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地に足つかない生活

吊るす

浴室のアメニティはどのように置くことが最も美しいか?
一人暮らしにありがちなユニットバスや2点セパレートでは収納や置き所に頭を悩ませるものだ。仮に置き場があっても底がぬめれば予想以上に掃除を必要とするし、高価なディスペンサーを設置したりするのも便利さはあれど、詰め替えの面倒さは然り、根本的な解決にはならない。

ここで欲しているのはhack感だ。
結論からいえば、パッケージごとそのまま吊るしている。いわゆる浮かす収納といわれるもので、詰め替えの作業も掃除も必要としない。イメージとしてはパイナップルの中身をくり抜いてカクテルを作り、再び戻して丸ごと使うような手法だ。重力を利用しているので最後まできれいに使い切れるところも秀逸だ。製品の質もあるだろうが、プッシュで分量を調整でき、垂れることも一切ない。ちなみにボディーソープはハンドソープとして、シャンプーはリンス入りとして兼用し最小限にまとめている。商品自体は無地のデザインではないが構造を見せるに値するコンセプトである。

最近は吊るすということをよく考えている。

弔は棒につる状のものがまきついた形で上から下にたれる、つるす意を示す象形文字。
天の神が下界に同情をたれる、転じて、他人に同情をたれる意。
 「吊」はもと「弔」の俗字であるが、つるす意にのみ用いる。 

前述しているようにミニマリストにとって掃除のしやすさは熟慮したいものだ。床にものや棚を置くことは望ましくない。掃除をする表面積や工程を増やしてしまうためだ。
あるいは床は床のままが最も美しく、あるべき姿だと考えることもできる。そして木目のマチエルや平面性が壁や天井と相まって理知的であり、余白の空間が味わえることは重要である。

床にものを置くことは「床を隠す・否定する」「情報を重複させる」などの意味を含むことにもなる。床はものを置くことをaffordしているだろうか?主体者にとっての床との関係性は無数にあるがそれだけではもの寂しいものだ。
幼少期を思い出す。身長が低い時は床が身近であるゆえ、寝そべってお絵描きをしたり、床一面にレゴブロックを探しやすいように広げた。床の上で生活することを原体験として後、天井が近くなり、足の踏み場を無くした床に息苦しさを感じてミニマリストを始めたきっかけになる。
これはまさにの成り立ちに所以するように視線の高さが床に同情をたれた瞬間ではないか。童心を忘れては良い絵は描けないというが、あの頃の環境を再現することも最近の一興である。

吊るされる

去年の暮れ頃から夜の散歩が日課になっているが、場所による心理的な相性というものが存在する。狭所や虫が得意でないとか、人が多すぎても少なすぎてもダメだとか、トラックなどが多く通過しがちな道路は求めている夜の静寂や匂いにそぐわないとかだ。気に入った場所があればその理由を考える。上の写真は多摩堺の高低差が生んだ眺めだ。立っている場所は橋ではなく地続きの高台であって、乗り出すとちょっとした地下世界感を感じられる。この場所に来るといつも無性に心躍るのだが、ここにフィロバットの心理がよく反映されている。

立ち位置が高所であり、その下は車道で動きが激しく出入りしている。対して、対岸には定住の集合住宅があり、無数の営みの灯火がある。不安定と安定、緊張と緩和、孤独と社会、がよく示されている。映像力学の上手と下手の原則においても、画面右より出るものは安定や強者、自然さが暗示され、左下から右上へのムーブメントは上昇志向の表れだ。ここより身を乗り出すことはある種の心地よさで、私は吊るされていることを望んでいるのかもしれない。

オクノフィリア ocnophilia の語源は“しがみつく人”であり,スリルを恐怖し堅固不動な対象にしがみつかざるをえない心性を表している。つまり,空間は危険をはらんだ空虚であり,対象と片時も離れないよう密接することで一次愛の調和を取り戻そうと試みるものである。それに対して,フィロバティズム philobatism の語源は“つま先立ちで歩く人”であり,対象を手放して空間にさまよう,スリルを楽しむことのできる心性を表している。つまり,対象は危険な存在であり,むしろ対象の存在しない空間において一次愛の調和を取り戻そうと試みるものである。
オクノフィリア、フィロバティズム概念を用いたパーソナリティ理解の一考察

しかし、フィロバットも常に吊るし状態でいることはできず、発着する大地が必要だとされている。つまるところ、己が吊るされるために吊るすという行為で床(空間)を確保しているのだ。

ある意味、ミニマリストの本懐はフィロバティズムの獲得といえる。

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