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[日本史]江戸の経済事情、貨幣制度や人々の暮らし!

#日本史 #歴史 #江戸時代
#江戸の経済 #三貨制

今年(2024年) 7月3日より紙幣のデザインが変わる。前回が2004年、前々回が1984年と20年ごとに変わっているようだ。これは偽装を防ぐという意味合いで行われているという。犯罪者も日々技術力を上げているから、それを防ぐには技術力で対抗しようというもの。ただ自販機メーカーや券売機をつかう飲食店ではその出費に頭を抱えているという報道があった。

*通貨  貨幣の歴史!
欧州ではEU統合により加盟国は一律に通貨をユーロに切り替えた(1999年1月)。現在の加盟国27カ国のうち、デンマークやブルガリアなど7カ国を除き、ユーロが流通している。英国は国民投票で、2020年1月末にEUから離脱。ただ加盟しているときも、ポンドをつかっていたため、通貨においては全く問題起きなかった。

その英国、1971年2月14日までは少し変わった通貨だった。通常はどこの国でも十進法を使っているのだが、これが違っていたのだ。1ポンドは20シリング、1シリングが12ペンス。つまり20進法と12進法である。すると、1ポンドは240ペンスというわけだ。これでは、たまに英国を訪れた外国人には分かりにくい。なんでもかんでも1ポンドを出し、終いには釣銭の山となる。

*日本、江戸の貨幣制度!
これもかなり変わった制度だったようだ。金貨と銀貨と銅貨(=銭)の3つを使っていた。まず金貨だが、1両は4分、1分が4朱となる。両と分と朱、4進法だった。金貨は東日本で使われていたという。西日本では銀貨が流通していた。銀は重さで使われていたのだ。名称は、「匁(もんめ)」である。目安としては、金1両は銀60匁。1匁は3、75gだから、60匁は225gとなる。

庶民が使うのが、銅貨(銭)である。文(もん)という単位で表す。交換レートは、1両が6000文、1朱が315文となる。現在の価値にすると、1文が25円くらい。4文銭が、江戸中期(1768年)に作られたが、これが今の100円位だとする。このころの屋台は、4文をベースに販売していたという。天ぷら、おでん1串が4文。だから、看板には四文屋と掲げた。

*貨幣、要らぬの心配!
あなたが仮に1両をもって、屋台にいったとしよう。これ、釣り銭の計算が面倒なのでは!と心配するかと思う。なにせ、この1両は6000文だ。屋台で串物10本も注文すれば40文。お釣りが、5960文になってしまう。つまり重さが22kg以上にもなる。

これでは釣銭を持ち帰ることなど不可能だ。しかし、これはいらぬ心配というもの。屋台にいく場合、誰もが銭(文)を持っていったから…。そのため江戸の街には300軒もの両替屋があった。両替屋は銀行と似ているがが、少し違っていたようだ。一番大きな相違は、預け入れは基本受けないと言うこと。ただし信用を得るために預け入れるヒトはかなりいたようだ。なんとお願いして預けるという。しかもこの預け入れ、利息は一切ない。

両替屋の一番大きな仕事は、関西との取引で、手形を発行するというもの。硬貨を使っていたのでは、運ぶのに重くて仕方がない。これが手形であれば紙1枚である。もちろん手数料はしっかり取っていた。

また庶民も、ちょっとしたものを買うには銭を1枚ずつ出すのでは苦労がいる。銭には穴があいていたため、そこに紐を通し、100枚単位とした。ただし、実際には手間賃の4枚を抜いて96枚で100文としたようだ。これで売買がやりやすくなった。

*武士の生活は厳しい!
武士は殿様につかえて、そこから米で碌をもらう。江戸の初期はまだ良かったのだが、年とともに物価があがり続けたため、生活は厳しくなった。武士の家はキホン先祖からだいたい同じ報酬である。まず増えるという事は無い。

米で碌をもらっても支払うのは貨幣となる。当然、その専門家に委ねて貨幣に変えてもらうのだが、結局は不足してしまう。そこで次の収入を担保にして借り入れをおこなっていたようだ。これがなんと年利10%にもなるという。当然のこと、返すアテなどは無い。かなり大変だったようだ。

旗本の家では、事業地の農民に、家の支出を見てもらうということがあったという。彼らはかなり細部に渡るところまで調べあげ、生活費を大幅に削っていった!などという記録も残っている。

御家人の家などでは、様々なものづくりに励んだようだ。これは組織化された集団でおこなっていた。つまり分業制だった。傘貼りや観葉植物花の栽培、さらには加工食品などもつくっていたという。少ない碌だったが、ギリギリ乗り越えたようだ。

まとめ
江戸の庶民、その7割は職人だったようだ。職人は日銭がでて稼いでいた。働くことさえすれば、またすぐにカネは入ってくる。だから「江戸っ子は宵越しのカネは持たない!」なんて言葉が残っている。

この江戸時代、庶民はそんなに金で困るという事はなかった。子供は町の老人がボランティアで教えてくれていた。また、長屋での近所付き合いもあり、助け合いのなかで生活できていたのだ。だからだろうか!日本に訪れた外国人の誰もが「日本人はみな明るく笑っている!」と言っている。江戸とはそんな時代だったようだ。

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