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60年に渡る長き分裂の始まり

中先代の乱
鎌倉幕府を滅ぼし、実権を握った後醍醐天皇は天皇中心の政治を行い自分に近い貴族や側近を重用し、武士たちを軽く扱った。武士たちが不満を募らせるなか、1335年鎌倉幕府最後の執権・北条高時の子時行が挙兵した(中先代の乱)。後醍醐天皇と一緒に鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏が許可を得ず、乱を鎮圧し部下に勝手に恩賞を与え始めた。

九州落ち
激怒した後醍醐天皇は、新田義貞を総大将として討伐軍を派遣するが箱根竹ノ下で足利軍に敗北する。逃げる義貞軍を追った尊氏は京都を確保するも奥州から進軍してきた北畠軍が義貞・楠木正成と合流すると京都の確保が難しくなり九州へと落ち延びる。尊氏は落ち延びる途中、光厳上皇より義貞追討の大義名分を得て、朝敵から解放されている。

南北朝の誕生
京都を確保した後醍醐天皇は尊氏追討のため新田義貞を派遣するが、播磨の赤松勢に抵抗され足止めされる。九州で態勢を立て直した足利尊氏は1336年京都に向け進軍を開始。後醍醐方も湊川で新田義貞と楠木正成を布陣し迎え撃つが敗北し楠木正成は敗死、新田義貞も京都を追われ足利尊氏が京都を占拠し、光明天皇を立て朝廷を起こすと後醍醐天皇は現在の奈良県の吉野に逃れ、足利尊氏に対抗する。これが足利尊氏・光明天皇の北朝、後醍醐天皇の南朝の始まりである。

終わりに
南朝は度々京都を奪還しようと出兵するが、敗色濃厚になり1336年10月に和睦を決意しひとまず平和が訪れるが、北朝の内部対立や各地の守護職との戦いの度に南朝は対抗勢力としてぶり返し完全に南北朝が統一されるのに60年かかることになる。

参考資料
図説室町幕府 丸山裕之 戒光祥出版
一度読んだら忘れない日本史 山崎圭一 SBCreative 

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