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樋口一葉終焉の地に想う

楽しや東京散歩

2024.3.21
地方出身の私はきっと「お上りさん」感覚で東京散歩が楽しいんだなと最近思えます。
だから 東京出身の人が当然知っていることもずーっと遅れて知ることばかり。でもその時その時知る東京は、私なりには楽しいのです。

歴史を学び、地形をたどりながら かつ美味しいものを食べたりと 都内を中心に歩く
ある散歩会に時々参加しています。
今回は 文京区根津~向ヶ丘~白山~小石川~茗荷谷へ、桜を探してのコースでした。
が、期待していた桜並木は蕾も膨らんでませんでした(^_^;)

名のついた坂をいくつも歩きました。
また、明暦の大火で焼け出された寺が移ってきた土地であるため、たくさんのお寺がありました。
そんな散歩コースの都営三田線白山駅のそばに 色街跡のあることを知りました。

商店街から露地に入れば
かつての私娼窟跡がわずかに残る

散歩会では、 かつて三業地(料理屋·芸妓屋·待合茶屋)であった場所をよく歩きます。
今回も この白山の商店街を一歩入った所が
その跡と言うことですが、ほとんどが新しい住宅地ばかり。着物の裾が雨で汚れないように白石の敷かれた道が待合茶屋や芸妓屋に続く道であったことが唯一の手がかり。
確かに 白石の道があり、なんとなく そういう雰囲気のある建物が少し残っていました。

白い石の道
白い石の道

幸薄の人 樋口一葉

かつては本郷丸山福山町と呼ばれていたこの地区。下谷龍泉寺町からこの地に越して来て執筆活動に希望を見いだした矢先に残念ながらこの地で亡くなったのが樋口一葉でした。

士族の裕福な家庭に生まれながらも、父の死によって苦労ずくめの一生。和歌を始めて書くことに才能を発揮したくさんの作品を残していますが、名作はこの丸山福山町に住んだわずかな期間に書いています。
そのひとつ「にごりえ」はこの色街が舞台だったのです。

「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」
を収録

一葉の小説は文語調で注釈がないと読めないほど難解でもあるけど、流れるような文体は平安時代の物語を読んでるようで優美。

「にごりえ」は酌婦「お力」と客「源七」の
悲しい恋物語ではありますが、最後に二人の棺が出て行き、人魂のような光が飛ぶ様子で終わっています。お力を刺して源七は切腹であろうと推測しかできない余韻を残す物語です。
そうだったのか!舞台はこの丸山福山町だったんですね。私は てっきり浅草や吉原あたりの色街が舞台だと思っていました。
こんなふうに 物語と場所が一致する時のうれしさは散歩の醍醐味です。

一葉碑

文京区西片
樋口一葉碑

一葉の住まいは崖の下にあったといいます。
今は近くの白山通り沿いのビルの入り口脇に「一葉 樋口夏子碑」と「一葉終焉の地 の説明書き札」がひっそりとあります。

多くの人の愛のこもった一葉碑

一葉碑のそばに しおりが置いてありました。
帰宅してゆっくり読んでみると、いろいろなことがわかりました。

丸山福山町の一葉の住まいがあった場所に、土地の所有者である笹田誠一氏が、一葉の生涯を後生に伝えたいと昭和27年に私費で建てられました。その後今のビルに移転されてます。
そして詩人で「文藝」の責任編集者で文学散歩の創始者でもある「野田宇太郎」が、碑に刻まれたこの流暢な一葉の日記を碑文として選んでいます。
撰文は青鞜社の岡田八千代
揮毫は平塚らいてう
裏面は残念なことに見てなかったのですが、平塚らいてう が縁起を書いています。
そこには 幸田文の文字も見えます。
幸田文は野田宇太郎が見いだした作家でもあったからでしょうか。

一葉が書いた移転当時の日記が
刻まれている

碑を見返すと、なんとも美しい文字です。
膨大な原稿を残して逝った一葉の格調高い志が感じられるようです。
小説を認められ多くの人が門人生になりたくて来訪していた最後の住まい跡が、こうして
守られているのは本当によかったなと思わずにいられません。

著名人の住居跡や石碑は数多くありますが、一葉の碑を見てこうして建てられた由縁を知ると、一葉の無念が報われているのではないかと感じるためか よけいにグッとくるものがあります。

才能ありながら 書く意欲もありながら貧困に耐え悔しい思いは想像以上だったと思います。しかしながら、陽のあたらぬ女性の哀しい物語を、まだ23歳で書くという偉業は 意地をも含む才能の絶頂ではなかったのか。そんなことまで思ってしまいました。

一つの場所や 一つの文学碑、そういうものか新しいことを知りあれこれ想いを巡らす。
あ~楽しや東京散歩です(^-^)/

#東京 #散歩 #樋口一葉 #文学碑 #丸山福山町
#野田宇太郎 #幸田文













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