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瞑想の備忘録

瞑想していて、感じたことを言葉にしたいと思う。

ここ1週間、毎朝瞑想をしているんだけど、覚えているためのメモ的なものになる。
全部感覚だったから、うまく言葉で説明できないけど。

はじめは、自分を光の粒にした。元々は光の粒だって聞いたから。
そこからチャクラが集まって、自分という幻影を生み出した。これが、体。肉体。これは私の感覚だったので、本当の成り立ちは知らない。

もともと光の粒だったということは、と光の粒の私を感じた。私は、空気だったし、葉だったし、家の素材だった。

そこから広がって、地球になって、宇宙になった。そこには愛の意識があった。愛にフォーカスを当てていたからかもしれない。

私は全体で、全てとつながっていた。
全てが私で何とも分離してなかった。

ただ、愛おしくて、ただ、愛していた。

わたしはその意識のまま、私の体にフォーカスをかけた。
宇宙から地球、地球から私の体へ戻るイメージ。
わたしは、私になりたかったんだ、と理解した。

ここから先は、瞑想後に感じたことを書いたものになる。

今、ここにいること。

今、ここにある全てが愛おしく感じた。

どんな私でも、愛している。

何をしていても、どんな人生を歩んでも。
わたしは私を愛している。

ああ、ずっとあったんだ。

何も求めなくてもいいし、何かを求めてもいい。
自分を責めてもいいし、好きになってもいい。
なにを、選んでもいい。

何かと思考は、良い、悪いを判断してくるけど。
感覚は、ただ木の葉の緑色を心地よく感じている。

何にならなくてもいい。
何かになってもいい。
そうじゃなくちゃダメだ、なんて何もない。

感覚に従う、ということはこういうことなのか。

全部どっちでも良くて、感覚に従うというのは、その先に正解や正しさがあるわけじゃなくて。
ただ、今にいるだけ。そして選ぶだけ、という感覚。
思考で損得を考えるのではなくて、今、ここで何を感じるかということ。

悲しくても、嬉しくても、怒っていても、なんでもいい。
わたしは私になりたかったし、わたしは私の全てを許している。

長年染みついた、価値観。あれはダメ、これはいい。他人からの価値観はいつも思考の中に入ってるし、それによって受けた痛みは体に入っている。

大丈夫だよ、と言って。体を撫でて、自分で自分に優しくして。だってわたしは私を愛してる。わたしは、私なのだ。

わたしは、私。とは、ここからきているのか。
ひとつ意識を外すと、全ては私で。
その前提で、この体に戻ると全ては私を愛してる、となる。全てとは、わたし。わたしは、私。

言葉遊びのようだ。

ただ、存在している。
ただ、愛している。
何も求められてない。
生きているだけ。
わたしは、私だから。
何をしても、しなくても、できても、できなくてもいい。許されてる。

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