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[幕末史]戊辰戦争で、江戸の街並みが焼かれずに済んだ理由とは!

#勝海舟 #山岡鉄舟 #高橋泥舟
#戊辰戦争 #慶喜 #西郷隆盛
#江戸城無血開城 #幕末 #歴史

時代が、江戸から明治に変わるときに起きた戊辰戦争。この流れを今回は見ていこうと思う。なぜ江戸の町並みは戦火による焼失から免れたのか!

江戸時代は、260年もの長きにわたり続いていた。そんななかで、19世紀半ばアメリカが開国を迫り、戦艦の軍事力を見せつけ、幕府に港の使用を認めさせる。江戸時代、幕府は国を閉ざしていたわけだが、これが天下の決まり事として、人々の頭に染み付いていたというわけだ。天皇(当時は孝明天皇)もまったく同じだった。幕府のやったこと(=開国)はケシカラン!ということになる。途端に、新しい政治体制にすべし!が叫ばれるようになった。

徳川家最後の将軍、慶喜。もともと勤皇思想をもった水戸家に生まれた。15代将軍えらびでも、天皇は慶喜を推したという。それほどに相思相愛ともいうべき仲。慶喜は天皇の意向をまもるという気持ちはヒト一倍強かった。

だからこそ、慶喜はあっさり政権を天皇に返した(大政奉還)といえる。それでも、薩摩や長州などの西国雄藩が国の政治などはできるはずはないと思っていたようだ。かならず新政府となっても、自分に声がかかるはず…と。

徳川家が国政の場からおりたとしても、巨大な軍事力をもった怖い存在であることには変わりは無い。そう考え、いろいろと策を練って戦さまで持っていったというわけだ。そして、一気に新政府が、軍事と治安を掌握するという目論見だった。

1867年10月大政奉還。その12月に、王政復古の大号令。このとき江戸薩摩藩邸では、浪人を新たに30名雇いいれた。そして彼らに江戸の治安をまもっていた庄内藩の屯所、ここを襲わせる。驚いたのは江戸留守役の老中、稲葉正邦。江戸薩摩藩邸にたいし容疑者を引き渡すように申し入れた。しかし、無碍にも断られてしまう。

ここで稲葉としては、強行策にでた。庄内藩を含めて、五つの藩の家臣に、薩摩藩邸へ向かわせ、強せい捕縛をおこない斬りあいになったという。薩摩側64名が討ち取られ、112名が捕縛された。

*戊辰戦争の始まり!
体調もすぐれず、大阪城に入っていた慶喜。自分としては、薩摩や長州と戦えば、結果として天皇に弓を引いたことになる!それはよくわかっていた。だから、自重するよう、家臣には強く申しわたしていたのだ。

しかし、江戸での薩摩の暴挙、これに我慢ならないとする家臣が多かったという。ちょっとした小競り合いから、戦争の火蓋がきられた。これが戊辰戦争の始まりだったといえる。ぜったい回避したい慶喜。これにたいし、旧勢力の一掃をはかりたい、薩摩と長州軍。これにより、江戸町に危機が迫っていた。

*将軍慶喜、頼った人物!
「舟」という文字をつく三名、高橋泥舟、山岡鉄舟、そして勝海舟。慶喜はことのほか、かれら三名を頼りにしていたという。つまり、慶喜の考えをそのまま行動に移してくれる人物だった。しかもこの三名とも肝もすわった人格者。なにかとかれらを重用した。

慶喜としては、江戸の町並みを守ることを考えていたようだ。そこで最も信頼していた高橋泥舟に、新政府軍との交渉を任せた。泥舟としては、慶喜の安全を第一に考え、自分としては慶喜のそばを離れられない!その代わり義弟の山岡鉄舟をさし向けることを申し入れる。

この時、薩摩長州の新政府軍は駿府まで来ていた。胆力があり巨漢(身長188、体重105)の鉄舟は、1人新政府軍陣屋まで乗りこみ、軍責任者(参謀)西郷との会見に臨む。

*交渉は、都合3回!
西郷隆盛としては、七つの条件を出したという。鉄舟は六つの条件は良いとしたものの、最後の一つだけはダメだと話す。その条件とは「将軍慶喜を備前藩のお預かりとする!」だった。ここで話しはまとまらなくなるかにも見えたが…。

鉄舟は次のように言ったとされる。「もしあなたの主君、島津様が他藩の預かりにされるとしたら、あなたは何と言うか」と。これには西郷も、ハっと気づいたようだ。なるほど、この条件は無しで良いでしょう!となった。

新政府軍は、3月15日に江戸へ総攻撃をくわえる手筈だった。この直前の3月13日と14日の二日間にわたり、勝海舟と西郷隆盛は会談する。結果としては、江戸城は無血開城とされ、江戸の町並みは、戦火から免れた。

まとめ
勝海舟は、交渉が失敗したことも考えていたという。その場合、江戸の火消し(消防団)いろは48組を使って、町民を房総へ逃す。それと同時に、江戸の町に火を放つというもの。この話しを聞いた火消しの多くは驚いたようだ。火を消す役目の我々に、火をつけろと言うとは…!

一方で、勝は幕府内主戦派を罷免するよう慶喜に申しでた。前の陸軍奉行兼勘定奉行の小栗上野介、会津藩主にして京都守護職だった松平容保(かたもり)。桑名藩主で京都所司代の松平定敬(さだあき)。彼らの職を解いたという。

これにより、江戸の街並みは、戦火で焼失されることを逃れた。この功績、海舟一人のものとされるが、やはり「三舟」の協力があってできたと見るべきだろう。。確かに海舟の力は大きかったのだが…。

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