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芥川龍之介と家族

河童忌に想う

2024.7.27
先日7/24は芥川龍之介の命日 河童忌でした。
芥川が13年住んだ田端は、芸術家がまず居を構え、芥川が移ってきてからは文士達がたくさん住んだ文士村と呼ばれていました。その資料館として田端駅のそばに田端文士村記念館があります。
河童忌にちなんで当日は講演などの企画があり、今回は「芥川龍之介が好んだお菓子」を手に入れることができるということで、いやしん坊は出かけました(^.^)

下町の老舗を巡るのは大変。これはありがたい企画で美味しくいただきました。

現在こちらの企画展も開催されているので、文学好きの方にはお薦めです。ましてやここは入館料無料です。

資料を見ていて、芥川龍之介の作品はあまり読んでこなかったなーと言うのが悔やまれること。若い時に読んだのかな?晩年の「河童」「或阿保の一生」は最近読みました。

だけど、田端の芥川の旧居跡を歩いてみたり、昨年「たばこと塩の博物館」での愛煙家の芥川の企画展を観たり

特別展の冊子

丹念な取材と詳細な説明で知られている
近藤富枝 著「田端文士村」を読んだりして

大文豪 芥川龍之介には関心があります。

田端文士村記念館では、広い屋敷の庭で息子達と遊び、 木登りをする芥川のビデオが流れています。オチャメな芥川、家庭の中ではいいお父さんだったような様子が伺えます。
今回の訪問では 当館の研究員 木口直子さん編集の「芥川龍之介 家族のことば」の本を見つけました。

これは芥川の作品をあまり知らなくとも、芥川の普段の顔を知ることができ、妻の文さんの気持ちや、幼い息子達の様子を伺い知れてとてもいい本でした。
作家としてではなく、夫、父としての芥川もやはり興味深い人間でした。

秀才でイケメンの芥川

まずは若い頃の芥川龍之介。写真で見たことがある人も多いかと思いますが賢そうな顔してますよね。

「芥川龍之介がみた江戸·東京」の冊子より
「芥川龍之介 家族のことば」より

小学校から成績もよかったというのは頷けます。東京帝国大学文学英文学科を2番の成績で卒業します(゚_゚)
その後息子を3人授かる芥川ですが簡単に略年譜を。(飛ばして読んでもOKですよ)

❰明治25年❱
東京市京橋区入船町に新原家の長男として誕生。生後7ヶ月で母親の病気のため母の実家本所区小泉町の芥川家に預けられる。教育熱心な伯母ふきに育される
❰明治37年 12歳❱
正式に伯父·道章の養子となり芥川を名のる。
❰明治43年 18歳❱
大水が害で内藤新宿に転居。第一高等学校に推薦入学。
❰大正2年 21歳❱
東京帝国大学に入学。
❰大正3年 22歳❱
菊池寛 久米正雄らと同人誌「新新潮」を刊行
田端に転居
❰大正4年 23歳❱
「帝国大学」に「羅生門」を発表
夏目漱石の門下に入る
❰大正5年 24歳❱
「新思潮」な創刊号に掲載した「鼻」が漱石に絶賛される。
海軍機関学校の嘱託英語教官となる
12月 漱石逝去
❰大正7年 26歳❱
塚本文と結婚   鎌倉で新婚生活
❰大正8年 27歳❱
大阪毎日新聞社に入社
❰大正9年 28歳❱
長男 比呂志 誕生(菊池寛の名からもらう)
❰大正10年 29歳❱
海外視察員として中国訪問
帰国後、神経衰弱などを病み、湯河原などへ静養に行く
❰大正11年 30歳❱
次男 多加志 誕生(画家 小穴隆一の名からもらう)
❰大正12年 31歳❱
関東大震災
❰大正14年 33歳❱
文化学院·文学部講師に就任
三男 比呂志 誕生(友人 井川泰の名からもらう)
❰昭和2年 35歳❱
死去 

文さんと結婚するにいたって芥川はたくさんのラブレターを書いています。どれもこちらが恥ずかしくなるような素直なかわいい手紙です。「芥川龍之介 家族のことば」の本の帯にあるこれもそうです。

色がすっかり変わってしまったのですが、主人が私に宛てた手紙です。(略)
ワタクシハ アナタヲ 愛シテ居リマスコノ上愛セナイ位愛シテ 居リマス
ダカラ幸福デス
小鳥ノヤウニ幸福デス

これは私が結婚する前にもらったものですが、私はときどき、主人の手紙も創作の一部であったかも知れないと思ったりします。                              

「追想 芥川龍之介」

どちらが先に死んでも、お互いの手紙は棺の中に入れると約束していた二人。唯一現存するのがこのラブレターなのだそうです。
また新婚時代には朝や夜のひとときを、文さんは芥川から英語を習っていたそうで、「あの頃が一番楽しかった」と言っています。

文さんは舅姑と小姑によく尽くしていますし可愛がられてもいます。まあ、小さいことはいろいろあったことでしょうが、いい奥さんだったのだろうと思います。

のちに芥川が神経を病み、薬を飲んだり眠れなかったりすることが頻繁になると 文さんはやはり悪い予感を起こします。
昭和元年、文さんは不意に嫌な予感がして
書斎のある2階へ行くと、芥川が「何だ?」という問いに 「いいえ、お父さんが死んでしまうような予感がして、淋しくて、恐ろしくてたまらず来てみたのです」と言ってしまいますが、芥川は黙ってしまったそうです。
それくらい二人とも何かに追いつめられていたのかと思うと いたたまりません。

7月24日
(略)
主人が亡くなりました時、私はとうとうその時が来たのだと、自分に言いきかせました。
私は、主人の安らぎさえある顔(私には本当にそう思えました)をみて、
「お父さん、よかったですね」
という言葉が出てきました。

「追想 芥川龍之介」

 文さん28歳です。
芥川は 「わが子等に」と「芥川文子あて」
と書いた遺書を残していきました。

「とうちゃん、まんま」

長男 芥川比呂志のことば

食事の時間になると、階段の下から二階で仕事をしている父に声をかける。「龍ちゃん、ごはんだよ」と老人達はいう。母は「お父さん、ごはんですよ」という。それに応じて二階から「はい」という返事が聞こえる。
幼い僕は、たぶん祖母にでも教えられたのであろう、「とうちゃん、まんま」と呼んだそうである。それがしまいには、父の返上を真似て「とうちゃん、まんま、はあ」と言うようになったそうである。

「決められた以外のせりふ」

これを読んだ時、涙が出るくらい愛しく思いました。これがすべて芥川の家庭を物語っていますよね。比呂志さんの可愛い姿が浮かぶし、それを家族皆が微笑ましく見ている。

また比呂志さんは、自分の記憶が大震災から始まると言っています。
敏感で神経質な芥川は その日何か予感するものがあったのか、片膝を立てて座りパンにバターを塗って気忙しく食べていた事を憶えています。その時比呂志さんは祖父と縁側の籐椅子に座り、話をしたり絵本を見たりしていたそうです。揺れがきた時は父は先に玄関先に走り出していて、皆不安顔を並べていたそうです。「父の追憶」より
その時の文さんは、2階に寝ていた多加志さんを抱き抱え、やっとのこと下に降りてきています。夫の薄情さを叱ると、「人間最後になると自分のことしか考えないものだ」とひっそり言った夫の言葉を憶えています(^_^;)

次男の多加志さんは少し神経質な体質だったようです。芥川の葬儀の時に洋服を着せようとしたけど、がんなにいつもの着物がいいと言ってきかず、とうとう文さんは長男の比呂志さんだけ連れて行きました。
また多加志さんは兄さんが学校に行く時の真似をして風呂敷にノートを包んだりする遊びが好きだったようですが、風呂敷の表を中にして包むので芥川が「それは違うよ、裏が表に出ているね」と言ったら「お父さん違うよ。表を中にして包むと、ほどいて中を開けた時に、きれいだろ」と言ったと。
「この子は、われわれ夫婦には育てきれないかもしれないよ」と芥川が文さんに言ったそうです。賢こかったのですね。

三男の也寸志さんは2歳の時に父を亡くしていますから、記憶は全くないそうです。
もっともです。
芥川は仕事場にいない時は、子供達の頬をつついたり、抱いたり、本を読んであげたりして可愛がっています。

その後、比呂志さんは俳優·演出家になりました。一番文学的才能があったという多加志さんはミャンマーで戦死しました。也寸志さんは音楽家になりました。也寸志さんがTVに出られていたのを私は憶えています。NHKの「音楽の広場」という番組でピアノを弾いたり指揮をされる素敵な紳士でした。

上2枚とトップ画象の煙草をくわえた芥川の写真は、改造社が『現代文学全集』の宣伝フィルムとして制作した「現代日本文学巡礼」(監督:久米正雄)の一場面です。
このビデオは田端文士村記念館で見ることもできますし、今後も芥川龍之介を知るなんらかの場面で目にすることがあると思います。

芥川龍之介は素敵な家族に恵まれた人であったことは間違いないことです。
早くに逝かなければならなかったその苦悩は本人にしかわかりませんが、息子達は立派に育ちました。芥川龍之介と文さんの息子達だったからこそ立派に育ったよと言ってもいいかもしれません。

芥川が亡くなってから義父は 「文ちゃんはまだ若いから再婚したらどうか」とすすめられたそうですが、その気がないことを告げると、「ありがとう」と義父は畳に手をついて涙を流したそうです。
文さんも気丈な立派な人でしたね。

最後に、芥川が亡くなったあと文さんが息子達に言った言葉で終わりたいと思います。
「なにごとも、中途半端でやめてしまうのは一番いけない。お父さんはしっかりした仕事をなさった人なのだから、お前たちも、それをよく考えて生きなさい」

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