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将門を祀る?平井八幡神社(日の出町)

 春らしく天気がくるくるとよく変わる。天気の良い日とお出かけのタイミングが合わせづらい。

 それはさておき、日の出町の八幡神社へは、JR五日市線の武蔵引田駅か武蔵増戸駅から歩くか、青梅線の福生駅からバスで行くルートがあるのだが、一番歩く距離が少なくて楽そうなバスで行くことにした。
 ところがいくつかあるバス路線のどうやら一番遠回りのに乗ってしまったらしく、秋川駅やら阿伎留医療センターやらイオンモールやら、やたら寄り道して、かなりの時間がかかってしまった。(最短なら、ほぼ一本道で行けるのだが)
 勝手のわからない土地のバスはよく調べて乗らないといけないなと反省。

 ともかく、帰りは五日市線の駅まで歩いて帰ろうと決めて、バス停から歩くと、こんな景色に出会った。

 この川は平井川。多摩川の支流で、写真の奥が上流方向。対岸の道は川と共に上流に向かっていて、途中に有名なつるつる温泉センターもある。はるか遠くの日の出山が水源になっている。

 川から離れてせまい道路を進んでいくと、道が二俣に別れていて、道祖神が祀られていた。岐の神、境界のを護る導きの神の猿田彦大神だ。

私は右の道を進んだ

 猿田彦が庚申信仰と結びついて、道の傍らに庚申塔が建てられていることが多いが、これは庚申とは関係なく猿田彦大神そのもの。珍しいなと思いつつ、先を進んだ。

 平井八幡神社の創建年は不明とのことだ。誰が勧請したかも記録が無いらしい。最初は本宿山(嶽)に祀られていたというが、本宿山はどこなのだろう。
 本宿とは八幡神社のすぐ西寄りの所に地名があるし、神社の南に本宿小学校もあるから、近辺にあるに違いないと思うのだが、地図を見てもよくわからなかった。
 辺りは土地に起伏はある物の、山とか嶽とか呼べそうなものは見当たらない。

 ここに遷座したのは建永元年[1209]。
 また明徳元年[1309]に、平山景時という人が再興したという。以降、平山家の子孫が度々社殿を再建している。

 承平五年[935]征東大将軍藤原忠文が将門追討の派兵の途中に神社を参詣したと伝わる。ということは、この場所ではなく本宿山(嶽)に参詣したということになる。

 藤原忠文の名が出るのは珍しい。東京で将門の乱の関係で忠文の名が出てくるのはここだけではないだろうか。

 しかし、承平五年というのは不審である。忠文が征東大将軍に任ぜられたのは天慶三年[940]正月十九日のことだからだ。
 承平五年というと、将門は叔父の国香や良兼ともめていた頃である。未だ、親戚同士の争いの段階だった。

 忠文は不運な将軍である。抜擢されたときの年齢は六十七歳という。当然、高齢を理由に辞退したが受け入れられなかった。征東大将軍であれば、参議以上の身分が望まれる。忠文はやっと末席の参議になったばかりだった。
 他にも参議以上の人はいたが、時の最高権力者で摂政の藤原忠平は、まわりを気に入った者たちを要職につけて固めて、その誰もが追討軍の大将になりたがらなかったのだ。

 そして、のろのろと進軍しているうちに、藤原秀郷と平貞盛がさっさと将門の首を取ってしまった。

境内社
右は稲荷、左は地蔵菩薩

 恩賞は貞盛、秀郷、そして副将の源経基らにはあったが、忠平は大将軍であるにもかかわらず、戦っていないということで何も無かった。摂政忠平の弟の実頼が、忠文に恩賞を与えることに反対したためだといわれている。

 忠文に何も働きがないというのは言い過ぎだろう。将門の弟や興世王など、残党の追捕が残っていたし、忠文はそれらが片付くまで関東に在り、すべてが終わったのを見届けてから帰洛している。
 直接戦ったのではないかもしれないが、六十七という年齢を考えれば、戦闘など普通に無理。

神楽殿

 忠文は当然不満で、致仕を願い出たが許されなかった。忠文の死後、左大臣実頼の娘(村上天皇女御)が急死し、続けて長男も死んだ。世間は左大臣家の不幸は忠文の怨霊の祟りと噂した。そこで、忠文は中納言を追贈されたという。死んでからもらってもね・・・。

 京都の宇治にある末多武利神社は、忠文を祭神にしている。忠文の御霊を鎮めるためである。
 


 

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