだと思う。

以前、僕はなんかふやけた感じの曲を集めた「ナヨナヨUKロック」というプレイリストを作った。

こういうナヨナヨした感じが結構好きなのである。ナヨナヨは「男らしさ」の正反対にあるかもしれない。僕も多分、ナヨナヨ男子の一員である。

で、このプレイリストを作っているとき、Youtubeで「なよなよ」と検索したことがある。そうすると、やっぱり「なよなよしている男は無理」みたいな動画がわんさか出てきて、ああやっぱそうなのねと思った記憶がある。

今検索したら、↑のような動画もあった。まあ、まあという感じ(言っていることは割と普通)。「ナヨナヨ」はやっぱり否定されていた。

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アルコールが回ると、頭が痛い。ので、今日はこの辺で終わりにしたい。
まだまだ書きたいことはたくさんあった気がするが、もう出てこない。ちなみに、だいぶ暗いことも書いたが、それは僕の精神状態が明るいという証拠です。安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしているときは、生のよろこびを書きつづる。かっこいい。変に明るいことを書いているときは、ぜひ心配してください。

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これは前から面白いことだと思っているが、noteというのは文章を投稿するサイトであるのに、肝心の文章はほとんど読まれていない。書いている人なら分かると思うが、「絶対こいつ読んでないだろ」という人からもスキが来る。体感だと、スキのうち7割ぐらいはそれだ。
それと、僕がいろんな人の投稿を読んでいて思うのは、他の記事への言及が極端に少ないということである。twitterなどは引用リツイートというものがあり、結構積極的に使われているが、noteでは基本、他人の見解(記事)を踏まえて自分の意見を書くということが、驚くほどなされていない(相互にそういうことをしあっている団体もあるようではあるが)。普通、いろんな人の記事を読んでいれば、そこに触発されて自分も何か書いてみるということがあってもよさそうである。それがあんまりないということは、やっぱり人の記事を「ちゃんと」読んでいる人が少ないんじゃないかと思う。

もちろん、「私はちゃんと読んでいる」という人も多いだろうが、なんというか、それがやはり普通だと思う。文章を投稿するサイトであるので。そうした「普通」が、あんまり「普通」になっていなさそうだという話。これもどっかで書いておきたかったので、ついでにここに書いておく。

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今日の記事は【思考詰込弁当】ということで、なんかしら僕の雑感が詰まっているように書いたが、要はゴミ箱である。さようなら、記事にならない雑感たちよ、、、