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[歴史と観光]江戸の空気にふれる城下町『川越』!歴史からみた見どころは?

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とにかく、子供の頃からよく遊びにいった街、それが川越。小学生の時から楽しんでいた記憶がある。しかし、それはほとんど買い物が主だった。畑のなかにある街とは違い、いつも祭りでもやっているかの賑わいがあり、そこが楽しかったのだ。

*川越の歴史!
大人になると、やたらと歴史に興味がでた。たぶん父の父(祖父)の影響だろう。歴史を学ぶと、その時代に潜り込んだ感覚にもなる。そこが楽しいのだ。川越の城下町もその意味で興味がつきないところと言える。

川越城は、太田道灌とその父(道真)により1457年に築かれた。以後、上杉氏が川越城主として6代80年にわたりおさめ、上杉を追い払った後の小田原北条氏が4代60年おさめている。江戸時代となると、家康は川越藩をおく。この土地を、江戸を北からもる要地と見ていたようだ。

川越というと、一番の功労者は、松平信綱。1590年に、家康の家臣、酒井重忠がおさめていたときの石高は、わずか一万石だった。それが松平信綱の時代になると、7 万5千石まで加増したという。信綱は、3代将軍家光の懐刀だ。別名は「知恵伊豆(ちえいず)」と呼ばれていた。

この川越での信綱のおこなった事は⑴ 10ケ町の町割り ⑵野火止用水を引き込む土木工事 ⑶川越街道の整備 ⑷新河岸川の開削 ⑸船着場の整備である。これにより商業都市と、運輸拠点として川越の街を、大きなものにしていった。

信綱は、老中としても力を発揮している。⑴キリシタンの取締まり。 ⑵武家諸法度の改正。 ⑶ポルの追放。 ⑷オランダ人を長崎出島に隔離(鎖国制の完成)など、国政の要ともいえる仕事をしたことでも知られる人物だ。

*将軍徳川家にとっての川越!
家康が江戸のまちづくりに頼った、天海僧正が住職を務めた喜多院がある。この川越をこえ、さらに北に進めば日光とつながる土地。家康の亡き後、御祭神に祀られた、日光東照宮があり、家康の墓もある。つまり墓参の中継点でもあるのだ。

川越は将軍にとって保養の地でもあった。近くには原生林もつづき平地があり、格好の鷹狩りの場所でもあったということだ。将軍にとっては体を動かし、気持ちの憂さも発散できる。また、武家としての嗜みということもあった。今でいうゴルフに近いものがあったと思われる。

川越を流れる荒川沿いは肥沃な土地だった。とにかく農作物がよく取れたのだ。いまだにこの川沿いを調べると、古代の遺跡が見つかる。つまり人が定住するのに適した土地だったと言える。

*歴史から見た観光スポット!
①川越、蔵造りの街。江戸の商家は、火災を防ぐ目的で蔵造りとしていた。しかし明治となって、この蔵造りは衰退する。川越も明治26年(1893年)大火となり、ほとんどの家が燃え尽くされた。ところが100年前に建てられた大沢家住宅だけはビクともしなかったという。このとき改めて蔵造りの良さを人々は感じたようだ。川越ではこの後、蔵造りの住宅が建てられていく。

②川越のシンボル「時の鐘」
明治の川越大火の時、この「時の鐘」も焼き落ちている。川越城主・忠勝が1630年代に建てたようだ。その後、松平信綱により改築され、高さは16.2メーターの檜つくりの堂となった。しかし明治に再度消失し、現在はあらたに作られたものだ。この「時の鐘」、1日4回ほどなり響く。6時、12時、15時、18時である。また実際の火災では、火事を知らせる「半鐘」の役目もするようだ。

③天海ゆかりの喜多院!
平安時代、自覚大師が開祖と伝えられる古刹。山門以外の建物は一度大火により消失した。いま見れるのは、家光が1638年に再建したもの。書院や客殿・庫裡も見学することができる。客殿には家光誕生の間も見ることができ、歴史を感じる。書院には、この家光を育てた春日局の化粧の間がある。また庫裡も見逃すことはできない。ガラスケースの中に陳列されている屏風「職人尽絵」。秀吉の時代の25種の職人がイキイキと描かれている。

喜多院のつづきとして。山門のすぐ北にある五百羅漢。立造、坐像、臥像と様々な肢体の羅漢がそれぞれ違った形相をしている。全部で538体もあるという。喜多院の南側には、仙波東照宮がある。家康の死の翌年、遺骸を久能山から日光へ改葬する途中、天海僧正が四日間にわたる法要を営み、ここに仙波東照宮を建立した。

*まとめ
今であれば、西武線に乗り特急でわずか都心から30分の近さにある観光スポット。江戸の情緒に触れる唯一の場所とも言える。土日祝日となれば人が溢れており、ムードも台無し。やはり空いている平日が狙い目だろう。一度、気楽にいってみてはどうだろうか。

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