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親の最期を説明する――父を看取ってキコエルきょうだいが気づいたこと

キコエル親の最期の言葉がわからなかったというろう者の体験についてツイートを読んだ。誰しもなんとなく想像する親との別れだけど、キコエル人とキコエナイ人がいる家族の場合はどんな感じだったのか、父を看取った体験をキコエルきょうだい=ソーダの目線で書いてみようと思う。

●最期の言葉はいつ?

父が他界したのは数年前。元々認知症で言葉が減っていたところに誤嚥性肺炎を起こしたので、話をすることはできないまま逝ってしまった。言葉にならない声はたまに出ていて、大きく呼吸する姿がしゃべっているように見えたので「いま何か言ってるの?」と妹に訊かれたりもした

私たち姉妹は手話禁止・口話教育全盛の時代に育った。妹は大人になってから手話の人になったから、家庭内で共通する言語はあやふやでコミュニケーションは不完全なままだ。妹と父が最後に言葉を交わしたのがいつだったのか私は知らない。その会話は(ずっとそうしてきたように)私が仲介したのかもしれないし、通訳の必要ないレベルのやり取りだったかもしれない。

●キコエル人向けの説明

父が亡くなるまでのことでよく覚えているのは、看護師さんから「呼吸音が喉の奥の方に引っ張る感じに変わったら最期が近いです」って言われたこと。自分でも聞いたことがない音、そして妹が聞くことのできない音をどう伝えればいいか悩んだが、結局言われたままを妹に伝えた。

私はこういうキコエルことを前提とした内容でもそのまま妹に伝えてしまうことが多い。気を遣って言わないキコエル家族もいると思うし、その気持ちはよくわかる。もちろんちゃんと知らせてほしいというキコエナイ人の不満も理解できる。

●情報伝達の難しさ

「手話通訳を呼べばいい」って言うのは簡単なのだけど、困ったのは父の容態や今後に関する情報が色々なタイミングで伝えられたことだ。たとえば「精算は○時までに」みたいな事務連絡や「脚がびくっと動くのは自然な現象なんです」「苦しそうに見えますがご本人はウトウトしてる気分のはず」みたいな状況説明を、検温や清拭とか医師の回診なんかの時にたまたま居合わせた家族に言われるわけ。意識しておかないと妹には共有できない。連絡帳でも作れば良かったかも。

思い返せば雑談のような形で知らされた情報がとても多かった。となると家族がキコエナイ人だけの場合にも同じ情報量を伝えてもらえるのかな?少し心配になる。

●ふたつの役割――家族代表と通訳

父の最期は看取り介護(延命治療を止めて自然に任せる)という形だったので多少は心の準備ができた。でも急病や事故の場合は時間的・心理的にも余裕がないと思う。私も父が初めて救急搬送されたときは手続きに追われ、妹への連絡が後回しになってしまった。ちなみに妹に何度もメールしたのに寝ていて翌朝まで気づいてもらえなかったことがある。こっちは夜中に薄暗い病院の待合室にいて妹はスヤスヤ寝てると思ったら(仕方がないとわかっていても)キーッ!ってなったわ。

父の看取りに際しては、私が家族代表として、入退院や看取り介護の手配、葬儀や死後手続き、混乱する母のサポートなどに加えて、妹への説明や相談もしなくてはいけなかった。あまりに忙しすぎて記憶がとびとびになっている。父の死を悲しむ余裕はなかった。

患者がキコエナイ人だったり家族がキコエナイ人だけなら、病院や施設側も何らかの配慮が必要だと考えるはず。でも家族にひとりでもキコエル人がいると途端に配慮は不要とされてしまい、キコエル家族は「家族代表」と「通訳」というふたつの役割を期待されるこれが思った以上にしんどいのだ

妹にはなるべく細かく説明したけれど、私の説明だけで十分だったとは思えない。理想を言うなら、家族にキコエナイ人がいる場合の救急搬送や死亡時には、単なる通訳派遣ではなく医療や行政手続きの知識に基づいて説明や各所への連絡をサポートしてもらえる体制があるとありがたい。

●最期の瞬間にまさか

もうひとつ印象に残っていることがある。医師から「人間の五感のうち聴覚は最後まで残るのでたくさん話しかけてあげて」と言われたのだ。おそらく見守ることしかできない家族のストレスを和らげるつもりの発言だと思う。医師もまさかこれを聞いた私がビミョーな気持ちになるとは想像しなかっただろう。迷った末にこれもそのまま妹に伝えることにした。

でもね、父はギリギリまで見えていたと私は思う。身体はほとんど動かせず声が出せなくなっても、妹が来た時は眼に涙をためて必死に視線で追っていた。ずっと妹を心配し続けていた父の想いは本人にも伝わったと信じたい。

ちなみに人間はドラマみたいに最期に何か言い遺してあっさり死ぬ…とは限らない。父の場合は最後の数日間を母と私と妹が交代で見守り、私の番のときに逝ってしまった。母からバトンタッチした私は、リラックスできる雅楽のCDを流し、父に話しかけながら妹に状況報告のメールを打っていて…ふと気がついたら呼吸が止まっていた。ながらスマホで見逃すまさかの失態!ごめんよ父上。

●おわりに

言いたいのは死の間際まで聴覚は残るから聴覚口話法で!ではないし、臨終に手話通訳を呼べばすべて解決!でもない。葬儀のような公の場だけではなく、親の死という非常にプライベートな場面にも配慮やサポートを要する家族がいることを知ってほしい

そして何より生きている間のコミュニケーションを大切にしようぜ!ってこと。

口話育ちで50代半ばの私でも手話を習い始めて1年程度で少し話せるようになったし、高齢の親には音声認識など便利なツールもある。じっくり話すために手話通訳を依頼したっていいよね。親の最期の言葉を知るのも大切だけど、元気なうちに言いたいことを言ってケンカしたり思い出話ができるなら――それって最高じゃない?

【参考情報】

①シブコト寄稿記事「聞こえないきょうだいと育つということ ~聞こえるきょうだい=SODAソーダが考える「親あるうちに」~」後半ページ
(後半では親を看取って考えたことやきょうだいがお互いに気をつけたいヒントを書きました)

母の救急搬送から入院騒ぎを振り返って気づいたことのツイート
(妹との連絡や情報共有の工夫、今後の課題など)


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