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ソーダはヤングケアラーか?というよくある疑問

ずいぶん前なのだけど、きっかけはIGB伊藤さんのこちらのツイートX

ソーダはヤングケアラーか?コミュニケーション支援はケアなのか?という疑問は私の中にずっとあって、私自身もヤングケアラーだったか?と訊かれたら返答に詰まる。最近ソーダとコーダで話した際にも、家族間でのコミュニケーション支援の話題になった。

これまでもコーダやソーダの親の立場の方が(ご自分のお子さんがヤングケアラーだと言われることに)違和感を発信されることがあって、言わんとされることは理解できる一方で、見過ごされている要素もある気がしている。せっかくなので違和感を整理してみようと思う。

●名称のタイプの違い

まず大前提として、コーダやソーダという「生まれ育ちや人間関係」に基づく名前は、全員が同じ経験や気持ちを共有してるわけではないので、ヤングケアラーという「状況や経験」につく名前でひと括りにされることに最初の違和感がある。

●どこまでがケアなのか

そして、身体介助や生活支援と違って、コミュニケーションや音にまつわる支援は「ケア」と認識されづらい。家族の会話との境い目が曖昧だから「ケア」に含めることに違和感があるのかも。

ソーダの私の場合、何か普通と違う音(救急車のサイレンやガラスが割れる音、雷や風など)が聞こえたら即座に妹に伝えるし、妹と歩く時は後ろから来る車の音に注意する。誰かが妹に話しかけて通じていないと思ったら頼まれなくても仲介してしまう。どれも家族として妹を見守り、排除しないための行動で、子どもの頃から自然にやってきたことだから完全に無意識。だからそれが「ケア」だと言われるとびっくりしてしまう。
これは冒頭のツイートの、非身体的・無意識的という分析と合致するかもしれない。

●負担の重さと影響範囲

コミュニケーション支援に限って言えば、私はソーダだから、ヤング当時(=子どもの頃)の「ケア」は家庭内での仲介や伝達、親戚の集まりでの通訳もどき程度で、負担に感じることはあってもあまり深刻ではなかったと思う。むしろヤングでなくなってから(=話す内容が複雑になり、妹の言語が口話→手話に変わってから)のほうが苦労している。だから大人相手のコミュニケーションを子どもが支援するような状況を考えれば、コーダの負担はより大きいだろうと推測する。

しかし負担の大小で判断するのは危険な気もする。コーダでもソーダでも、時代や家庭環境によって、聞こえない家族と社会との間でコミュニケーションを含むさまざまな「ケア」を担う(or 担うことを期待される or 自分が担わなくてはいけないと考える)子どもは確実にいて、それが非身体的・無意識的・言語的であろうとなかろうと、本人が「自分はヤングケアラーだった」と思えばそうであり、誰も(たとえ親であっても)否定できないのではないか。

●ケアの受益者は誰か?

忘れていけないのは受益者の問題。コーダやソーダによるコミュニケーション支援という「ケア」の受益者には、聞こえない家族のみならず、相手の聴者も含まれる。この点は身体・生活支援のケアとは根本的に異なるので理解されにくいかもしれない。まさに言語的なケアの特徴であり、本来は受益者である周囲の大人聴者が正しい配慮をすれば、コーダやソーダをヤングケアラーにさせずに済むはずなのだ。

だから行政が進める「ヤングケアラー支援」は、聴覚障害に限って言えば支援の対象や方向が多少ずれている気がするし、「ヤングケアラー=時間的負担・家事負担・学業への影響・自己犠牲・可哀想」という世間一般のイメージともそぐわないのかもしれない。

●見過ごされるコミュニケーション以外の負担

コミュニケーション支援とは別の側面として、周囲と異なる家庭環境による心理的な負担や親子関係の問題が、ヤングケアラーにつながるケースがある。この負担は目に見えないので親や周囲から理解されづらい。

ソーダでよくあるのは、障害あるきょうだいではなく親のヤングケアラーになってしまうパターン。これは障害種別を問わずきょうだい児(障害をもつ人のきょうだい)に多い気がする。

私のケースで言えば、母は当時小学生の私に不平不満や愚痴を言い、時には当たり散らすことで難聴児育児のストレスを発散していたと思われる。母の顔色を窺って過ごし、若白髪が出るほどのストレスの中で聞こえる罪悪感と責任感(聞こえるのだからしっかりしなくては!我慢しなくては!)でがんじがらめになったことが、私の担った最大の「ケア」かもしれない。ケアラー(母)の精神的ケアを担うヤングケアラーだったわけだ。そう考えれば、私は自らの子どもらしさと健全な心の成長を代償にしたわけで、がっつりヤングケアラー(ヤングカウンセラー?ヤングサンドバッグ?)だったとも言える。

こういう体験は「きょうだい児あるある」なのにあまり認識されていないのは、影響がヤングを過ぎた後になって初めて表面化するからかもしれない。私も成人後にパニック症状で精神科に通院するようになり、カウンセリングを通じてようやく生育歴と母との歪な関係に気づかされた。

●結論ってほどじゃないまとめ

というわけで、冒頭ツイートの「コミュニケーション支援の特性――非身体性・無意識的・言語的――」に絡めて、ソーダがヤングケアラーとされることについて考えてみた。

「ヤングケアラー」の問題は決してヤングの間だけではなく、

聴覚障害当事者 or 聴覚障害児育児に必要な支援が不足
⇒ 身近にいる子ども(コーダやソーダ)が年齢相応の成長機会を得られない
⇒ 将来のその子の人生にも影響を与える

という長期的な構図もありうることを知ってほしい(もちろん全員がそうではない)。目の前にいる子どもの具体的な負担軽減はもちろんだけど、将来を見据えたヤングケアラー支援であってほしいと思うのだ。

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