杉山たたみ/SODAキコエルきょうだい

キコエル姉 / 妹がろう / Sibling of a Deaf Adult (SOD…

杉山たたみ/SODAキコエルきょうだい

キコエル姉 / 妹がろう / Sibling of a Deaf Adult (SODA) / 聞こえないきょうだいをもつSODAソーダの会 / キコエル姉の視点から、親・きょうだい・社会の間にあるキコエル・キコエナイの境目について考えたことを発信します

最近の記事

ソーダはヤングケアラーか?というよくある疑問

ずいぶん前なのだけど、きっかけはIGB伊藤さんのこちらのツイートX ソーダはヤングケアラーか?コミュニケーション支援はケアなのか?という疑問は私の中にずっとあって、私自身もヤングケアラーだったか?と訊かれたら返答に詰まる。最近ソーダとコーダで話した際にも、家族間でのコミュニケーション支援の話題になった。 これまでもコーダやソーダの親の立場の方が(ご自分のお子さんがヤングケアラーだと言われることに)違和感を発信されることがあって、言わんとされることは理解できる一方で、見過ご

    • 聞こえないことを謝るのはなぜ?――ペコペコする母を見てモヤモヤしてるソーダの話

      これは昔からなのだが、ウチの母は聞こえない妹のことについて周囲に過剰に謝ったり感謝したりする。そして迷惑をかけないように家族が伝達や代行するのが当然だと思っている。すでにアラフィフで社会人として自立した妹のことなのに、過保護を超えてほとんど卑屈と言ってもいい態度なのだ。 ペコペコの事例 例えば… ● 銀行などの手続きに同席して謝る 「ごめんなさい。この子 (=妹) は耳が悪いのでこっち (=私) に説明させます。ご迷惑おかけします」 ● 病院の待合室や外食先で周囲に謝る

      • ある年上ソーダとの対話―大人の聾・聴きょうだいの関係がゴタゴタするのはなぜだろう―

        昨年、あるソーダ(聞こえるきょうだい SODA)が知人のつながりをたどって私に連絡してこられ、お話を伺う機会があった。お名前は仮にAさんとしよう。 ひとりで抱えるには重すぎた悩み 私よりだいぶ上の世代。男尊女卑・家父長制の価値観が強く残る家庭で、親は長子である聾きょうだいにはとことん甘く、Aさんには厳しく接したらしい。「将来聞こえない上の子の面倒を見させるために産んだ」という、弟妹きょうだい児(=障害児者のきょうだい)にとって最低最悪の暴言を親からぶつけられてしまったAさ

        • ドラマ『しずかちゃんとパパ』をめぐるソーダのひとりごと

          このドラマ、最初は見るつもりなかったのです。どうせ感動とか涙とか家族愛とか、みんなで障害を乗り越えてハッピーみたいな、お決まりのストーリーだろうと思っていたので。ひねくれ者なんです、私。 ところが予告編が公開されると、ストーリーより手話と当事者による表象 (=ろう者の役はろう者の俳優を起用すべきという考え) ばかりが話題になり、それはもちろん大切な問題だけど、うーむ、主役はコーダなのに、やっぱりろう者と手話ばかり注目されちゃうんだよね、と微妙な気持ちになってきました。そこで

        ソーダはヤングケアラーか?というよくある疑問

          難聴児早期発見・早期療育パブリックコメント こんな意見を出しました

          こちらでは私がパブリックコメント「難聴児の早期発見・早期療育推進のための基本方針(案)」に提出した意見を参考資料として公開しています。 私は方針案の文言をなるべく効果的な形で変更してもらうことを目指しました。そのため具体的に【該当箇所】を示し、【意見】でどこが問題なのか、【理由】でどうしてマズイのか・どう変えてほしいのかを書いたので、全部で11件提出することになりました。 意見の書き方は自由、複数提出もOK(※末尾に説明追記)です。方針案の全体について思ったことを書いても

          難聴児早期発見・早期療育パブリックコメント こんな意見を出しました

          親の最期を説明する――父を看取ってキコエルきょうだいが気づいたこと

          キコエル親の最期の言葉がわからなかったというろう者の体験についてツイートを読んだ。誰しもなんとなく想像する親との別れだけど、キコエル人とキコエナイ人がいる家族の場合はどんな感じだったのか、父を看取った体験をキコエルきょうだい=ソーダの目線で書いてみようと思う。 ●最期の言葉はいつ?父が他界したのは数年前。元々認知症で言葉が減っていたところに誤嚥性肺炎を起こしたので、話をすることはできないまま逝ってしまった。言葉にならない声はたまに出ていて、大きく呼吸する姿がしゃべっているよ

          親の最期を説明する――父を看取ってキコエルきょうだいが気づいたこと

          キコエルきょうだいへのプレッシャーを考えてみた

          子どものうちから(キコエナイお子さんと一緒に)キコエルきょうだいも手話やろう者の世界に触れてほしいと思うのは親のエゴだろうかというツイートを見た。 多くの方が「エゴではない、キコエナイお子さんのロールモデルになるし、家族としても大切なことだ」とリプされていて、私もその通りだと思う。このツイ主さんはキコエルきょうだい(ソーダ)のことも理解されたうえで迷いを投げかけておられて、私もすぐイイネを押した。でも単純に「ソーダ当事者としてもエゴじゃないと思います」とは返せずにいる。何か

          キコエルきょうだいへのプレッシャーを考えてみた

          デフ・ヴォイス最新刊「わたしのいないテーブルで」を読んで

          読書感想文って苦手だ。特にこの本は難しい。いったいどういう視点で書けばいいのだろう。 ●相続の場面に出てきた聴者のきょうだいとして? ●「ディナーテーブル症候群」の論文翻訳に携わった者として? ●作中の傷害事件の原因になったような口話でのコミュニケーションを近くで見てきた立場として? ●聴親とろう児に過大な負担を強いた口話教育のとばっちりで「聞こえるから大丈夫」と疎外されて育った立場として? ●福祉目線や善意で美化された手話にわだかまりを感じてきた立場として? ど

          デフ・ヴォイス最新刊「わたしのいないテーブルで」を読んで

          自己紹介・関連情報リンク

          キコエル姉 / 妹がろう / Sibling of a Deaf Adult (SODA) 聞こえないきょうだいをもつSODAソーダの会に参加中。 NPO法人インフォメーションギャップバスターの家族プロジェクトもお手伝いしています。 キコエナイ妹をもつキコエル姉の視点から、親・きょうだい・社会の間にあるキコエル・キコエナイの境目について考えています。 日常はTwitterにて、まとまった文章はnoteで発信する予定です。 自己紹介を兼ねて過去の記事や翻訳などの掲載先をご案

          情報保障への気づきをオリパラで終わらせないために ――ユニバーサルの基準はどこに置くべきか

          多くの反対意見の中、コロナ禍で開催されたオリンピックとパラリンピック。競技そのものもさることながら放送の情報保障をめぐっていろいろな試みが行われ、私の周囲でも開閉会式の内容や手話通訳・字幕についてさまざまな反応があった。たくさんの人が「手話の人」を初めて意識するようになったのはオリンピック・パラリンピックならではの効果だと思う。 本稿ではそうした気づきを一時的なお祭りで終わらせないために、キコエナイきょうだいをもつ私の視点から、情報保障について気づいたことを書いておきたい。

          情報保障への気づきをオリパラで終わらせないために ――ユニバーサルの基準はどこに置くべきか