見出し画像

【作劇】小説と戯曲の違いは何だろう

小説と戯曲の違いはなんだろう。こと私の作品において。
いま私は次の戯曲のノベライズを書いている。スピンオフとノベライズではノベライズの方が読みたいと言われたからだ。
それに差し当っての葛藤や思ったことを滔々と書いた。


私の話をしておこう。

私の話をしておこう。
私は小説→役者→役者/戯曲書き→役者/戯曲書き/小説かき
みたいな道を通って来た演劇人だ。
昨年自分の団体21世紀のキリンで「悪手、喝采」という作品を上演し大変な好評を得た(自分で書くのめちゃくちゃ自信ない。ありがたいですね、ほんとに)。
日本の古典や海外戯曲からヒントを得、それらの雰囲気・エッセンスを拝借し私のなかで寝かせて私の感性と結び付け、音楽の力も借りて私が一番面白いと思うストーリーに仕上げて作品をお届けしている。
よく戯曲が小説っぽい、あるいはドラマっぽいと言われる。私の作品は文面で読んだ方が面白いと。あるいはドラマ化やら映画化やら、とにかく映像で見たいと。映像で見たい派閥の方々はさておき、文面云々を申し訳なさそうに言ってくださる方がいる。なんだか私が演劇が大好きで、そこで表現することが大好きだからそのために心血注いで書いたであろうものを上演しない方が面白いと言っては失礼だと思うんだろう。
だから何だと。別に私は1ミリもそんなことに傷つきませんよ。だって私も自分の描いたものが変な話一番味わい深いと思ってますから。書いてるときに見ている世界が大好きですから。自分の書いたものを文字で追えば、いつでもその中に入っていけるんです。その世界を見られるんです。なんなら私も私の戯曲を読んで想像してる方が好きまであるよ。だからね、たぶんそういう風に言ってくださる方と思ってることは同じですね。じゃあなんで芝居やってんだよと。
わがんね。
たぶん私は演技も小説も戯曲も演出も全て「表現」ってカテゴリに収まってるから全部楽しいんだろうね。幸せですよ本当に。
まあこんな人間です。

私のなかの「ノベライズ」とは

お待ちかね、ここからようやっと本編です。
私は今、次上演の戯曲『PINK』のノベライズ作業を日々しております(3.30にこれがついて来るっつうのが発表になるので3.29にこれを発表するのはどうなんだって話なんだが)。
しかしだな。ノベライズとは———私の中のイメージ、定義では、実体や動きをもって表現されたものを文面に描写しなおすもんだと思っている。私はこれまで映画やドラマのノベライズを読んでこなかったから、「ノベライズ」というものに関する経験、見識がない。そういうところがまずはいかんのだろうな。映像作品のノベライズに対し私はどうにも嫌悪に近いものを抱いている節がある。だってどう考えても内容が薄いではないか。しかもノベライズの文庫というのはだいたい薄く(物理的な厚みの話をしている)、本編を鑑賞したとき以上の感動は抱けない。だって見た方が早いのだから。わざわざあの画を文面にするメリットがわからない。それもこれも私が今までノベライズを忌避して触れ合ってこなかったからこんなことを考えてしまうんだろうな。あー、いけないいけない。何事もまずは足を踏み入れなければ。というわけで近くの本屋でも近所の古本屋でも行ってノベライズを収集しようとたったいま決めた。
という私の決心はさておき、どうして小説と戯曲の違いを考えているのかという話に戻ろう。どうしてこういう思いに至ったか。
小説を書いている途中で手が止まってしまうのだ。

情景を「限定」することへの抵抗とその背景

そうそう、ここで語りたいテーマがもう一つ浮かんだ。
ノベライズ、つまり文面で描写してしまうということはある程度その情景を限定してしまうということなのだ。うん、それが当然。その「限定する」という作業に近頃の私はやけに抵抗を覚えている。というのも昨年「悪手、喝采」を執筆した際、この作品の登場人物たちが文面上で好きすぎて、それが具現化される際なるべくそのまんまやってほしくて「ト書き(戯曲上におけるさまざまな指示———例えば立ち座り、怒り、泣きなど表情の指示まである場合がある)」を人物の出ハケ以外ほとんど全て排したのだ。
その代わりに「()」なんてものをつけ、そこだけは特別に頑張ってくださいね、なんてことをした。だからまあそれ以来戯曲に「……」とか「!」とか「?」とかいうものを書き込むことに抵抗を覚えているのだ。戯曲の書き手がそういった指示を書き込んでしまうと役者はなるべくそこに従おうとするではないか。それは役の思考かもしれないが、役者の思考を固めてしまう。「!」がつくから強く言う、「……」があるからしんみりしてみる、など。そんなステレオタイプにはまりに行く役者ばかりだと皮肉を言っているのではないし、世の中にはもっと独創的でクリエイティブで活発で自由な役者さんは大勢いるだろう。だがしかし、自分が役者をするとなるとどうしてもそこ———「……」や「!」を意識してしまうのだ。
そういうものに引っ張られてはそこを基盤に、いや、ある程度感情指標として役やシーンを構成することになる。そういうことをしてほしくないのだ。
役者の方には自分で戯曲の情報を拾って考えてほしい。そしてそこに自分の経験という他者には決して持ちえないものが足されたとき戯曲以上の味が出る。そういうところを大事にしたいのだ。でもその辺制御して演出的にまとめるの鬼ムズイんよなあ。

私は自分で自分の作品が大好きだから、それを1ミリでも多く味わうためにあえて指示を書かない、限定しないということに努めている。稽古場でどんなもんが見られるかが楽しいのだ。なんだか高等遊戯だな。だから私の戯曲には私も予期していない振れ幅があると思っていて。それを文面で、私の見ているように、書いているときに見た景色をそのまんま描写するのは難しいのだ。


衝撃を受けた場合の描写をどうするか

少し話は逸れるかもしれないが、衝撃を受けた場合の描写をどうするだろう。
戯曲なら何が起きたかを書いてやれば、そのあと台詞を書かずとも役や役者が表現してくれる。差異はあれど人間、喜怒哀楽諸々の感情表現の大枠はほとんど同じだ。だから出来事を書いて、どんな機微で表現されるかを私は稽古場なり劇場なり頭のなかで楽しみにしていれば済むのだ。だがこれが小説、ましてノベライズならどうすべきか。
世の中のノベライズ…ホラー映画のノベライズとかならこの辺勉強できるかな。
そもそも私がこの最近小説、ましてノベライズを読んでないからこんなことを思うんだよ。戯曲を書いていれば小説の書き方を忘れ、小説を書いていれば戯曲の書き方を忘れる。そのたびにその界隈のものを摂取して頭を切り替え学びなおす必要はある。それを怠ってるからこうなってんだなあこれが。はいはい、結論は小説なりノベライズを読みましょうに帰結する。
わかっとるわそんなもんと。
自分が描写によって限定することに抵抗を覚えたり小説はどうの戯曲はどうのと思う後ろには何かあるんだろ?せっかくならそれを言いたいんだよ。自分の思考はいろいろなものと紐づいているから一度書きだしたり話し出すと無限になってしまう。


振り返って

よくここまですらすら書いたもんだ。
とにかく、自分がその作品世界を見る。私の場合は画、動く画で見るんだが、それをどの表現技法で表すのが相応しいのかいつも考えるんだ。
戯曲を書いていたらもっと描写したくなるが、小説を書いていたら何を書いていいのかわからなくなる。
小説と戯曲を組み合わせた何かいい感じの表現ができないかといつも思う今のところいい案は思いつかない。
生きているうちにそうしたものが描けたらいいと思う。


公演情報でも載せておくか。


火曜日のゲキジョウ 30×30 pair.206
演劇集団シアターライズ × 21世紀のキリン
『PINK』
作 野口萌花
演出 高津碧大
出演 近澤ゆうき(劇団エクステ)、夏夏冬(劇団皆奏者)ほか
於 in→depndent theatre 1st
料金 前売り・当日とも ¥2,000
応援チケット特典 戯曲/本編のノベライズ +500えん。
(応援チケットの選択ややこしいんですよ。応援チケット欄で「21世紀のキリン」選んでもらったらいいですよ。たぶんこれ言ってもようわからんですよね。わかるややこしい。)
日時 4月30日火曜日
①18:30~(シ→21の順で上演) 
②20:15~(シ→21の順で上演)
【あらすじ】
桜の木の下に×××が埋まっている———死体を埋めに来た男が出会ったのは桜の園を管理する少年。桜と人間、心と身体、正常と異常のはざまで苦悶する人間たちの幻想譚。


おまけ あらすじってさあ…

あらすじって作者本人とか作品関係者が書くじゃない。だからこっちからしたらよくまとめたなあとか、これ大ヒントだよ!みたいなことをよく思うわけ。でもいざ観客になったらぜんっぜんわかんないの。
ほんで終わってあらすじ読むと「なるほどねえ」と。
なるほどねえ。
うん、難しいね。

私曖昧なっつうか抽象的なあらすじ嫌いなんですよ。何もわかんないから。なるべく詳しく書いてよって思うんだけどごめんなさい。今回めちゃくちゃ抽象的ですね☆
まあそのうちPINKの話もしましょうねえ。
さらば!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?