【休職日記4】自分を他者によって定義しようとした人間

1か月間の予定だった休職期間が3か月に延長になりました。

私はある日出社できなくなり、それまで眠剤をもらうためだけに通っていた精神科で診断書を発行してもらいました。ただそれは日常生活が送れなくなったから休職に至ったのであり、仕事が嫌とかストレスが溜まったとかきっかけがあったとか、明確な原因と成り得る心当たりがありませんでした。また、明確な病名もありませんでした。

この1か月間はひたすら休んだり、日記やnoteを書いたり、食欲がなくなったことからダイエットを始めてみたり、生活記録を取ってみたりしましたが、できたことは現状把握のみでこの先のことは考えられませんでした。

何が原因でこうなったのだろう、どうすれば社会復帰できるのだろうという疑問の答えが見つからないまま時間だけが過ぎていき、驚くほどあっという間に1か月がたちました。
仕事に行くというやるべきことが無くなった今、私の生活リズムは崩れに崩れて自力では戻せなくなりました。そこで睡眠時間帯を安定させるための薬物療法を始めました。


ここで、ふと思いました。明確な原因が無いことが、私がつぶれた原因そのものなのではないか?と。
私はとことん受動的な人間であり、自分の時間とは予定の無い時間のこと、やるべきこととは誰かにやりなさいと言われたこと、目標とは社会や組織が定めたもののこと(進学や就職など)、といった考えでいままで行動していました。
自分というものはこの範囲、ではなく、自分以外が設定した境界の内側にあるのが自分、という定義をしていたということになります。ドーナツの穴と同じです。
そのわかりやすい例が、自分の生活リズムを仕事や薬で決めるという現状なのではないかと思いました。

この仮定を基にすると、そもそも他者依存で定義された自分が「つぶれる」というのは矛盾のように感じます。元の形から変形するのがつぶれるだとすれば、私には私という元の形がなくてはなりません。
ということは、自分が気づいていないだけで自分主体の自分が存在するのではないか?その自分を見つけることが、私のやるべきことではないか?
と気づきました。

これがあっているのかどうかは今はわかりませんが、今後2か月の自分のテーマとして自分探しを掲げようと思います。


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