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#75 なぜ表現を改めるのか?

2月11日。木曜日。今日は、祝日だったらしい。全然気づかなかった。

この間、フェミニズム云々の記事を書いたので、今日はその延長。【なぜ表現を改めるのか?】ということで。関連ワードはポリコレなどなど。アカデミックな感じではなく、単なる私見と雑感だけ書きます。ので、あんまり期待しないで。

今日の記録

夕方から活動開始。ほぼ、昼夜逆転生活。よくないですね。18時頃から研究室へ。

研究室で、業界研究なり何なり。このところ就活の話しかしてないので、今日はその辺省きます。省いたら、書くことがなくなった。とりあえず今日は早めに寝て、昼夜逆転を治したい。

なぜ表現を改めるのか?

(4000字ぐらい)

いっつも引用ばかりのこのnote。今日はできるだけ私見と勘を頼りに、自分の思っていること主体で書こうと思います。あまり他者の議論を紹介したりはしないということ。他人の議論に頼ってばかりで狡いという声が、どこからか聞こえてきたので(心の声でした)。

テーマは「なぜ表現を改めるのか?」ということについて。フェミニズムやジェンダー論ではしばしば、「表現の改め」を訴える議論が出てくる。ファミマのお母さん食堂とかは、誰もが知っているこの例だろう。一種のポリコレと見なせると思うが、性差別的、あるいは性別分業的な表現を撤回して、それを改めましょうというもの。この文脈で語れるかどうかはわからないが、先日の森会長発言についても、「性差別を許すな」「撤回すべし」という批判が多い。

だが、そもそもなぜ性差別的(ステレオタイプ的)な表現は改められなければならないのだろうか? 「それが差別的だから」というのは、理由になっているだろうか。今日はこの辺について、自分の所感を述べようと思います。本当はいろんな議論を引くべきなんだろうけど、その辺に頼らないということで。

撤回されるべき表現

さっきも書いたとおり、フェミニズム・ジェンダー論はしばしば「表現を改めること」を求める。近年Twitterで注目を集めたのは、アツギのラブタイツだったり、ファミマの「お母さん食堂」だったり(お母さん食堂はだいぶ前から言われていたらしいけど)。先日の森会長の発言についても、単に「80過ぎの高齢男性が、旧来的な女性観を提示しちゃった」では済まされず、その撤回が求められている(し、実際撤回された)。

なぜある種の表現・発言は撤回が要求されるのか? 「それが差別的なものだから」というのは、半分合っているようで、半分合っていないように思う。というのもこれは「なぜ差別的発言は撤回されるべきか」については応えていないため。一応、「たとえ差別的発言だとしても、放っておけばいいじゃん」という立場も想定はできる。この立場の者は、ある人が差別発言をしたとしても、それは当人が無知を晒しただけのことであり、そういう人間は無視すればいいだけだと答える。要するに「いちいち目くじら立ててもしょうがないんだからほっとけ」というものだ。気に入らない言動は無視すればいいだけであって、なぜ「撤回」まで求めるのかがわからんということになる。

初代iPhoneSEが最高だとか、2代目iPhoneSEはあんまりだとか、そういう個人の嗜好の話であれば、それでいいかもしれない。ただ、公になされた差別的発言について「黙殺で十分」と考える人は、リベラル界隈ではほぼいない。みんな何かしら、差別的言動は「放っておけない」と考えているし、それゆえに撤回や糾弾を求めている。それはなぜなのか? その辺をちょっと突っ込んで考えてみる。

当事者を不快にさせる

差別的的発言が許されない理由その1。すなわち、性差別的(女性蔑視)的な発言は、当事者(世の女性)を不快な気持ちにさせるので、撤回されるべきだということ。

森会長発言以上に、アツギのラブタイツや宇崎ちゃんポスターなんかは、この側面が強かったように思う。ある種の表現、とりわけ女性を”モノ”として表すようなものは、見る女性たちを不快・不安にさせるし、それゆえ撤回されるべきだということ。他にも、性的マイノリティを馬鹿にするような番組なんかは、これに当てはまるだろう。当事者たちを不愉快な気持ちにさせるので、よくないという話だ。

ただ、こうした「不快」に基づく規制論は、おそらくあまり正当性を持たない。というのも、多くの場合快・不快は主観的なものであるし、「私が不快を感じたから」で規制していたら、ほとんどの表現が規制対象となるので。ここで言いたいのは、「差別的言動が許されないのは、当人たちを不快な思いにさせるからだ」という、それのみで表現を改めさせるのは難しいだろうということ。不快が問題であるならば、もっと広範な表現が規制の対象になりそうなので(この辺は多くの議論があるが、今日は全部無視)。

性別に基づくステレオタイプを固定化する

理由その2。あまり上手い言葉で説明できないが、いわゆる「ステレオタイプを増長する」とか、「性分業を固定化してしまう」と言われるもの。当事者たちの不快感よりは、こっちの方が説明として妥当なんじゃないかと思う。すなわち、性差別的・女性蔑視的な表現が問題なのは、それが誰かに不快感を与えるからではなく、社会の偏見や規範を固定化してしまうからだというもの。

例としては、ファミマの「お母さん食堂」など。この表現について、強い不快感を覚える人はあんまりいないんじゃないかと思う。もしいたとしても、それは「女性蔑視的だ」という不快感ではなく、「社会的な役割を押しつけられた」という不快感ではなかろうか。ただどちらにしろ、ここでどう「感じる」かは大して問題ではない。

というのも、ここでの問題は、こういう表現を日常的に目にすることで、性別に基づく役割が無意識的に刷り込まれうることだからだ。日々何気なく触れる表現は、私たちの価値観・意識形成に大きな影響を与えるとされている。例えば、ドラマにおける「医者」の役が常に男性であれば、「医者は女性のする職業ではない」という考えを無意識的に持つかもしれない。出版社が特集する本が男性著書のものばかりであれば、女性は研究者になれないとの考えを植え付けてしまうかも知れない(今日そういうツイートを見かけた)。

そんな具合で、日常的に目にする表現・メディアから、私たちは特定のステレオタイプを形成しがちである。そしてそういったステレオタイプは、各人に抑圧的に働きうる。本当は外で仕事をしたいけど、女性は家で家事をしなきゃだとか、女は医者にはなれないだとか。つまり、生き方を制限してしまうということ。そうした抑圧を取り除くためにも、日々の表現には気を付けなければならないし、差別的言動の撤回が必要になってくる。森会長の発言にしても、まるで「女性は会議で発言すべきではない(わきまえろ)」という規範を押しつけるようなもので、女性の生きづらさを加速するのだと、そういう捉え方はできると思う。

総じて:「生きづらさ」を生むのが問題

まとめると、差別的言動を改めなければならないのは、それがステレオタイプを形成し、各人の自由な生き方を阻害してしまうからだ、という言い方はできると思う。もちろん、それが本当に「自由な生き方の抑圧」として働いているのか(単なる難癖ではないのか)は、随時検証が必要だろう。そうであるにしても、差別的発言を取り締まる根拠としては、これが一番しっくりくるという話。

もっと言えば、差別的(ステレオタイプ的)な言動は、当人の「生きづらさ」を生むからダメだ、という言い方もできそうだ。不快にしても性規範の押しつけにしても、ほとんど「生きづらさ」で説明が付く。ただ、「生きづらさ」は何でも解いてくれるマジックワード感があるので、そこは注意が必要。具体的にどういう意味で生きづらいのかとか、その辺の説明は求められるべし。


反省

他人の議論を参照することなく書いたので、反省多し。森会長の発言と、その他諸々の表現をまとめて議論しちゃったけど、これはそもそも分けた方がよかったなと思う。森会長発言については、根本として女性の活躍を推進する五輪の精神に反するとか、権力を握る側がこれを言うことの問題だとか、色々あると思うので。あんまり「お母さん食堂」とかと一緒に語るのはよくなかった。

総括

僕が個人的に思うのは、多くの人が森会長を批判するのは、結局彼がトレンドに乗れていないからなんじゃないかということ。今の時代、少なくない人が「性差別はよくない」「こういう発言は性差別に当たる」というのを、常識レベルでインストールしている。のだが、森会長はそうでなかった。そうすると、森氏は現代的な常識を備えていない、時代の価値観について行けていない人ということになり、そこが多くの人にとって、一番の批判ポイントだったんじゃないかということ。

で、だからこそ、「森会長の発言の何が問題なのか」ということについて、「性差別的だ」以上の説明が出てこないというか。じゃあなぜ性差別的な発言は許されないの? という、根本の問題をもっと掘り下げてみたかった。その試みが成功しているのかは、よくわからん。ただ、単なる常識的判断だけで止めてしまうのは、あんまりよくないと思っています。

今日言いたかったのは、そんな感じ。あと、フェミニストやジェンダー論者にとって、当人が不快と思っているかどうかはそんなに重要じゃないということ。どちらかというと、社会的役割の固定化とかを問題視しているようなので。

(あと、書き切れなかったのだが、この辺はAIとの問題も指摘されているらしい。ネットの表現におけるジェンダーバイアスをAIが学習して、固定的な規範を導いてしまうとか(それこそ食堂→お母さん)とか。そこは面白い問題だと思う。)

まだまだなところ多し。自分でもこれじゃダメだろうなと思うけど、仕方ない。やっぱり、他人と議論するって大事なことだと思いました。今日はガチで疲れたので、この辺で終わりにします。足りないところやおかしいだろと思うところは、コメント欄で指摘するか(コメント歓迎)、各自いろいろ補うべし。


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今日の話に全く関係しない本。全く関係ないのだが、あえてトップ画像にしてみる。