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クィアフェミニズムやマイノリティの立場から「力と交換様式」を読む

「文學界」2月号の特集「『力と交換様式』を読む」を読んで、こんな読み方があるのかと意表を突かれ、感心したのは、次の2つの読み。

ひとつめ。Dの実現に向けての意思や企画に対して否定的な柄谷の態度が、「『革命』『運動』に対するジェンダー論的クィアフェミニズム的介入と遠くない」とする渡邊英理の読み。以下、引用。

”現在をないがしろにする未来的ユートピア志向、「大義」のためには性の政治を等閑視することも辞さない「革命」という大文字の政治の小文字の政治に対する優越、性差別・民族差別をはらむ「運動」内部の家父長制・自民族中心主義など、「革命」「運動」の一義的な意図や目的論的な物語はクィアフェミニズムやマイノリティの立場から批判に付されてきた。それと同様の身振りにある柄谷の言葉は、Dの現実化が、性暴力や性差別、クィアな関係性や存在への抑圧の解消を伴うことを暗示しているように思える。交換様式Aが婚姻という性/身体の交換を含むように、Aの高次元の回復としてのDが到来するには、A・B・Cにおける性的な交換もまた高次元で解消されるべきだろう。”

確かに、交換様式Dがドミナントとなった社会(=共産主義社会)は、「婚姻」「家族」といった制度をも、その閉鎖性・排他性を解消するような方向へ、変容させずには置かないだろう。それは、世界史上、AにおいてもBにおいてもCにおいても、"最もありふれた"交換財であった性/身体を、その位置から解放し、言わば「コモン」化するということを意味するだろう。同時に「婚姻」「家族」をコモン化するということでもあり、社会制度的には「オープンマリッジ」のようなあり方がイメージされる。
これはあたかも、定住革命以前の狩猟採集民の遊動的バンド社会、すなわち「原遊動性(U)」へ回帰するかのようではないか。交換様式DがAよりも「高次元」であるとは、Aを乗り越えて(というかAから更に遡って)「原遊動性(U)」への回帰をはらむということなのであろうか。。

ふたつめ。初期定住民に交換様式Aを外側から強いた「原遊動性(U)」、Aの高次元での回復である交換様式Dをいずれ必ず到来させる「原遊動性(U)」が、反復強迫的に「向こうから」回帰してくる兆候は現在の世界には存在しないのか? という問いを自ら立て、「私はあると思う」と自ら答える鹿島茂の読み。以下、引用。

”それは先進国における人口減少と、発展途上国における人口爆発である。この二極化現象は現在、南北問題と結びついてむしろ交換様式Cの問題となってあらわれている。すなわち、先進国における労働力不足を発展途上国からの移民で補うことで解決しようとするため、現象的には賃金格差の拡大としてあらわれている。明らかに交換様式Cである。だが、従来の交換様式Cとは異なる要素も含まれているように思う。それは移民には、原遊動民にあったような「いつでも集団を抜けて移動できる自由」があるからだ。いずれ先進国では労働力不足から移民の奪い合いとなるだろう。そうしたら、今は「いやなら出ていけ」といわれている移民は「はい、そうします」と出ていってしまうことになる。つまり「原遊動性(U)」の回帰である。”

この読みには驚いた。思いもよらなかったが、成程!と思わず膝を打った。
現代世界で急速に進む「人口減少と人口爆発の二極化 ⇒ 世界的な移民の大量発生」という流れは、現代世界を覆う「資本=ネーション=国家」接合体の活動が引き起こしたものであって、人間の意図や企画によるものではないので、世界自体にこの流れが止まるような変化が起きるまで止めることは出来ない。
ちょうど、17世紀からアメリカ大陸に移民が押し寄せ、18世紀にアメリカ合衆国が独立し、20世紀には資本主義(交換様式C)の圧倒的なヘゲモニー国家となったように。。 ふたたび人々の大規模な移動が、世界史の大転換(今度は交換様式Dへの?)をもたらす時が来るのかも知れない。
かつて「日本革命の主力部隊は日本国民ではなく日本に移民したアジア人民が成すであろう」と予言した人がいて、現実味がない話だなと思ったが(にもかかわらず心に引っ掛かっていたが)、それが「向こうから」到来するのであれば、現実味がないことはむしろむべなるかな、、なのかも知れない。

以上、「文學界」2月号の特集「『力と交換様式』を読む」で、最もユニークな2つの読みが、はからずも「クィアフェミニズムやマイノリティの立場から」であったことは偶然ではないのでは、と思えるのであった。

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