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慰めを実感した話

人を慰めるのは難しいし、慰められるのも案外難しい。
人に効く言葉は時と場合と人によって変わるし、受け手に余裕がなければ、言葉を尽くしてみても伝わらなかったりする。受け取るだけの余裕や客観性、希望が持てないからだ。

私も余裕がないし、育ちか性格か厭世的に物を見るから、慰めを受け入れるのが下手くそだ。最近だいぶマシになったけれど。

たが、慰めを実感したことがあったので、その話をしたいと思う。

先日、福祉関係の手続きで、担当者と面談があった。手続き上いろんなこと(体調や住居状態、家族など)について聞かれたのだが、家族関係の話をした時の一瞬が印象深かった。

言葉のない慰め

私の実家は、いわゆる機能不全家族である。
(最近は毒親という言葉が身近だが、家族関係の在り方に定義づけがあり、より明確な表現なので私はこちらの言葉の方が好きだ。)

現在、私は社会的・経済的に不安定な状況にあり、本来なら家族のサポートを受けた方が良い状況であろう。
手続きにおいて担当者から家族について聞かれるのも、申請者のサポート状況を把握するためだと思われる。

しかし不健全な肉親など関わるだけでストレスなので、できる限り関わりたくない。今後とも支援が望めないことを簡潔に説明しようと、私は担当者に「疎遠にしてます。機能不全家族なので」とだけ答えた。

その一瞬、彼女は心を砕くような、悼むような目をした。

目は口ほどに物を言うのか

こういう時、人は言葉で慰めたりするものだ。

この時、私の担当になった彼女は淡々と話す人で、なんなら若干気に触るほどのストレートさがある話し方の人だった。
そのあとも淡々と必要事項を聞いてきて、言葉で何かを慰めるような物言いはしなかった。

でも、マスクしてるのに、あの瞬間、目つきが変わったのが分かったのだ。

もちろん、私がそう感じただけであり、思い違いかもしれない。しかし、目の前の彼女からは、静かにこちらを悼むような気配がした。

その一瞬の空気に、癒されたというか、腑に落ちる慰めがあった。


本来の慈しみ、慰めってこういうものなんだなぁ、と思ったのだ。思い返してちょっと涙が出るくらいには。

あれは表面的なものでもなく、気の利いたことを言おうとしたわけでもなく、滲み出たものだった。
人は人に傷つき、人に癒されるというが、「人に癒される」ってこういうことなのだろうか。

言葉ではないからこそ、そこにある慰めの存在だけが、ストレートに自分に刺さったように感じた。


目は口ほどに物を言う

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