見出し画像

#70 フェミニズム、勉強していて思うこと

2月5日。金曜日。実質今日から春休みなので、比較的のびのびと過ごした。

そんな今日は【フェミニズム、勉強していて思うこと】ということで。五七五や。最近ちょくちょくフェミニズムの本を読んでいるので、その辺の雑感などなど。これをPart1として、定期的に書いていくと思う。

今日の記録

午後から活動開始。13時からアルバイト。いつも通りのアルバイト。来週、新バイト先の面接があるため、その資料の準備など。

17時バイト終わり。18時頃、先輩と雑談。なるほどね、と思うところ多し。今週は研究についてネガるようなこともたくさん書いたが、だいぶポジれてきました。就活も前向きに。まずは、受ける企業をちゃんと絞ろうと思います(遅すぎるのだけれど)。

夜、研究室で勉強。東京喰種が期間限定無料で読めたので、7巻ぐらいまで読む。まあ、まぁまぁかな。変わってしまったことにparalyzeしてきた。

あとは引き続きフェミニズムの勉強。久しぶりに、太田啓子『これからの男の子たちへ』など。おぉん、、、という感じなのだが、感情を言語化することが大事と言われていたので、頑張ってそうしてみる。

フェミニズム、勉強していて思うこと

(6000字ぐらい)

1月2月と重点的に、フェミニズム(と広くジェンダー論)の勉強をしているのだが、まあわからないことが多い。今読んでるものとしては、稲原美笛ほか編『フェミニスト現象学入門』、太田啓子『これからの男の子たちへ』、江原由美子編『フェミニズム(ワードマップ)』、レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』などなど。過去に読んだものとしては、イリス・ボネット『WORK DESIGN』ぐらいか。そのほか、細々した論文や、現代ビジネスの記事なども、読んだことは読んだ。最近だと、動物倫理の関係でフェミニズムに接することも多し。

で、これまでもアイデンティティ政治などについて勉強する中で、フェミニズムの主張にも触れてきたのだが、どうも「フェミニズムは全く一枚岩ではない」という印象が強かった。アンドレア・ドゥオーキンなんかは「合意の上で行われた結婚もレイプと同じ」と言っていたらしいが、すべてのフェミニストがこれに賛同するわけではないだろう。あと、男性優位社会における女性のあり方とかも、いろいろな論じ方があるように思われる。

そんな感じで、「どのフェミニズムが、どういう論拠で、どんな主張をしているのか」をちゃんと知りたいと思っていた矢先の、先日の森会長の女性蔑視発言である。発言の全文は↓で読める。

こういうのを見て、改めてちゃんとやっておかないとなと思った次第。ちなみに森会長の発言は、「女性は基本的に、理路整然とした話ができない」という前提が垣間見えるのがヤバいと思います。「一般的な女性にはそれができないが、自分たち組織委の女性はできてるのですごい」という論調なので。あとはまあ、「わきまえている」という表現に見られるような、自分たちにとって都合のよい話し方をする女性を評価する態度も問題視できると思う。いわゆる、「男性的な規範の強要」なのではなかろうか、的な。とはいえ、この辺については僕もわからんことが多いので(”男性的”という言い方が本当にできるのかなど)、後者についてはあんまりはっきりしたことは言えないです。

で、今は一人でフェミニズムについて勉強しているのだが、「これどうなの?」と思うところも多い。周りにフェミニズムに詳しい人もいないので、「この主張、界隈だとどんな風に捉えられている?」というのも聞けない。聞けないので、今日はとりあえずここに書く。

今日は主に、「フェミニズムのここがわからん」ということです。「わからん」を連発するので、コメント欄での指摘など歓迎です。

① 男性は女性の問題を語れるか?

これがまず、わからん。一口にフェミニズムといってもいろんな語り方があるのだが、女性の身体的特徴から出発する議論は、割と多い印象がある。具体的には、生理と妊娠である。今読んでいる『フェミニスト現象学入門』も、第3章で妊娠、第4章で生理(月経)を扱っている。女性の働き方を語る上でも、生理と妊娠(出産)が主要マターになっている気がする。

難しいのは、これらが男性の経験し得ない、女性特有のマターであることだ。僕は男性であるので、月経・妊娠を経験することがない。わかるのは、「生理は相当しんどい」「出産も相当しんどい」ということだけだ。一応、漫画「ツキイチ! 生理ちゃん」は全部読んだ。

ただ、ここだけでももうなんかいろんな問題が思いつく。例えば僕が「女性には月経・出産という固有のつらさがある」と語るとすれば、「生理が重くない女性もいる」「子供を産まない女性だっている」といった形で、主語がでかすぎるとの批判を招きうる。よく知りもしないくせに、女性を一括りにしているということ。そしてそれが「女性には生理があって当たり前」「女性は子供を産むもの」とのステレオタイプを再生産するという話。あとは、本質的に苦痛を理解できない者(男性)が、苦痛に共感した素振りを見せることの問題も指摘可能だとは思う。「お前に何がわかるの?」というか、知った気でいるだけタチが悪いというか、、、

それだけでなく、「生理は女性特有のマターだ」と記述することにも、問題はあるかもしれない。というのも、「生理は女性特有」という考え方が、そもそも男性・女性という二項対立に基づいており、これが新たな規範として抑圧的に働く、云々。僕も詳しくないのでうまく書けないが、「生物学的に男性・女性は、異なる身体を持つ存在でしょ?」という想定そのものが、暴力性をはらむということは、しばしば指摘されている、気がする。この辺に迷い込むとますますわからなくなる。

まとめると、女性の身体の問題について、男性が語ることが可能なのか(適切であるのか)ということ。「俺、フェミニズム学んでるから、生理のツラさとか結構理解できるよ」って言ってる人いたら、皆さん、どう思いますか? あと、語ることはともかく「知ったつもりになること」も、よいのかどうか。もしこれが批判されるとしたら、我々は「学ぼう」という姿勢を持っていたとしても、いつまでも「理解」には到達できないということになって、なんかよくわからんなという話。

ちなみに最近、森山至貴『LGBTを読みとく』を読みといているが、ここでは興味深いことに、「LGBTについて、この程度まで知っておいてほしい知識の基準」というのが示されている。我々、本質的に他者を理解するのは不可能かも知れないが、せめて「人を傷つけない程度には」ものを知っているべきだ、とのことである(32頁)。この本では「知ったかぶり」が徹底的に批判され、ちゃんと知識を身につけるべしと言われてている。その際、「みながこの程度まで知っていれば十分にセクシュアルマイノリティに対する差別は解消されうる」というのが、知っておくベき知識の基準として示されている。

フェミニズムにおいても、このような基準を立てることは可能だろうか。「みながこの程度まで知っていれば十分に女性への差別は解消されうる」、というような知識の基準が。そうすれば、もっと「わからん」の連発は減らせるだろうなと思う。

② 性差は生物学的なものか、あるいは社会的に構築されたものか

これが、第二の疑問。いわゆる、本質主義/構築主義の対立として理解されるもの。

フェミニズムの文献を読んでいると、圧倒的に本質主義の立場は分が悪い。本質主義(生物学的本質主義)とは、ものごとには元来備わった機能があり、それこそが自然で本質的である、という立場。例えば、男性の体は、狩りができるよう身体能力に優れたものと「なっている」だとか、あるいは、女性の体は子供が産めるように「なっている」だとか。そんな感じで、生物の本来的な特徴を強調するのが、本質主義の立場である(ので、男性が外で働き、女性が家事・育児をするのは、生物として自然なことだと主張される。その先で、「自然だから正しい」とまで言うのかは、よくわからない。)

これに対して、構築主義(社会構築主義)は、男性・女性が最初からそう「なっている」のではなく、社会の中でそう「された」、あるいはそのように「作られた」ことを強調する。例えば、家事・育児に従事する女性が多いのは、何もそれが生物学的に自然だということではなく、社会の側からそうした規範(女は家にいるものだ)を刷り込まれたからだ、と理解するし、男性が競争を重視するのも、それが男性の本質だからでは決してなく、そのような「男らしさ」なるものを社会から刷り込まれたからと理解する。ので、絶対不変な「本質」などは存在しないし、社会のあり方を変えれば、人のあり方・生きやすさも変わるという立場である(と思う)。

フェミニズム、ないしジェンダー論では、後者の立場が圧倒的に多い。それもそのはずで、従来は生物学的な立場から、女性蔑視や差別が正当化されてきたからである。その前提に立たないということが、そもそものスタートラインのようにも思える(ただ、ギリガンなどは男の子・女の子の考え方の違いにも注目していたようなので、完全に生物学的性差を無視していたのかどうかは、よくわからない。よく分からないことが多すぎる)。

そして厄介なのが、この社会構築主義、だいたいのことは説明できてしまうことである。例えば、先ほどの森会長の発言「女性が話すと会議が長引く」、あるいは「女性は理路整然とした話ができない」というのを問題視したとする。まず言えるのは、「そういうことを示すデータがあるのか」ということである。まあ多分ないのだが(逆に反証データがあるらしい)、仮にもしあったとしても、次のようなことが言いうると思う。すなわち、「そのようなデータは結局、男女の本質的な差を表すものではなく、社会の側が『女性が話すこと』を抑圧してきた結果を示すものに過ぎない」ということ。女性は本来的に話すのが苦手な生物なのではない。社会の側からそのようにして「作られた」のだと、そう主張するわけである。そうかもしれない、と思うところはあるのだが、これをしっかり証明するのは、結構困難なことなのではないかと思う。

↑こちらは、太田本(『これからの男の子たちへ』)について書かれたサイト。太田本があまりに社会構築主義に依存していることを批判している。というのも、太田本では、「男らしさ」というのはすべて社会的に構築されたものであり、私たちはそこから自由になれるし、またそうするのがよいと説かれているため。どうやって自由になるの? という点については、幼少期からそうした「男らしさ」的なものを刷り込まないこと、つまり教育が重要、ということになる(ので、この本は「これからの男の子たちへ」というタイトルであるが、どちらかというと親御さん向けに書かれている感がある)。ただ、上記のサイトでは、あまりに生物学的な特徴を無視しすぎなのではないか、ということが指摘されている。読むべし。

この辺については、僕は素人なので、本当にわからない。ただ、生物学的本質主義を徹底的に斥けたいフェミニズムの立場も、結構理解できる。そうしないと、「社会の変革」という方向に向かいにくいため。のだが、「全部社会的に構築されたもの」という説明も、都合がよすぎるかもなあという感じ。ここはいつか折り合いが付くのだろうか。

③ フェミニズムは男性の側から批判可能か?

疲れてきたので、最後は軽めに。勉強していてしばしば感じるのが、「フェミニズムを批判できるのか?」ということ。というのも、そもそもこれらを批判しようとすることが、「男性性」の表れなのではないかと思ったり。

例えば、今読んでいるレベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』にこんな記述があった。「マンスプレイニング」という言葉が出てきたとき、女性たちはこぞって自分たちの実体験を語った。すると男性の側から、「いやいやそれはおかしい」という批判がとんできた。女性たちは言い返した。「私たちが自分の実情を語っているのに、それを上から目線で批判する。これこそがまさにマンスプレイニングなのだ」と。手元に本がないので確認ができないのだが、大体こんな感じだったと思う。

これは要するに、「否定することそれ自体が男性性の表れなのだ」ということだと思う。こういうのはよくあって、フェミニズムを批判するのは、そもそもミソジニーを内面化しているからだとか、あるいは自分の特権的立場を崩したくないからだとか。かなり極端な言い方をすれば、「あなたが男性的価値に染まっているから、フェミニズムを批判するんでしょ」ということ。あとはフェミニズムの主張に対して「合理的でない」と批判するのはだいぶ危うくて、そもそも「合理性」というのが、男性が作ってきた規範であるため。そうした支配的規範に押し込めて評価することは、一種の暴力なのだと理解される。

加えて、僕は何回も「わからん」と言ってしまっているが、多分これもよくないと思う。「わからん」というのはつまり、「その議論には乗りにくい」ということであり、それすなわち「私が持っている評価基準に反します」ということにもなりうる。ただ、フェミニズムというのは、そもそものその評価基準を壊すものでもあったはず。そう考えると、安易に「わからん」というのはよくなくて、まずは自分の価値基準を反省してみましょうということになると思う。

そうすると、批判そのものが成り立たなく成る可能性もあるのだが、よくわからん。総じて、フェミニズムの主張を評価・批判する際に、どのような視点を持てばいいのか。多分、合理主義的な視点は批判されるのだが、それに代わる視点とは、一体何なのか。


* * *

ざっくり書いたけど、長くなったしこんな感じ。疑問や思うところは他にもあり。ただ、今日思ったこととして、フェミニズムの主張に実感が得にくいのは、単に僕が闇の世界を知らないだけかもなあということがある。これは思いつきで話すので、できればてきとうに聞き流してください(看過できない問題があれば指摘してください)。

というのも、僕はおっすおら陽キャみたいなコミュニティには属していなかったし、合コンとかにも行ったことがない。比較的、性に穏やかな集団というか、性を意識したりだとか、性的な特徴をいじったり、性差別を隠そうともしない環境には、身を置いていなかったように思う(多分)。もちろんこれは単に自己反省が足りないだけとか、日常的な女性差別を見落としているだけとか、そういうことはあると思う。ただ、それにしても、女性蔑視やセクハラを露骨にするようなマッチョな世界は、自分的にも居心地が悪いので、意識的に避けてきた気がする。

この漫画に出てくるような友人はいなかったなあと思う。

少し脱線するけれど、このごろ、ピーター・シンガーの『動物の解放』を読んでいる。食肉や動物実験に反対する本だが、僕はこれを読む前、「動物実験、基本はよくないだろうけど、必要なときはあるでしょ」という感覚だった。のだが、この本を読むと、動物実験界隈、ガチで闇の世界が広がっていることがわかる。特に意味もなく、母ザルに子ザルを殺させたりだとか(前に「動物実験と学問の自由」というのも書いたので、詳しくはそちらに)。そうしたことが、性差別のところでも言えるのかも知れない、ということ。

こういう、安易な「自分はそういう環境にいなかった論」、よくないんですけどね。いや、本当に、よくないと思います。でも、フェミニズムやジェンダー論、その他マイノリティ関連の議論の恐ろしさは、「あなたがマジョリティであるがゆえに無自覚なだけでは?」と言われれば、無限に反省ができてしまうことだと思います。そうすると「環境」などのせいには一切できなくなるのだが、本当にそうか? と思うところもあり。この先については、今日は疲れたので、Part2に持ち越しということで。いつかやるPart2、期待しておいてください。さようなら。