【すぐ消すかも】日記.4/29

誰でも、いや多くの人は将来の自分(10年から50年後先ほど)を考えたりすると思うけれど、自分は小学生の頃に今22歳ぐらいになったときどんな奴になっているか、に限らず、例えば先生の話を聞いている最中に「先生の話が終わった時に世界はどうなっているか?」みたいな「非-情報処理的」で「非-世界的」な妄想をしていた「結果」、その頃は予想できていない病気〈統合失調症〉に罹ってしまっている。統失もそうだが、まさか、あの頃の私、つまり先生の話を全く聞かず文字に1000文字接していたかどうか怪しい(学生時代を通して)ような存在が、本を読み/書き、考えることにここまで熱狂しているとは思ってもいなかった。この年で実家暮らしでフリーターであるとも思っていなかったし、最近バイトを始めるとも思っていなかったし、地元にいながら、その頃はいた全ての友達と疎遠になっているとも思っていなかった。そして、〈時間の経過〉を考えている時、〈時間の経過〉が人類史における深い謎、いやこの宇宙、存在におけるパラドックスのようなものであることは勿論、知る由もなかった。そういえば、私が学問に接する媒介として、私に深い影響を与えた「茂木健一郎」とその東大時代からの親友である「塩谷賢」の対話映像(youtube)から理科系を専攻する二人がよく「時間」を主題にして話していたことから時間に興味を持った(塩谷は時間論の哲学者である)。当時でも”今でも”何を言ってるか分からないので、人間は分からない者に「かっけ〜」とか「怖〜」とか思う生き物なので、何度も聞いていた。話を戻すと、今、こんなブログを投稿しているとも思わなかった。てか、前、書かないと言っていたのだが。まぁ、いいか。
第1章では、「ソクラテスがなぜ書かなかったのか」という疑問に対して、「内省」と「閃き」の間、言い換えれば「無知の知」と「ダイモン」の間にソクラテスは立っており、それは私的でもなく公的でもない正義へ向けた決断であることを最後に述べた。テキストにできることはまだあるか。インターネットには頭のいい人の書いたテキストがゴロゴロ転がっている。落合陽一はオブジェクト指向菩薩やらなんなら前言っていたが、youtubeの動画でその言語の意味を言っていたのかは知らないが、職人が作った工芸品がアートであるとする民藝を現代で敷衍して、デジタル空間でブログやSNSや動画サービス、音楽.絵画、などのプラットフォームで人間や生成AIが作ったコンテンツはデジタル空間での民藝である、みたいなことを言っていた。今日、寺と展示会の観光に行ってきたのだが、歴史資料なんかを見ているときスマフォに転がってるアプリやコンテンツ、特にsnsの投稿なんかは21世紀の「民衆の声」として「デジタルヒューマン化」していくんだろうなぁ、みたいなことを思った。これだけ「歴史資料化への民主化」が進んだ時代で、Fランの実質中卒みたいな存在の「私」がモノを読み/考え/書いたところで、宇宙ゴミの一つみたいなものでしかないだろう。
ここで、今、思いついたことを書きます。生成AIってもうチューリングテスト突破してるし、落合陽一は「脱近代宣言」で計算機自然/デジタルネイチャーが進んだ社会のSNSはbotで埋め尽くされる、みたいなことを言っており、そうなったら歴史の記述も計算機中心になり、歴史の中心.主体である「人間」と「機械」が同じになり、判別不可能、みたいなことを思った。ただでさえ、「歴史資料化への民主化」が進んでいるのに、そこにAIも参入してくるなんて。ニヒリズムは募るばかりである。機械が自律性を持つ、テクニウム.人工生命.AGIになってしまえば、完全に機械中心の世界/歴史へと引っくり返るだろうが、現状では機械は人間の所有物であり、そこには人間社会特有の利権の飛び交いがあり、つまり世界/歴史は人間によってしか変えられない。この辺りに、「仕事」の余地があるのではないか。


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