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文豪宿の背丈ほどもある深い湯

 忙しい世の中です。溢れるメール、終わらない打ち合わせ。情報と判断の洪水にかき乱されながらも、自分を保ってゆくにはひとつ。
 心に温泉を飼っておくことです。

 シルバーウィークの始まりの頃、東北へ短い旅をしました。行き先は、岩手県の古い宿、鉛温泉・藤三旅館です。宮沢賢治の『なめとこ山の熊』にこの温泉の記述があったり、田宮虎彦著『銀心中』はこの宿で書かれたそうで、間違いなく文豪の宿なのです。とにかく旅館らしい旅館に泊まってみたかったので、行ってみました。

 新幹線で新花巻駅(新幹線の駅ですが、立ち食い蕎麦的なお店と売店以外ほぼ何も無いので、着いてから時間を潰そうという際は注意……)へ着き、日に三本出ているシャトルバスに揺られて小一時間。現代的な宿が多く集まるらしい花巻温泉の他に、幾つもの温泉地がひとところに固まっており、シャトルバスはそれらを周るようです。うちの一つが鉛温泉というわけです。鉛温泉の宿は、藤三旅館だけです。

 シャトルバスはまっすぐな道の停留所で止まります。先に小さなワゴンがドアを開いて停車しており、旅館の従業員さんの誘導で、そちらに乗り換えます。建物はすぐ近くなのですが、坂を下るために乗り換えるのです。
 木の枝が伸びる坂を下り、藤三旅館が見えます。道は狭めで、建物との間に蜘蛛の巣が張っており、もしかして、ここでの滞在は、虫と戦う系のアレか……、と失礼ながら思いましたが、後で書きますけど、大丈夫でした。大丈夫ですよ!

坂の下、バスを降りて宮造りのような入り口をくぐり、履き物を脱いで畳のスリッパに履き替えると、赤い絨毯のロビーです。雑多とした置物が並ぶあたり、いかにも昔の建物という感じがします。ソファに座って待ち、それから二階の部屋へ案内されました。
(館内写真は翌日朝に撮っています)

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廊下1

 客室は古めかしいロビーや廊下のトーンと打って変わって、かなり明るめです。白くてクリーンな印象を与えます(写真は朝、照明を落として撮っていたため暗めですが、実際はかなり白いです)。1~2人用のお部屋は旅館としては狭めですが、天井が高めに作られているため、実際よりも広く感じられます。畳も緑色で新しいです。
 虫は全く居ない! これは大きなポイントです。

部屋1

部屋2

 昭和初期の建築でありながら、気分良く過ごして貰おうという工夫が感じられます。古さを期待されているであろう中、それでいて全てが古ければガッカリされてしまうかもしれない。そこで客室だけ新しく、トーンを明るくする。良いバランス感覚だと思います。
 ただ、トイレと洗面所は廊下の共同のものを使わなければなりません。どちらか片方、または両方が備え付けられた部屋もありますが、今回はクラシックな、トイレ洗面無しの構成です。

 本館の他に、客室は湯治部、別邸の十三月があります。湯治部はその名の通り、湯治滞在の方向けです。別邸十三月は、いわゆる新館ですが、かなり現代的な建築のようで、お値段もなかなか張ってます。先程も書きましたが、古さと新しさが建物の中で同居しているイメージです。

 お風呂は4箇所あり、どこに泊まっても使うことができます。全部が源泉かけ流し温泉という贅沢さです。それぞれ、桂の湯、銀の湯、白糸の湯、白猿の湯です。
 桂の湯は男女別、銀の湯は男女別貸切、白糸の湯は男女交代式、白猿の湯だけ混浴です(といっても女性用の時間帯があるので、実質交代式)。

風呂入口

 そして、待望の温泉に入りました。まず桂の湯です。カランは四つ。やや小さめ~中ぐらいですが、露天風呂と内風呂に分かれています。お湯は源泉掛け流し、内風呂はやや熱め。湯船に入るお客の戸惑い苦しむ顔がちょっと見られるぐらいです……若干つらい! こうでなければいけない。露天風呂は川の傍にあり、せせらぎを眺めながら入ることができます。なかなかよい景色です。そして、なによりお湯が良い。温泉と言えば、化粧水のような……と形容されがちですが、こちらもそういった無色透明な、すべすべとした泉質です。一ヶ月以上とか、湯治で長く浸かっていたらより健康になれそうな感じが、確かにしました。もう既に露天風呂で満足できたのですが、メインの風呂は白猿の湯なのです。

廊下6

 白猿の湯は、廊下の扉をガラリと開くといきなり広がっています。大きな空間を回り込むように薄暗い階段を下ると、中央に小判型の湯船があります。大きさはそれほどでもありませんが、水面の反射がどこかの池みたいです。そう、ここの湯船は、珍しいことに水深が人の背丈ぐらいあり、立ったまま入ることができるのです。

 衝立が置かれただけの脱衣所で浴衣を脱ぎタオルを巻いて沈めば、熱さも丁度良い湯に包まれます。水深のせいか、染み渡る感じがします。底の方は平らではなく、岩場をコンクリ……だろうか、そういったもので固めた感じになっており、凸凹です。固定されていない石も転がっています。そのため、深い所とやや浅い所で、かなり差があります。一番深い所では、自分の首辺りまで沈んでしまいました。

 湯船の中央からは静かに泡が昇り、足下から温泉が噴き出しているのが分かります。いわゆる足下自噴というものです。発祥が非常に古い法師温泉などもそうですが、大変珍しいものです。そして、シャワーなどは一切ありません。小判型の湯船の近くに、小さめの円形の湯船があって、どうやらそこから桶でお湯を掬って浴びるくらいのようです。でも、塩湯とかでもなく、とにかく泉質が良いので、身体を流す必要も無さそうです。拭こうが何しようが、出てきた頃には全身びっしょびしょになりますが。白猿の湯は雰囲気も含めて、とにかく素晴らしいです。写真を撮りたかったのですが、一応混浴ですし、無断はダメなのでやめておきました。ホームページ等で見て頂きたいです。


 夕食です。通常は食堂で食べるのですが、今回は旅館の方から部屋食にさせてくださいと申し出がありました。
 お部屋に懐石料理が運ばれてくるのは久しぶりですよ。

料理1

 幾つも小皿が並んで、どれも美味しそうです。
 覚えている限り、ご説明しますと……。

料理3

 じゅんさいのような葉の、酢の物。上にとろろとイクラが乗っています。ツルッと飲めます。

料理5

柚子味噌につけて食べる、イカ、帆立、菊の花など。

料理8

枝豆の豆腐です。カニが添えられています。

料理6

焼き物など。柚子の中はホヤのわさび漬けのような物が入っていました。

料理7

お造り。マグロとカンパチ(だと思う)。どちらも新鮮で美味しいです。

料理4

あんかけ茶碗蒸し。フカヒレとアワビの身が入っています。

料理9

お吸い物。おぼろ昆布と鱧の身が入っています。鱧、お洒落ですね。

料理2

ご当地豚肉。甘めの醤油出汁の小鍋に沈めて、固形燃料でグツグツ煮込みます。野菜のパリパリ感も併せて、美味い!

料理10

 デザートのパイ生地クリームです。甘さ控えめ。

 全部食べたら、結構量がありましたね……いっぱいになってしまいました。どれも美味しかったです。満足です。

 夜、もう一度温泉に入ってみることにしました。
廊下を出ると、消灯した館内は音も無く、完全に営業終了した雰囲気が出ています。その昔、警備の仕事をしていた時の、溶け込みそうな夜勤巡回の空気です。受付にも誰も居ません。暗い中、自販機と温泉の入り口だけは電気が点いており、再び白猿の湯に入ってみました。これが最高でした。

 誰も居ない……誰も! 広い空間に反響する湯船の波の音と、ざわざわとした木々の葉音だけ。自分ひとりだけ! 腕を動かして、背丈ほどもある深い湯を波立たせました。歩いてみました。小判型の湯船を一巡り。端に背を預けて、ドーム状の建物の天井を見る……良い。イメージしたとおりの静謐な空間です。秘湯というのは、こんな感じを言うのでしょうね。いつまでもこうしていたい。

 その後、サイダーにお茶に、ペットボトルを買い込んで、部屋でポメラDM200をぶっ叩き、趣味の短編を一個書きました。勢い重視で、我ながらあんまり出来はアレでしたが、これで文豪体験も実績解除です。ほぼ明け方までかかってしまったので、二時間ぐらいしか寝てません。
 藤三旅館、古いのは確かです。客室など、かなり的を絞って綺麗にされておりますが、虫さんに弱ければ訪れるのは秋~冬にされた方がいいかもしれません。それでなければ、新築の別邸十三月を選ばれるのも良いでしょう。
 しかしながら、ここにはクラシック「風」といった再現ではない、本物の旅館があります。古さを残しつつ、新しさも取り入れたい。そんな試みも感じられる、良い宿でした。

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