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旅の記憶!信州長野の城下町・松代。その秘密に迫る!

#旅 #旅行  #松代 #城下町  

大学時代の友人との旅の思い出について、記憶を頼りに書いてみる。

それは2016年秋のこと、NHK大河ドラマ真田丸にのめり込んでいた私と友人のH氏。私は18歳で車の免許をとったが、その時その友人H氏は、初心者マークだった。そのH氏のクルマで信州に行くことに…。

多分、これで十数回目の旅だったと思う。旅の楽しみは、なんといっても史跡を回ることに尽きる。まずは、城に行くことにした。信州松代は、高速道路に乗れば、東京からわずか数時間の近さ。朝、東京をでれば昼前には着いてしまう。

松代城の横にある駐車場に、クルマをおいて城内に入った。一言、「狭い、なんて、狭い城なんだ!」と驚く。そして、天守閣がない!調べてみると、昔から天守のない城だった。戦国時代、武田信玄と、上杉謙信が争った「川中島の戦い」。その出城として、信玄が築いたという。

早々に、城をでた私たちが次に向かったのが城下町だ。ここで驚いたのは、道幅が広いこと。江戸時代の町割がそのまま続いている。武家屋敷のひとつに入ってみた。気になったのが「隠居屋」と書かれた建物。昔、信州生まれの母からよく聞いていた「インキ屋」はコレだった。インキ屋のオバさん、この言葉にいつも違和感を覚えていたが、隠居屋だったのだ。母屋の横にある小さな建物。ここに、年老いた親を住ませていたということか!と納得する。

この町中には、武田24将の屋敷がならんでいる。武田家が滅びてから、真田家の家臣となった人々の家だ。馬場美濃守信春、原虎胤の家、武田勝頼に最後まで忠誠を尽くした跡部資勝。これらの家もあった。それぞれ、末裔となる方が、あとを継ぎ住んでいるという。

とにかく人通りが少ないことに驚く。NHK大河『真田丸』の放映中、観光客で賑わっていると思ったが、なんという静けさ!「そうか、みな上田に行ったな!」。そう思った。

しかし、本物のお宝は、すべてこの松代にあるのだ。上田で飾られているもの全てレプリカ。しかし、大方の人はそれを知らない。本物を見るには松代なのだが…。

松代を代表する文化人『佐久間象山』
私たちは「ショウザン」と習ったはずだ。しかし、地元では「ゾウザン」先生と呼んでいる。長野県の歌「信濃の国」。その5番でも「ゾウザン、サクマ、先生も」と歌われている。長野県人にとっては、最も尊敬している人物といって良い。

日本人にとっても、佐久間象山は恩人といえる。幕末の日本は、攘夷論者に溢れていた。つまり、天皇のご意向をくみ、外国人を打ち払うという思想。しかし、西洋との技術の差は侮れないものがあった。いざ、戦争になれば勝ち目は無い状況。佐久間象山はそれを見抜いていた。

とにかく技術を学ぶことが肝要。佐久間象山は、西洋書物を読みあさり、自力でいくつもの仕掛けを作った。西洋大砲の模型、地震予知機、電気治療器等。さらに、西洋の戦争の仕方を、江戸で開いた塾で講義した。

その弟子には、吉田松陰や坂本龍馬、勝海舟、高杉晋作、西郷隆盛などもいた。佐久間象山が痛かったのが、ペリー来航のおりに吉田松陰が密航をくわだて、幕府に捕まったこと。この責を象山はおってしまう。松代で、9年間蟄居の身となった。

蟄居していた建物が、ここ松代の象山神社に移築され、今も見ることができる。佐久間象山の教えの根本は、「東洋の道徳を持って、西洋の技術や文化を学ぶ」だ。

最後に、松代藩を財政でささえた八田家を紹介しよう。1707年創業の八田家は、藩の御用商人として、佐久間象山を支えたという。

その八田家には、今も佐久間象山からの書簡400通ばかりが残っている。その文言のなかに「送っていただいた海鮮、ありがとう」というものがあった。海の無い信州で「海鮮」とは、お金の隠語のようだ。開国論者の佐久間象山は、つねに命を狙われていた。もし、自分と関係が深ければ、八田家に迷惑がおよぶ!それを恐れたという。

まとめ
松代には、美味しい食べ物がおおい。信州名物の「おやき」、千曲川で栽培されている山芋。信州サーモンもうまい!江戸期には、鮭も遡上してよく獲れたという。初代藩主の信之は、関ヶ原で敗れた父弟に食材を頻繁に送ったそうだ。真田家は、この松代十万石を幕末まで守りきった。そして、今にその文物を残している。一度は目にすべきお宝にみちた松代。ぜひ行ってほしいと思う。

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