「光る君へ」のための平安準備情報⑧

少しお久しぶりの平安準備情報です。
今回は、「この人大丈夫かな😇」とお思いになる方もいらっしゃるかと思いますがよろしければおつきあいください😇

「心音」に平安からの1000年の時を感じた

4月28日にZepp DiverCityで行われたOmoinotakeさんのライブに行って参りました。

12月のライブにも行ったので、「心音」を生で聞いたのは2度目でした。
1度目は「わぁぁぁ😭😭」となってなにがなんだか、のうちに終了。
そして今回。改めて「心音」を全身全霊で聞いたわけです。

「チェリまほ THE MOVIE」をご覧になった方は一定程度おわかりいただけるかと思うのですが、エンディングに流れる「心音」でダメ押し、そのなかでも、「来世でも…」のくだりで、うわぁぁぁとなる、というところがあるかと思います。
原作の世界観とも合致し、かつ、そもそも「チェリまほ」を抜きにしても、令和の結婚式ソングともいえるのが「心音」なのではないかと思うのですが、今回のライブで私は「心音」に平安を感じ、うわぁぁぁとなりました。

前の世にも御契りや深かりけむ

「心音」に平安を感じる?何を言っているのだ、、なのですが、
「心音」のなかでも感情が突き動かされる部分が、
来世でも君を必ず見つけてみせる、という世界観だと思います。
この発想、実は平安時代の人々と全く同じなのです。

『源氏物語』の桐壺帝は、身分の差を超えて光源氏の母桐壺更衣を寵愛します。その際、ふたりに物語が与えた評価が

「前の世にも御契りや深かりけむ」=「前世からのご宿縁が深かったからでしょうか」

でした。前世からの縁が深かったからこそ、これほどの寵愛を受けるのだ、という文脈です。
そうした、前世からの縁を思わざるを得ないほどに愛した桐壺更衣が亡くなろうとするとき、桐壺帝は、

「限りあらむ道にも後れ先立たじと契らせたまひけるを、さりともうち棄ててはえ行きやらじ」(小学館刊新編日本古典文学全集『源氏物語』
                          「桐壺」1-22頁)

という言葉をかけます。
「限りあらむ道」とは、「前世の因縁でその時期も定められている死出の道」(頭注)のことです。
それを「後れ先立たじ」と契るということは、死ぬときも死に後れたり先立ったりしない、一緒に死のうと約束した、ということです。

ふたりで生きて死ぬときもともに。
もちろんそれは現実的にはほぼ不可能な話です。
でもそれほどに深く愛しているということを示す言葉であり、そうした自分たちの関係に前世からの宿縁を感じる、それはもちろん来世もともに、という発想にもつながります。

え、「心音」じゃん…。
と思った、ということです。
「心音」の世界観に引き込まれてしまう、「チェリまほ」でも、もちろんそれ以外の作品や関係性においても、ふたりの来世まで続く宿縁を願ってしまう私達の心象のなかには、1000年続く精神史とでも言うべきものがある、と思うと……胸熱ではないでしょうか。

前世と来世を思う

この、前世や来世の思想、恋愛の場面でなくても少なくともなんとなく理解できる、という人も多いのはないでしょうか。
これは、日本や韓国(情報提供スペシャルサンクス:ダルさん)、ということは中国など、いわゆる東アジア文化圏に、特に特徴的にみられる発想だと思われます。
平安時代は仏教の影響が強いのですが、一方で本来的な仏教では生きている間に罪を犯さないことはありえないので、死んでまた人間に生まれ変われる可能性はほぼないはず…。しかし、平安時代の人々も、そして我々も、死んだらまた生まれ変わることを、自分自身もそうだと思うかは別として、感覚的に理解できる人は多いのではないでしょうか。(「袖振り合うも多生の縁」という言葉はそれを特徴的にあらわします)
それを思うと、やはり、「心音」の世界観は1000年の間、私達の心に紡がれた精神世界を歌にしている、ということになるわけで、胸に響かないわけないのだな、と突如気づきを得たわけです、、Zepp DiverCityで…。

この世での永遠を思う

一方で、前回の渋谷、今回のZepp DiverCityでも圧巻だったのが、Omoinotakeさんの「モラトリアム」でした。
セットリスト的には連続はしていませんが、「心音」→「モラトリアム」です。
「モラトリアム」の歌詞は、「心音」とは一変し、晴れも、明日も過去もいらない、あなたと閉じ込められた今、このときを永遠に、という世界観です。
平安の発想でいくと、成仏できない魂は行き所なくこの世をさまよいます。
来世はありません。
「モラトリアム」はヨネダコウ先生の『囀る鳥は羽ばたかない』の劇場アニメの主題歌でした。
『囀る鳥は羽ばたかない』を読んでいると、この「モラトリアム」の世界観はもちろんぐっさりと刺さるわけですが、さらにそこに「心音」での平安への気づきを経て「モラトリアム」を聞いたことで、「モラトリアム」は来世を拒んだ世界なんだ、この世を永遠にさまよっても、もっといえば成仏できずに永遠に地獄をさまよっても、あなたといられる今を選ぶんだ、という歌詞なんだ、と思ったら、うわぁぁぁぁとなりました、Zepp DiverCityで…(しつこい)。
「モラトリアム」は「心音」とは真逆なことを歌うわけですが、そこにはやはり平安から1000年続く精神史があり、それを思ったとき、その世界観の広がりが無限に思えました。

そしてなんといっても、、、、
エモアキさん、そしてレオさん、ドラゲさん、天才なの、神なの…??と。

本当に命をかけてその作品を読んで考えて、命をかけてその世界観を形にしたとき、それは1000年の時を超えるのだな、と思いました。
そしてそれを今味わう私達の心にも、やっぱり1000年の悠久の時があるのだと思うと、なんか、本当に、、エモいな…としみじみと思うのでした。

平安時代だけを見ると、もちろん来世をともに、みたいなことは、軽いくどき文句的に使われることもないとはいえません。
しかし前述の桐壺帝と桐壺更衣、また、紫の上の死を目前とした光源氏の歌などは、まさに来世もともにありたいという願いが真実込められています。
現在より短命だった時代。医療も未発達ですから、弱りゆく愛する人を如何ともしがたく見送るしかない。そこには「前の世」からの自分たちの宿縁を信じ、来世への希望を持つくらいしかすがるものがなかったのかもしれません。
そうした思いを抱きながら生きていた、と思うと平安時代の人たちの見え方もまた変わってくるように思います。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?