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#20 菜食主義の実践(ベジタリアン・ビーガン)

12月1日。火曜日。12月になってしまった。ただ、雰囲気的にはまだ秋かな。
今日は【菜食主義の実践】について。今日から菜食主義の実践を始めてみる。というかビーガンになる。その理由と試みなどなど。かなり長めになるかな。
・・・先に書いておくと5000字でした。暇な人だけ読んでください。

今日の記録

10時頃、起床。眠いのでスマブラ。たくさん勝つ。フルグラ、大学へ。

13時からオンライン講義。副業と労災など。「名ばかり管理職」という概念を知る。なかなか世界は残酷だ。

授業終わり。来週の予習。15時頃、生協の書店で買い物。ヒルビリーエレジーの原作と、エリザベス・ブレイク『最小の結婚 結婚をめぐる法と道徳』。高いんだこれが。ちゃんと面白いといいけど。

夜。ケルゼン『純粋法学』続き。夕飯、CoCo壱でカレー。ケルゼン読了。来週からは自分の報告になる。準備を進めるべし。

菜食主義の実践

最近、デビット・ライスという人の『道徳的動物日記』というブログを読んでいる。

どういうブログかというと、「倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます」と書かれているとおり、社会学系の本の書評だったり、近年のフェミニズム・ポリコレについての記事が多い。僕と関心が近いのもあって、読んでいて非常に面白い。

で、今日目を通した中で、動物倫理について書いているものがあった。

・・・これは僕の印象論であるけど、海外(欧米)のいわゆる”リベラル”な人たちには、ベジタリアンやビーガンが多い気がする。例を挙げるならグレタ・トゥーンベリとかか(フィクションならボージャック・ホースマンのダイアンの印象が強い)。

こうした人たちの関心が、環境問題にあるのかなんのかはよく分からない。
ただ、日本に比べて、リベラルという思想と”菜食主義”という思想が結びつきやすい印象がある。日本にもリベラルを公言する人はたくさんいるが、それと併せて「ベジタリアン」や「ビーガン」を掲げる人は、そんなに見かけない気がする(いるにはいるけど)。

個人的にはリベラルと菜食主義は相性がよいと思うので、そこの不釣り合いというか、非対称性が前々から疑問ではあった。

* * *

で、まあ日本には「差別反対」とかリベラルな思想を掲げる人は多いけど、「動物の権利」「種差別」とかには関心が低そうだから、僕がいっちょ菜食主義を実践してみるかという話。
健康上の理由からではなく、あくまで思想・信条的な理由からやってみます(今日から開始)。具体的になぜ? といったところや、よくある疑問・質問への応答とかは、下につらつらと書いてみる。

・・・で、【菜食主義について】という節と、【今後の個人的な方針】という節で書いたけれど、↓の【菜食主義については、興味ある人でなければあんまり面白くないと思う。というかうまく書けた自信がない。
そのため、何するの? というところが気になる人は、【今後の個人的な方針】から読むべし。

菜食主義について

菜食主義者になるついでに、ここら辺への疑問(特に、健康上の理由以外でこれをやる理由への疑問)について、ちょっと応答してみる。

① なぜ肉を食べない(食べてはいけない)のか?

最も基本的な疑問だと思う。ただ、ここで逆に問いたいのは、なぜ肉を食べることが許されるのかということ。いやいや、人間なんだからそりゃ肉は食べるでしょ(人間は肉を食べるのが自然)とか、この世は弱肉強食だから(強い者が弱い者を食らうことは世の理)ということが、反論として挙げられるかもしれない。

こうした意見については一応、倫理学的には「事実と規範をごっちゃにしている」との批判が飛んでくる。もし僕が「肉を食べるのは人間(生物)にとって自然なことだ」と主張すると、教授からは「キミ、≪である≫という『事実』から≪すべき≫という『当為』は導けないんだよ」と優しく諭される羽目になるだろう。

どういうことかというと、「現にこうある」からといって、必ずしも「そうあるべきだ」とはならないということ。「今の日本社会は、男にとって有利な社会である」というのが事実だとしても、「だから、これからも男に有利な社会であるべきだ」とは普通ならない。奴隷制度なんかも同じで、昔の人は「白人が黒人奴隷を所有することは自然なことだ」と考えていたようだが(実際それは当時においては「自然」なことであったかもしれないが)、だからといってそれが「正しい・そうあるべきだ」ということにはならない。ヒュームのギロチンというやつだ。

まあ何が言いたいかというと、単に「人間にとって自然だから」「それが自然界の法則だから」というのは、なぜ肉を食べてよいのか(動物を殺してよいのか)の理由にはならないということ。もしこれを主張するなら、人間にとって動物性タンパク質は欠かせないことを示すだとか、あるいはもう完全に人間を特権化するとかが必要になると思う。ただ、前者についてはサプリメントなどで代用可能という反論が飛んでくるし、後者についてはまあ後ほど。

② なぜ植物はよくて動物はダメなのか

上の答えはちょっと混ぜっ返し感が否めない。もう少し正面から①に答えると「動物も苦痛を感じるから」ということになる。つまり、人間が必要のない苦痛から守られるのと同様に、動物も不必要な苦痛から守られるべきだ、ということになる。必要のない苦痛とは、ここでは劣悪な環境での飼育や、屠殺行為などを指す。

食肉工場の様子などはYouTubeにも挙がっているが、実際目を覆うようなものばかりである。これはまあ、動物の権利などを唱える人でなくても、「酷いなこりゃ」と感じたりするんじゃなかろうか。こうした惨状は私たちの「食肉」という文化が生み出しているから、まずそこを変えましょうという話(同時に、リアルファーなどの毛皮文化にも反対することになる)。

で、これに関しては「なぜ動物の命を奪うことには反対するのに、植物を食べることは許されるのか」という反論が出されるかもしれない。この答えは「植物は苦痛を感じないから」ということになる。というのも、ここで問題なのは「生命を奪う」ことではなく、「不必要な苦痛を与えている」ということだからだ。
植物も生命である以上、踏み潰せば細胞は壊れるし、水をあげなければ枯れてしまう。ただだからといって、私たちと同じような「苦痛」の感覚を持っているかはわからない。わからないというか、多分持っていないだろう。雑草を手でつかんで引っこ抜くのと、鎌で刈り取るのと、除草剤をまくの、どれが最も「植物にとって苦痛が少ないか」私たちには判断できない。

ちなみに、魚介類が苦痛を感じるかどうかは意見が分かれるらしい。

*追記:虫・魚は苦痛を感じるのでアウト。ロブスターやタコもダメ。ただ、貝類になると判定が微妙になるらしい。

③ 動物も苦痛を与えずに殺せばいいのではないか

植物と動物を分ける基準が「苦痛を感じるか否か」であり、「苦痛を感じない植物は殺してもよい(食べてよい)」というのを上でみた。まあだからといって、むやみに草木を刈り取るのはよくないと思うけど。
そうなると次なる意見として「安楽死を施すなど、動物も苦痛のない形で殺せばよいのではないか」ということが挙げられるはず。悪いのは食肉工場などの劣悪な環境であるのだから、放牧や放し飼いなどストレスのない形で育てればよい。そして最後は安楽死させれば、動物も苦痛なく「食肉」になれるだろう。それなら問題はないはずだ。

確かにこれは、「不必要な苦痛を取り除く」という点で、劣悪な環境での大量生産よりは遙かにマシだろう(まあぶっちゃけ、僕もこれならいいんじゃないかと思ったりする)。ただこれに対する反論として、「殺すという行為が、そもそも動物の『快』を減少させている」ということが挙げられる。(この場合、「苦痛を最小限にすべき」という論を離れて「幸福を最大化すべき」ということになるか)

雑に言ってしまうと、殺す瞬間に苦痛がないからといって、むやみに人間を殺していいことにはなりませんよねという話。なぜ人間を殺してはいけないかといえば、殺害という行為が、その人の未来の幸福を永遠に奪う行為であるから、ということは言えると思う(それが全てではないけど)。
で、これが動物にも当てはまりますよということ。殺す瞬間に苦痛がなくても、その動物が生きていれば得られるはずだった「快楽・幸福」は、屠殺という行為によって完全に失われてしまっている。
これがなぜ植物には当てはまらないのかといえば、植物にはそもそも「幸福」(とその前提となる「快苦」)がないからということになる。ちょっと雑な説明で申し訳ないです。詳しくは功利主義を参照。

④ いや、動物に「権利」を認めるとかやばいでしょ

最後に、これは多くの人の直観的に感じることだと思う。食肉反対系菜食主義者は「動物の権利」とやらを主張するわけだけれど、これについては次のような反論が考えられる。すなわち、「『権利』っていうのはそもそも人間が作った概念であって、人間にしか認められないのは当然でしょ」というものだ。
というか、認めて何になるの? と。

こうした主張は「種差別 speciesism」として批判される。これはすなわち、「人間は人間であることを根拠として(種を根拠として)、他の動物と異なる取り扱いが許される」という主張だ。人間に「権利」が認められ、動物にはそれが認められないのは、すなわち人間が「人間だから」という見解。それ以上でもそれ以下でもない。

で、この見解には問題があって、それは論理構造が人種差別や性差別と全く同じであること。例えば、「黒人は黒人であることを根拠として(人種を根拠として)、白人と異なる取り扱いが許される」だとか、「女は女であることを根拠として〜」など。書くの疲れてきた。我々はこうした人種差別や性差別の論拠を斥けるわけだが、それが種差別にも当てはまるでしょということ。もし当てはまらない(人間という種の特権化が正当化される)としたら、その根拠はなんだろうか。何か人間が取り立てて、他の種より優れている点があるだろうか。「人間であること」以外に、人間に特権が認められる(人間だけが「不必要な苦痛から守られる」権利を持つ)ことの理由があるだろうか。
「不必要な苦痛を与えられない」という権利は、苦痛を感じる生き物全てが持つものではないか、ということ。

・・・あと一応、「権利」とは言ってるけど、参政権とかまで認める必要はなくて、あくまで「のんびり暮らさせてあげましょう」ということだと僕は考えている(不当な拘束を受けない権利、など)。言葉や理性を持たない動物に、権利を認めて意味があるのかと思われるかもしれないが、我々は言葉を話せない「赤ちゃん」や重度の障がいを負う者にも権利を認め、その命を守っている。だから、言葉を話せるかとかは大して問題じゃない、ということになるだろう。

今後の個人的な方針

菜食主義者になるといっても、「具体的にどうすんの?」ということは疑問だと思う。僕もよく分からない。といっても、一つだけ方向性はある。

ずばり、自分で肉や魚、卵や牛乳を購入しない

ひとまずはこれでやってみたいと思う。「自分で購入しない」としたのは、家族が作った料理などはひとまず残さず食べるということ。人からもらったものなども同様。出された食べ物を「残す」こと自体には意味がないので、既にあるものは消費してしまって、以後「購入しない」という方針。

いやそれでいいの? とは思うかもしれない。本当に「食肉」に反対するなら、家族や友人を説き伏せるべきだろと。プラカード持って駅前に立つべきだろと。そうしなきゃ食肉工場がなくなるわけないし、単なる自己満足に過ぎないだろと。甘えてんじゃねえぞおいおいおいと。

まあそうなのかもしれないけど、、、ただ、ひとまずの僕の関心は、「日本で菜食主義は実践可能なのか」ということにある主に次の二つのこと、

① 菜食主義になることで、家族や友人との関係に支障をきたさないか
② ベジタリアンの食事は高価になりそうな気がするが、財布は持つのか

これを確かめてみたい、というのが、一番の関心になる。

ビーガンの言っていること、たとえ理論的に正しかったとしても、実践が困難ならどうしようもないだろう。というか、実戦可能であるならば、人に対しても主張しやすくなる。それをまずは確かめてみようという話。

で、何を禁止するかと言えば、動物に苦痛を与えていそうなもの全般。「殺し」は完全NGで、「搾取」(牛乳や卵など)は基本ダメ。よほどクリーンな環境で行われていれば、例外的によしとする。
・・・この時点で判定がブレブレなのが、菜食主義の嫌われるゆえんかもしれない。まあ、しょうがない。

そんな感じで、反食肉主義者としてこれから生きていきます。たまに感想などは書いてみるつもり。あと、疑問などはぜひコメントへ。
こんな長い文章、最後まで読んでくれた方ありがとうございます。

*12/3 多少書き換え

<参考など>

ちなみにWikipediaはかなり詳しい。読むべし。

夕飯。CoCo壱番屋のベジカレー(大豆ミンチ)。
しばらくはCoCo壱にお世話になりそうだ。