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ほんとは爪の形だって選びたい


今日は家の日記帳に日記を書こうってお風呂入りながら思ったことを思い出したんだけど、
もう布団に入ってゴロゴロしてるからな〜、起き上がってボールペン出すのもな〜って、うーんと思って、
noteにしーちゃお、と今日の日記帳はこれになった。

今日はちょっと残念な出来事があって、仕事帰りずっとぼんやり考え事しながら気持ちがだいぶ落ち込んでいたんだけどね、
いや、これ落ち込んで解決するもんじゃないししょうがないんだよな、って思いはするんだけど、それでもなお落ち込み続ける気持ちは浮かんでこず、
しまいには落ち込んでる状態の自分に落ち込み始めて、もうなんだかすごく落ち込んでた。
笑っちゃう。

今まで与えられてきた環境の土台が違うと、似たような人間性でもこんなに感覚が違うものなのね、と今日はすごく思ったね。

家庭環境と経済環境の影響力があまりにもエグすぎてこわい。
そこに恵まれた人が恵まれなかった人の感覚をわかるのはほぼ不可能だし、逆も然り、恵まれなかった人は恵まれてる人たちを見て羨ましいなって思ったり、ひょっとすると憎んでしまうまであるよね。

でも生まれ落ちた環境の話だから全員悪くないのよね。
性格だってそう、生まれ持った性格も体質も全くその人の選べるものではなくて、その環境とパーソナリティの組み合わせやバランスで、その人の人となりが良くも悪くも大体定められていってしまう。

ほんとうに、理不尽だー!ひどいだろー!と思うけれど、でもこれが世界なのよね。
しょうがないことだから、だからこそ悔しいよね。
でも環境に恵まれた人だって、バランス次第で沢山しんどい思いをしていく。
だからほんとにどちらが良いとかでは決してなくて、ひとりひとり様々で、みんなそれぞれ頑張って生きてることに変わりないのさね。

でも、家庭環境や経済的にそこまで恵まれてこなかった(と思う、もっと辛い人なんて沢山いるんだけど)、私からすると、その恵まれなかった側の人間には、強みがあると思っている。
全く自分のせいじゃないところで、しんどくてどうしようもなくて、いつ死んでもいいやこんな人生、クソがよ、っていうような思いを、奥歯噛み締めて、堪えてきた人間には、そういう人間にしかわからない痛みがたしかにあって、そして同じように痛い思いをしている人のその痛みを、わかってあげられるっていう魔法の力を持ってるのよ。魔法だよ。これは。

唯一良かったことだと思う。人の痛みがわかることは、すごく温かいことだと思うから、自分にその力がたまたま宿っていて、誇らしい気持ちだとそう思う。

優しくありたいと最近はよく考えるようになった。
目の前の人と目を見て向き合って、違いは否定するんじゃなくて、面白がれるような、
私を大事にしてくれる人のことを、いっぱいの愛情で大事にし返せるような、
そんな人になれたら良いなと、最近は思う。


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