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東京大空襲と戸籍謄本

 3月10日は東京大空襲があった日です。
 東京生まれ東京育ちの私ですが、生まれる前のことでもあり、東京大空襲は歴史の中の出来事で、身近に感じたことはありませんでした。


 数年前に母を亡くして、相続の手続きの為に戸籍を取り寄せました。母も東京生まれなので、都内の役所ですべてそろうと思ったら、最初の戸籍は鹿児島でした。祖父の実家のある所です。

 初めて知る祖父の親戚の名前ばかりで、興味深いものでした。忙しい相続手続きが済んで、ひと段落した後に改めてじっくり読んでみました。



 祖父は五人兄弟の末っ子で、四男坊でした。三男のお兄さんは四歳年上です。
 そのお兄さん(以下、大叔父)は結婚して東京深川に住んでいました。子供は男の子ふたり、女の子ふたり。

 そのうち長女はわずか二歳で亡くなっています。昭和十三年のことです。
 当時の戸籍には、亡くなった場所の住所と亡くなった時刻が書き込まれています。死因は書かれていませんが、住所から麹町の警察病院と分かります。時刻もあることから、医者に看取られて亡くなったのでしょう。

 その他の家族はどうでしょうか。

 奥さん、二人の男の子と一人の女の子。皆、同じ文章で終わっています。

昭和貮拾年参月拾日時刻不詳東京都深川區白河町弐丁目拾五番地ニ於テ死亡
戸主●●●●届出同月貮拾四日受付(●●●●は筆者が伏字にしました)

 場所の記述がありますが、死亡時刻は三人とも不祥です。日付からも東京大空襲に被災して亡くなったに違いないと思います。深川は最も被害の大きかった場所で、全焼したといってよいでしょう。当時の地図を見ると、細かい路地がたくさんあり、多くの民家があったと想像できます。

 奥さんは三十三歳。長男は十一歳。次男は五歳。二女は二歳でした。

 一人生き残った大叔父は、その後郷里の鹿児島に帰ったようです。そして戦争が終わった翌年の昭和二十一年に同郷の女性と再婚しています。東京大空襲の一周忌を過ぎて直後です。

 しかし、彼はそれから一年もたたずに急死します。享年四十三。再婚の奥さんは、実家の籍に戻ったようです。

 戸籍謄本に死因は書いてありません。
 家族を戦争で奪われて傷心の大叔父が、たった一年で新しい奥さんと結婚したのは、彼の意志というより周りの勧めがあったからなのかもしれません。しかし、打ちのめされた心は生きる気力を取り戻すことができなかったのでしょうか。

 戸籍謄本からではこれ以上のことは分かりません。
  


 先日、高校の同級生のお母様がお亡くなりになりました。昔、その友達が同級生の友達との食事会で、こんなことを言っていたことを思い出しました。
「うちの母親って、東京大空襲で生き残って、そのあと大阪に行って、そこでも大空襲に遭って生き残ったんだよねェ」

 大阪大空襲は東京大空襲の三日後、3月13日から14日にかけてありました。
 その時私たちみんな、「生きているってたまたま運が良かっただけなんだね」と言い合いました。


 東京大空襲、大阪大空襲で亡くなられた人々、すべての戦争で犠牲になった人々に、心よりご冥福を祈ります。
 私たち運良く生きているだけの人類が、未だに戦争を止められない愚かさふがいなさをお詫びします。


 

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