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2回の離婚から学んだ喪失の記憶①

愛情への渇望感というのは手に負えないものがある。

例えば、赤ちゃんがお母さんに

甘えたいという欲求がある。


お腹が空いたら、たとえ母が熱を出していても泣くし、

たとえ今から旅行だという瞬間でも

熱を出したとなればキャンセルになる。


周りがどんな状況であれ、

全ては自分主義で、

いかに周りに迷惑をかけようと関係なし。


トイレやお風呂、お腹すいたといった

生理的欲求から始まり、


わかってほしい、認められたい、

人を愛したい、誰かの力になりたい、といった

高次的な欲求まで、

自分のあらゆる欲が満たされていく。

そういう時期を、本来なら経験していく。


無条件に愛されているという感覚を

私たちは全身に浴びながら成長し、

また次の代へと無条件の愛を注ぐことができる。


人としての機能である。


だけども、もし、機能不全家族で、

例えば、

両親が死別した、

片親が単身赴任でいなかった、

あるいは親から暴力を受けて育った、

過干渉で自分で自分のことを考える機会がなく

育ってきた、などの、

無条件の愛を浴びてこれなかった場合。


その後の人生はどうなるのだろうか。


私たちは、仮面をかぶり、本当の自分を押し殺して、

ロボット化するしかないのだろうか。


それとか、

まるで100人皆同じといった風に、

個性を封じ、同じ時間の電車に乗り、

機械のような人生のレールを

歩くことになるのだろうか。


一見して、普通に働き、普通に家庭を持ち、

子供を産み育て、ママ友同士喋り、

父は父でサラリーマンをしていて、

ごく普通の家族は多い。


だけども、

アンダーグラウンドの世界はどうなのだろう。


また、世間になじむことができず、

個性を生かして仕事をする傍ら、

なぜか没頭しすぎてしまい、

サラリーマンよりも仕事に明け暮れ

しまいには自分の幸せを忘れてしまうパターンもある。


目標達成、売上管理、事業拡大に

全エネルギーを集中し、


または、自分の快楽の望みの実現のために、

あらゆる犠牲に気づかずに

突進して達成し、

「なぜこんなにも心は空っぽなのだろう」

と思うときもあるかもしれない。


この記事では、

その行動の裏にある気持ちというか、

人が生きていく原動力になる

源泉について考察している。



私が思うに、

愛というのは凄まじいパワーを持っている。

それはまさに生理的欲求というか、

直球でいうと生命的なエネルギーとか、

性のエネルギーというものだろう。


手に負えない力だと思っている。


自然界の動物が繁殖期になると

当たり前に交尾するのと同様、

私たち人間も本来はそうであるのに、


社会的なルールのために

その性エネルギーは抑圧されるのが常だ。


人と交わりたい。


マグマのような、

抑圧されたその欲求エネルギーは、

一体どこへいくのであろうか。


綺麗に「愛」とまとめてしっとりするのも

良いかもしれないが、

所詮、表面上だと思っている。


その本来の醜い姿はすぐに暴かれる。


途方も無いほどの

恨みや妬み、猜疑心、嫉妬心から、

反対に、死別に似ている喪失感、さらには

悲嘆まで発展していく。


そう、生命のエネルギーは破壊的だ。

その破壊的なエネルギーは、

時代により、世界大戦を巻き起こしたり、

はたまたウイルスに犯されていく原因にもなる。


私は個人的に人の行動源泉に興味があるので、

ここでは個人での考察に留めるが、

私たちの生命エネルギー(リビドー)が

もし、悲嘆、に注がれたらどうなるのだろう。


本来、大切な人、愛し合っていた人が

離別したとき、

多大な悲しみが襲ってくるが、

その悲しみに耐えられないときは

喪失へと変わり、

それでも耐えられないときは

悲嘆、へとどんどん

無意識の奥へと感情が抑圧されていく。


悲しみ、

喪失、

悲嘆、

そして複雑に体内エネルギーとして蓄積し、

トラウマ化していく。


その癒着はなかなか取れない。


脳のなかで、

感情、思考、思い出、

体の反応が皮膚感レベルで

パターン化され、記憶されてしまう。


トラウマは体の神経回路を

「脅かしが前提の人生」として作ってしまうため、

外部刺激にとても弱い体を作り上げる。


だが、出来上がったそのトラウマの回路と、

生命エネルギーというのが別だとしたら。


リビドーと、トラウマ。

もしそこで均衡が取れてしまったら

どうなるのだろうと考えた。


トラウマが早期の場合、

体は細く、身長も伸びにくくなるらしいが、

なんと私の場合は体格に恵まれている。


女性の平均身長よりも高い。


一体どういうことかと考えた。


なぜ、本来ならおっとりしっとり

しているはずの私が、

トライアスロンなんてものに出たりしたのか。


なぜ、お金を稼ぎ、仕事に没頭し、

家庭をおろそかにしてでも

夢を実現しようとしたのか。



単なる危機対応のスキルに

止まらないと思ったのだ。


問題はそこじゃない。


もっと奥にある気がした。


私の場合は、トラウマにより、

また、遺伝的にも脳内に天才型という血が

流れているのだが、


なんだかそれは

「考えろ」と言われている気がした。

誰かに。


チャンスをあげるから、

還元してくれと。社会に。


そんなわけで、考えてみる。


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