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アングラの王子様

彼と初めて会ったのは大学の講義室だった。
初めて会ったといっても遠巻きに彼を見ているだけだった。

「あれが今井ホールディングスの御曹司?結構イケメンじゃん」
「ちょっとユミ!聞こえるよ」

ユミは大学内の情報に精通している。
新入生なのにこのサークルの先輩がカッコイイだとか、学食には裏メニューがあるだとか、ありとあらゆる噂を取り揃えていた。
いろんなサークルの新歓コンパを渡り歩いて情報収集しているらしい。

「玉の輿を狙って多くの女子生徒が彼の周りを取り巻いているって噂、本当にみたいね」

実際、今井君の周りには4人ぐらいの女子生徒が取り巻いていた。

「でも、困ってるんじゃない?」
「そりゃ、あんだけ言い寄られたらね。今日はどの女にするか、迷ってんじゃないの?」
「そんな風には見えないけど」

ユミの言うような遊び人みたいな雰囲気は全く感じなかった。
寧ろその逆で、繊細な人なんじゃないか、って勝手に想像していた。

「ま、私たちみたいな庶民には手の届かない高嶺の花ってとこだね」
「それ、あんまり男の人に対して使わないんじゃない?」
「世の中はジェンダーレスな時代なの。そんな時代遅れなこと言ってたら取り残されちゃうよ?」

こういうときにジェンダーレスを持ち出すことが正しいのかどうかはさておき、ユミの言う通り、私には手の届かない有名人っていうことは確かだった。
私たちは講義室の端っこで彼のことを見ているだけだ。
あの取り巻きの中に加わって、お近づきになろうなんて考えは1ミリもなかった。

「ナナコはもうサークル決めた?」
「うーん、まだかな」
「早く決めなよ?中途半端な時期に入部すると人間関係作るの大変だよ」
「そういうユミはもう決めたの?」
「私は5つ掛け持ちかな」
「5つ?無理でしょそんなの」
「無理じゃないよ。1週間は7日間あるからね。1日につき1サークル行っても、2日余る計算」
「その2日は?」
「バイトよ」

ユミの行動力と体力にはいつも驚かされる。
高校からの友人というだけでいつも一緒にいるが、大学で知り合ったとしたら友達になれたかどうか怪しい。
それぐらい私とユミは真逆の性格をしている。
あのバイタリティーが少しでもあれば、きっと楽しい大学生活が贈れるに違いない。
このまま何も行動を起こさなければ、ユミの言う通り、私は取り残されていってしまうのかもしれない。
私はそっと鞄の奥にしまっておいた、演劇サークルの勧誘チラシを広げる。

「演劇サークル?ナナコが?」

ユミがチラシを覗き込んで驚いている。
プライバシーやデリカシーという言葉とは無縁の人間だ。

「やっぱり変かな」
「変じゃないよ。うん。きっとナナコに向いてると思う」
「本当?」
「ただ・・・演劇サークルかぁ」
「何?」
「いや・・・いい噂を聞かないんだよね。活動してるかどうかも怪しいし」
「え、そうなの?」
「ほら、活動場所も旧サークル棟って書いているでしょ?ここ、老朽化が進んでて誰も寄り付かないらしいし、夜にはオバケが出るらしいよ」

ユミの言葉に私は完全に怖気づいてしまった。


理工学部棟の裏には山があり、そこは生態系を調査するフィールドワークに使われたり、農学部が畑を耕していたりしている。
一日の講義が終わった後、私はその裏山に足を運んだ。
登り始めて10分ほどは道も整備されていたが、歩を進めるにつれて山道は険しくなっていった。
人が来たらギリギリすれ違えるかどうか、といったぐらいの幅の道をゆっくりと登る。
生まれてこの方、何か決まったスポーツをしてこなかったため、この険しい山道を登るのはもはや登山のようにも思えた。
まだ17時過ぎだというのに、鬱蒼と生い茂る草木が辺りを薄暗い影で覆った。
そろそろ体力の限界だ。やっぱり今日は諦めよう。
そう思った時、急に開けた場所に着いた。

そこには雑居ビルのような見た目の古びた建物があった。
高さからして四階建てぐらいだろうか。
近くに来ると、蜘蛛の巣や埃が目立つ。
人気のない廃墟のような印象。

ーーーーーオバケが出るんだって。

ユミの言葉を思い出し、後退りしてしまう。
なんでこんなときに限ってユミがいないんだ、と恨んだが、基本的にどこかのサークルに顔を出しているんだから、こんなところに一緒に来てくれるほど暇ではないのだ。
しかし、今登ってきた山道を振り返り、思いとどまる。
ここまで来たんだから、とりあえず顔だけ出してヤバかったら帰ろう。
思い切って古びた扉を開く。
ぎぎぎぎと重い音を立てて、扉が開く。
建物の中は蛍光灯が点滅していたり、消えかかっているものもあり薄暗い。通路に沿って部屋がいくつかあるようだ。
チラシによると、演劇サークルの部室は4階だ。
私は薄暗い階段を上ることにした。
人気がなく、静かな階段に、足音だけが響く。
本当に廃墟なんじゃないかっていう気がしてくるぐらい、人の気配がしない。
いたるところに蜘蛛の巣が張っていて、引っ掛からないように身を屈めながら階段を上っていき、4階までたどり着いた。
4階は他の階と違っていて、奥に伸びる長い通路がなかった。
代わりに扉が手前と奥に二つあり、手前側の扉の上に「演劇サークル」と書いてあった。

「ここだ」

つい、独り言が出てしまうぐらい、心細かった。
その独り言が遠くまで響いて、建物の奥に消えていった。
部室の扉をノックする。

コンコン・・・

しかし、返事がない。
こんな大変な思いをしてきたのに、まさか不在?
それとも本当に廃墟だったり・・・。
そんな不安を胸に、ダメ元でドアノブを回す。
鍵はーーーーー掛かっていない。
ギィと音を立てて、扉が開いた。
部室の中は散らかっているものの、生活感を感じさせる。
向かい合ったソファの間にテーブル、その上にはビールの缶がいくつか転がっている。
まるで誰かの部屋に入ってしまったようだ。
慌てて部室から出て、看板を確認する。

「演劇サークル」

確かにそう書いてある。
恐る恐る中に入ると、またギィと音を立てて扉が閉まった。
ここの建物は全体的に建付けが悪いらしい。
片側の壁には、本棚があり、演劇に関する本や台本などが並んでいる。
誰かの部屋かと思ったが、ちゃんと演劇をやるみたいだ。
ふと手前側のソファに目をやると、そこには男の人が寝ていた。

「きゃっ」

びっくりして声が出てしまって、慌てて口に手をやる。
動かない・・・・まさか。

「死んでる・・・?」
「カーット!!!」

ソファで寝そべっていた男が急に起き上がり、叫び声を上げたため、私は驚いて尻もちをついた。

「おっと、驚かせてしまって申し訳ないですね」

男は棚の上に置いてあるビデオカメラを確認している。

「ううん・・・ちょっと見切れていますねぇ。でも、君、いいリアクションをしていますよ」

うんうんと頷きながら、ビデオカメラを確認している。
まさか、録画されてたの?

「あの、私・・・」
「ああ、申し訳ありません。紹介が遅れました。私、この演劇サークルの部長を務めております、谷垣ジンと申します」

初めまして、と手を差し伸べられる。
私は尻もちをついたままだったので、その手を掴むと一気に引っ張り上げられる。
見た目に寄らず、力が強い。
ボサボサのパーマ頭で眼鏡をかけている。
口調こそ丁寧だが、どこか胡散臭い感じがする。

「あの、さっきのって・・・」
「いやぁ、階段を上がってくる足音がしたもので、ついつい一芝居うってしまいました。これも職業病というやつでしょうか」

職業病?
この人、絶対変な人だ。

「君、入部希望者?」
「いえ、私はそろそろ・・・」

そう言って部室の外に出ようとドアを開けて外に出ようとしたとき、何かにぶつかってよろけてしまう。
こけそうになるのを、そっと支えられる。

「大丈夫?」

部室の外に立っていたのは、今井トウマだった。
今井ホールディングスの御曹司で、学部の女子たちの注目の的である今井トウマが今、片腕で私を支えている。

「大丈夫・・・です」
「おやおや、急にラブシーンでしょうか?カメラを回すのでもうちょっとそのままで・・・」

谷垣さんがカメラを持って近づいてくる気配を察して、私は咄嗟に今井君の手を振り払った。

「ああ。いい画が撮れそうだったのに・・・」

そんな谷垣さんを尻目に、今井君が口を開く。

「演劇サークルってここで合ってますか?」
「はいはい。そうですとも。ここが演劇サークルで、私が部長の谷垣ジンです」

その言葉を聞いて、今井君は部室を改めて見渡す。
私と同じく、この部室の異様さに気が付いて、すぐに踵を返すに違いない。
部屋を眺めている視線が一度、私の方に向けられる。
一瞬、今井君と目が合う。
さっきのこともあって、なんだか居心地が悪くて目を逸らす。

「俺、このサークルに入りたいです」
「ほう、入部希望ですか。それも二人も同時に」
「いや、私は別に」
「あなた達の気持ちは分かりました。この辺境の地、旧サークル棟、通称“アングラ”によくぞ、辿り着きました。それだけで、あなたがたの演劇に対する熱意は十分にわかりました」

谷垣さんは、私と今井君を順番に見つめる。
私は、全力で首を横に振る。
谷垣さんは続けた。

「しかし、来る者拒まずの演劇サークルではありますが、一つだけ試練があります」
「・・・試練?」
「ええ、伝統の通過儀礼のようなものです。お二人にはこれから、エチュードをやってもらいます」

「エチュード?」
「そう。あなたは・・・えと」
「白石です」
「白石さんは演劇をしたことがないようですね。それで君は?」
「今井トウマです。人前で演技をするのは初めてですが、小さい頃から演劇は鑑賞してきました。エチュードは即興演劇のことですよね」
「そうです。お二人には即興で演じてもらいます。シチュエーションは・・・そうですね。付き合いたてのカップルっていうのはどうでしょう」

私と今井君がカップル役を演じる?
急展開に言葉が出ない。

「付き合って初めてのキスシーンを演じてもらいます。準備はよろしいですか?」
「はい」

今井君の聞き分けの良さにも驚いてしまう。
いきなりキスシーンって、ちょっと待って私ファーストキスなんだけど。
演劇サークルってこれがスタンダードなんだろうか。
私が返事も出来ないままソワソワしていると、今井君が指示を出してくれる。

「じゃあ、白石さんはソファに座って」
「あ、はい」

今井君はなんだか小慣れている様子だ。
本当に演技は初めてなんだろうか。

「それじゃあ、いきます。よーい、アクション!」

ソファに座る私を見下ろす形で、今井君が見つめてくる。
あまりにも強い眼差しについ目を逸らしたくなるが、今はカップル同士の演技なんだ、そう言い聞かせて目を逸らしそうになるのをぐっと堪える。
改めて見ると目鼻立ちが整っていて、ついつい見惚れてしまう。

「俺達、付き合ってんだよな?」

私の目を覗き込みながら、今井君が言う。
とても自然な雰囲気なので、今井君の言葉を聞いていると、本当に付き合っているんじゃないかと錯覚する。
と、感心している場合じゃない、なにか答えないと。

「は、はい・・・」

カップルとは言い難い返しになってしまった。

「だったら、なんで俺以外の男とデートしたんだよ」

今井君が急に設定をぶち込んできたので驚く。
付き合いたてのカップルだというのだから、てっきり初々しいラブコメ演技だとばかり思っていたので虚をつかれた。

「あの、それは・・・」
「なんなんだよ!あの男」
「ただの友達・・・だよ」
「友達?じゃあ俺のこともただの友達だと思ってんだろ?」
「そんなことない」
「じゃあ、証明してみろよ」
「証明・・・って」
「恋人だっていう証明。つまり、キスだ」
「キス・・・」
「出来ないなら、もう別れよう。俺達、それまでの関係だったってことだよ」

知らぬ間に別れ話になっていて、焦る。
お題はキスシーンだ。
これは、私から行かなきゃいけない・・・のか?
躊躇している間にも時間が過ぎていく。
一体、なんでこんなことになったのか。
そうだ、あのキツい坂道を途中で引き返せばよかったんだ。
だけど、坂道って一度登り始めたら、それまで登った分がなんだか勿体無くて引き返せなくなるものだ。
もう引き返せない。

決心して、キスシーンを演じることにした。
今井君は私を一心に見つめている。
覚悟はできている、そう聞こえてくるようだ。
私はゆっくりと今井君に近づいた。
背伸びをして、今井君の唇に近づいていった、その時だった。

ギィと音がして、部室のドアが開いた。

「え、ちょっと何これ?何してんの、あんた達!」

急に女性が入ってきて、私たちは演技を一旦中断した。
今井君とキスをする直前だったため、私のファーストキスはギリギリ守られたことになる。

「おや、遅かったですね、国枝さん。今、入部試験の真っ最中でして」
「入部試験って、この子達新入生?あんた、新入生に何させてんのよ」
「何ってエチュードですが」
「だから、なんでキスシーンなんかさせてんのよ」
「そりゃあ、若い男女が一番盛り上がるシーンといえばキスシーンですからね。いやぁ、いいもの見せてもらいましたよ」
「あんたの趣味に2人を巻き込まないの!」
「国枝さんが入ってくるのがもう少し遅ければ、もっと面白かったんですけどね」

ニヤニヤと笑う谷垣さんに、国枝と呼ばれた女性がゲンコツを入れる。
きっとあの人は変態だ。
国枝さんはこちらに向き直って、改めて挨拶をする。

「私は国枝ヒトミ。文学部の2年よ。私が来たからには、そこの変態に好き勝手させないから、安心してね」

国枝さんはとても優しそうで、しっかりとした感じの女性だった。
私と1学年しか変わらないはずなのに、大人の女性って感じがする。
この演劇サークルにもまともな人がいたんだ、と安心する。

「変態とは失敬な。私は紳士ですよ」
「どこにこんな落ちぶれた紳士がいるのよ」
「ほう。先輩に対する口の利き方というものを教えてあげましょうか。手取り足取り」
「先輩じゃなければとっくに殺してるわ」

私は2人の勢いに圧倒されて、ただやり取りをぼーっと眺めているだけだった。
今井君はソファに腰かけて、ふーっと一息ついた後、私に声をかけてきた。

「急なアドリブでごめん」
「いや、こっちこそ。うまく対応できなくて」
「初めてなんだからできなくて当たり前だよ。むしろ白石さんはよくやってくれたよ」

白石さん…今井君の口から私の名前を呼ばれて、ドキッとする。
今井ホールディングスの御曹司で、学部でも人気の今井君に名前を呼ばれるなんて、今日の昼間では考えられなかった。
私はミーハーじゃないけど、あれだけ取り巻きに囲まれてたら、自分とは違う世界に住む人間だって思ってしまう。
そして、演技をしてる時とのギャップが凄い。
さっきのエチュードのときは、オラオラ系だったけど、今は物腰が柔らかく優しい雰囲気だ。

今井君は、まだ言い合いをしている2人の方に向き直った。

「あの・・・それで僕らは合格なんでしょうか?」

そういえば、入部試験の最中だったんだ。

「個人的にはもうちょっと続きを観たかったんですが・・・」
「これ以上は私が許しません!」
「と、国枝さんが言ってますので、仕方ありませんね。2人とも合格です」
「えっ・・・私も?」

正直落ちたと思っていた。
今井君にリードしてもらってばかりで、演技という演技なんてできなかった。

「荒削りでしたが、光るものがありました」
「それ、言いたいだけでしょ」
「昨日、観た映画の台詞です。国枝さんは痛いとこついてきますねぇ。入部試験とは言っても、演技の質は求めていません。2人とも演技は初めてですからね。この試験は、演劇の世界に入れるかどうかを見ています」
「演劇の世界?」
「そうです。普通の方に、今から即興演技をしてください、と言ってもなかなかスイッチを切り替えられないものです。ヘラヘラと笑ってしまったり、途中で演技をやめてしまう方もいます。しかし、お二人は一生懸命お芝居に向き合ってくれました。歓迎します、ようこそ演劇サークルへ」

変な人だけど、実はしっかりした人なのかもしれない。
谷垣さんを見直したこの時の私をぶん殴りたくなるような事件が、次の日に起こったのだ。

何だか夢のような時間だったな、と演劇サークルでの出来事を思い出しながら、私は学食で遅めのランチを食べていた。
山の上の旧サークル棟、通称アングラは今いる世界とは別の世界のような気がした。
別の世界で、新しい自分を見つけられそうだ。
あのサークルには、そう思わせる魅力がある。
上機嫌で生姜焼き定食を食べている時だった。

「ナナコ、こんなとこにいた!」

ユミが突然やってきた。
何やら慌てている様子だ。

「そりゃ、お昼だから学食にいるわよ。ちょっと遅いけどこの時間の方が空いてるし」
「そうじゃなくて!あんた、SNS見てないの?」

私は元々SNSをやっていなかったのだが、大学生になって不便を感じたため、仕方なく最近始めたばかりで、正直どう使っていいかあまりよくわかっていない。

「どうしたの。血相変えて」
「どうもこうも!これ見てよ!」

ユミはスマホの画面を差し出した。
言い合いをしているカップルが、徐々に近づいて、キスをーーーーって、これ!

「これ、ナナコでしょ?」
「あ、えと・・・これは」
「それでキスをしようとしている相手は、あの今井ホールディングスの御曹司、今井トウマでしょ?」
「いや、違うの!これは演技で」
「わかってるわよ!昨日演劇サークルに行くって言ったときからなんだか妙な胸騒ぎがしてたのよ。まさかこんなことになるなんて」
「でも、なんでこんな動画が・・・」
「演劇部の部長のアカウントで投稿されてる。なんでも次回公演の宣伝なんだって」

その投稿には#拡散希望なんて文字も踊っている。

「この投稿は既に大学中に広まってる。大バズりよ。ただの一般人ならこんなことにはならない。あの有名人、今井トウマのスキャンダルなんだから、当然の結果よね」
「なにそれ」
「あんた、宣伝に使われただけなのよ。早くこれを投稿した部長を捕まえて、消させないと」
「私、部室行ってくる」

私は席を立って走り出した。

「ちょっとー、この生姜焼きどうすんのよ」
「ユミにあげるー」
「もう太っちゃうじゃない」

ぶつぶつ文句を言いながらも生姜焼きを食べ始めたユミを残して、私は旧サークル棟へ向かった。
学食から出てキャンパス内を疾走する最中、皆が皆スマホを見ているのに気がつく。
もしかして、今この瞬間にもあの動画を見ているのかもしれない。
歩いている人と目が合う。
ひょっとしたら、あの動画に出ているのが私だって気づかれたかもしれない。
私は見られないように顔を伏せて走った。
それがよくなかった。
前にいる人とぶつかってしまった。

「きゃ」

バランスを崩して倒れ掛けた私の方を、がっしりとした腕が支える。
この感じ、覚えがある。
顔を上げると今井君がそこにいた。

「大丈夫?白石さん」

そう言って私の顔を覗き込んでくる。
昨日と変わらない、優しい眼差しに、私は時間を忘れて見入ってしまう。
しかし、白昼堂々、キャンパス内で抱き合っている男女を、暇な大学生たちは見逃さなかった。

「何あれ、大学内でいちゃついちゃって」
「おいおい、見せつけかよ」
「ちょっと待って、あれ動画の二人なんじゃね」
「嘘?あ、ほんだ!あれ、今井ホールディングスの御曹司じゃん」

ざわざわと私たちを見物する人たちの声が聞こえる。
このままじゃ、まずい。
ここから逃げなきゃ。
そう思ってはいても、足がすくんで動かない。

そんな私の手を握り、今井君は言った。

「行こう」
「どこに?」
「とりあえず、部室へ」

私たちは群衆をかき分けるようにして、旧サークル棟・アングラに向かって走り出した。

今井君に手を取られたまま、キャンパス内を駆け抜けていく。
走っているうちに周りの視線も気にならなくなっていった。
なんだか映画のワンシーンみたいだ。
今井君と一緒にいたら、そこが舞台の上じゃなくても、スポットライトが当たっているような気がした。
これまでの人生、そんなシーンがあっただろうか。
いつもクラスの端っこで、目立つグループの人たちを遠くから眺めていた私が、こんな風に手を取られて走っているなんて、夢みたいだ。

今井君に引っ張られるまま、理工学部棟の裏手の山道まで来て、そこで足を止めた。

「ここまで来れば、とりあえず大丈夫かな。山道だし、ゆっくり歩こう」

そこで、まだ手を繋いだままでいることに気が付いた今井君は、「ごめん」と言って手を離した。
私の掌には、強く握られた感触と温かさが残っている。
じんわりと浮き出した手汗は、私のものか今井君のものか区別がつかない。
私と今井君は、旧サークル棟・アングラに続く山道を登りだした。
狭い山道を二人で登っていると、自然と距離も縮まって、向き合って喋るよりも話しやすい気がした。
私は思い切って、今井君に話しかける。

「なんか大変なことになっちゃったね。あんな動画拡散されて」
「演技に夢中で撮られていることに全然気付かなかった」
「私も。谷垣さん、しっかりした人なのかなって思ったけど、あんな動画SNSにあげちゃうなんてね」
「宣伝だとしても僕たちに一言断るべきだ」
「だよね」

私とのキスシーンを拡散されて、今井君はどう思っているのだろう。
勘違いしている人は結構いるはずだ。
私なんかとそういう関係だって疑われるのは迷惑なんじゃないかと心配してしまう。
私はそれとなく、今井君の思いを聞き出そうとする。

「あんな動画あげられたら、変な噂流れるから勘弁してほしいよね」
「まあね。朝から大変だったよ。知らない奴にも話しかけられるし。白石さんも大変だったでしょ?」
「私は・・・今井君みたいに友達多くないし」
「俺も友達と呼べるような人は数えるほどしかいないよ」
「え?」

聞き返そうと思ったとき、開けた場所に出た。
旧サークル棟・通称アングラは昨日と変わらず、古びた雑居ビルのような外観で私たちを迎えてくれた。
昨日、一人で来た時よりも山道登る時間が短く感じられたのはきっと、今井君と一緒だったからだ。
この人と一緒にいたら、キツイ山道も平気で登る、ということに気が付いた。

「ねえ、部室に行ってどうするの?」
「とりあえず、部長に会って、あの投稿を消してもらう。一度拡散されたら複製されたりして全部消すのは無理だろうけど、火種だけでも消さないとね」

私たちが部室のある4階まで上がると、演劇部の部室の前には人だかりができていた。

「はーい。順番に並んでください」

人だかりの奥に、谷垣さんがいた。
階段を上がってきた、私たちに気が付き、こちらに近づいてきた。

「何なんですか?この人だかり」
「いやぁ、何というか、昨日のキスシーンの動画思った以上に反響がありましてね。『私も今井君とキスしたい!』っていう女性が殺到してまして。私も困っていたところです」

谷垣さんは私たちを連れて、群衆をかき分けて部室に向かった。
人だかりの間を通るとき、今井君に向けて黄色い歓声が上がると同時に、誰かが「なんであんな地味な子が」と呟いたのが聞こえた。
私は視線を合わせないように、下を向いて歩いた。
部室に入ると、谷垣さんは内側から鍵をかけた。

「谷垣さん、説明してもらえますか?なんで勝手にあの動画をアップしたのか」

今井君が詰め寄る。
静かな声の奥に、怒りを抑えている様子が伺える。

「あなたたちに許可を取らず、勝手に動画をあげてしまったことは謝ります。国枝さんにもこっぴどく𠮟られましたからね。私も事の重大さを認識しているつもりです」
「じゃあ、あの動画を消してください」
「わかりました。私にはそれを拒否する権利はありませんからね。あの動画は消すとして、今、目の前の厄介事を片付けるのが先決です。お二人への償いはその後、じっくりさせて頂けたらと」

谷垣さんは、部室の扉を指さす。
あの集まった女子達をどうするか、それを先に片付けなくてはならない、ということだろうか。
私は、どうしていいかわからず、今井君の方を見る。
今井君は、肩透かしを食らったようで、怒りの矛先をどこに向けていいものか、わからない様子だったが、一度深呼吸をして気持ちを切り替えたようだ。

「わかりました。まずは外の女子達をなんとかしましょう。谷垣さんの罪についてはその後でゆっくり話し合いましょう」
「恩に着ます。それじゃあ、あの外に集まった女性達に、入部試験をやってもらいましょう。あなた方二人と同様にエチュードをしてもらいます」
「外にいる女子達を入部させるんですか?」
「演劇サークルは来るもの拒まずでやってますから。私が合格だと思った方には入部してもらいます」

今井君は釈然としない様子だったが、私は谷垣さんに同意した。
「なんであんな地味な子が・・・」なんて言われたら、私だっていい気はしない。
あの子たちだって、私と同じように入部のチャンスをもらうべきだし、合格したら入部を許されるべきだ。
それが、どんな不純な動機でも。
今井君にとっては、自分とキスがしたいと言っている女子が入ってくるのは嫌なのかもしれないが、それが演劇サークルのルールだったら仕方ない。

谷垣さんは部室から出て、外の女子達に入部試験の説明をした。
二人一組ペアになって、エチュードをすること。
ペア毎に順番に部室に入って、エチュードをしてもらい、その場で合否を言い渡す。
合格なら演劇サークルの部員として、そのまま部室に残ってもらう。
不合格ならお帰りいただくというシンプルな内容だ。

「それでは、最初のペア、お入りください」

部室には谷垣さんと今井君と私が居て、入部希望者は二人一組のペアで順番に部室に入ってくる。
入ってきたペアは、それぞれ異なるお題を告げられ、即興で演じていく。

「あなた方は運動部の先輩と後輩で、明日は大事な試合があります。明日の試合に向けてお互いに鼓舞してください。それでは、よーい、アクション!」

谷垣さんの合図と共に、エチュードが始まった。
しかし、入部希望者の女の子たちは戸惑っている。

「え、どうする?どっちが先輩やる?」
「えー、ミホがやってよ。私後輩するから」
「えー?私が先輩?てか、コブって何?昆布のこと?」
「何言ってんの?マジうける」

エチュードは始まっているはずなのに、演技がスタートしない。
谷垣さんの方を見ると、入部希望者の二人に厳しい視線を送っている。
普段は、ヘラヘラとしているが、演劇のこととなると真剣さが垣間見えるところは、やはり腐っても部長といったところだろうか。

「てか、今井君の前で演技するとか緊張するんですけど」
「やだ、見られてると思ったら恥ずかしい」
「何恥ずかしがってるんですか、先輩!」
「ちょ、やめてよ。急に」

演技とも言えない、何かよくわからないやり取りを見せられて、見ているこっちが恥ずかしくなる。
思わず目を背けると、今井君と目が合った。
今井君は、首を振った。
こんな女の子達に付きまとわれている今井君の苦労を少しだけ理解したような気がする。

このようなやり取りが2~3分程続けられた後、さすがに谷垣さんが止めに入った。

「カット。お疲れさまでした」

谷垣さんが止めた後も二人は笑いあって、やり取りを止めない。
先程のお互いの演技?について言い合っている様子だ。
私たちの白い目にようやく気が付き、谷垣さんに詰め寄る。

「それで?私たちは合格でしょ?」

この子が受かったんだから、とでも言うような私に冷たい視線を感じて、思わず目を逸らしてしまう。
谷垣さんの方を見ると、作り固められたような満面の笑みをしている。

「あなた方は不合格です。お気をつけてお帰りください」

そう言って、部室のドアを開けた。

「え?なんで?あんな子が受かってるのに!」
「審査の中身を説明する義務はございません。それに部員のことを悪く言うのはやめてください。次、白石さんのことを悪く言ったら、その時は―――――」

目じりに力が入り、笑みが深くなる。

「許しませんからね」

ぞっとした。
笑いながら怒る人なんて初めて見た。
怒鳴られるよりも寧ろ一番恐ろしい気がする。
この谷垣さんの圧力に怯んだ女子たちは、悲鳴を上げて足早に逃げていった。

「さあ、次の方、どうぞ」

並んでいる女子たちも完全に引いている。

「あれ?受けないんですか?入部試験」

女子の集団はお互いに顔を見合わせて、「どうする?」と相談し始めた。
その集団の奥から一人、モデル体型の女の子が手を挙げた。

「次は私がいくわ」

「唐沢マリンよ。モデルをやってるわ」

唐沢マリンは自信に満ち溢れた表情で言い放った。

「ほう、モデルですか。どこの雑誌のモデルか、差し支えなければ教えていただけますか?」

谷垣さんが質問する。

「私はインスタ専属モデルだから」
「インスタ専属?」
「そう。有名なカメラマンさんに撮ってもらってるの。結構、フォロワーもいるのよ」

私は咄嗟にインスタで検索する。
「唐沢マリン」
フォロワーは10万人を超えている。
水着姿の写真もちらほら見受けられる。

「芸能界入りした時に、演技ができると仕事の幅が広がるでしょ?」
「動機はわかりました。それでは、どなたかとペアを組んでいただけますか?」

唐沢マリンは、周りの女子を値踏みするように見ていく。

「駄目。どの子も私に釣り合わない」
「釣り合わない?」
「私は今井君とペアを組みたい」
「ほう。今井君とーーーーー」

私たちは一斉に今井君の方を見る。
このインスタモデル、唐沢マリンのお誘いにどんな反応を見せるのかという興味があったからに他ならない。
今井君は眉ひとつ動かさずに答える。

「お断りします」

今井君の返答にちょっとホッとした自分がいた。
私と今井君は一度演技をしただけの間柄。
だけどいつの間にか、彼を誰かに取られるのが恐ろしくなっている。
別に私のものではないのに。

「どうして?昨日はそこの女の子とやったんでしょ?」
「唐沢さん、言葉を選びましょうね」

谷垣さんが割って入って諭す。
言葉遣いだけは紳士だから説得力がある。

「第一に、僕はこの入部試験をパスしてる。第二に、昨日の入部試験をきっかけに妙な噂が広まってしまった。第三に・・・」
「もういい。わかった。男の人にこんなに拒絶されたのは初めての屈辱だわ。こんなお遊びサークル、こっちから願い下げよ!」

唐沢マリンはそう吐き散らして、部室から出て行った。
それを見た他の女子生徒も同様に、姿を消した。
あの唐沢マリンが駄目だったとなると、自分は無理だと悟ったのだろうか。

私たちは、誰もいなくなった廊下をしばらく見つめていた。
何だか、嵐が過ぎ去った後みたいな、意味を含んだ静けさがあった。
その静けさがどんな意味を持つのかをぼんやり考えていた。

「さて、と」

谷垣さんが部室のドアを閉めた音で我に帰る。

「改めまして、お二人には謝罪しないといけませんね。この度は、申し訳ございませんでした」

深々と頭を下げるその様は、反省の色が感じられた。
谷垣さんが勝手に動画を上げたことを許すつもりはないが、2個も歳上に頭を下げられていると、こちらも立つ背がない。

「ちょっと、谷垣さん!頭上げてくださいよ」

私の呼びかけに、谷垣さんは応じず、頭を下げたまま、続けた。

「あなた方、お2人には嫌な気持ちをさせてしまいました。金輪際、このようなことを致しません。これからは心を入れ替えて、健全な演劇サークルを運営して参ります」

誰かにこんなに真正面から謝罪されたことはないので居心地が悪くなった。
私は今井君に判断を委ねることにした。

「どうする?今井君・・・」

今井君は谷垣さんに近づいていき、谷垣さんの肩に手を置いた。

「僕はもう、怒ってはいません。ただ、あの動画で白石さんが傷つくようなことがあってはならないことです。でも、あなたはさっき、白石さんを守ってくれた。その気持ちがあるのであれば、今後、白石さんを傷つけるようなことはないでしょう。だから、僕はあなたを許します。白石さんが良ければ」
「わ、私は全然怒ってないです。あの動画を消してもらえたら。だから、頭を上げてください」

谷垣さんはゆっくりと頭を上げた。

「あなた方の優しさに感謝致します。もちろん、あの動画は消します」

そう言って、私たちの目の前でキスシーンの動画を消した。
これで一件落着。
と、思っていたのだが、平穏な日々はそう長くは続かなかった。

動画アップロード事件から1週間が過ぎた。
噂というものは一斉に広まるものだが、その熱が冷めるのも早いもので、あの動画の一件についてキャンパス内で話している人は見かけなくなった。
その代わりに、演劇サークルの悪評が広まっていた。

「ナナコ、大丈夫?演劇サークルの噂聞いたよ?」
「噂って?」
「演劇サークルではベッドシーンの演技もやるとか、女子は全員部長に抱かれてるだとか」

このように、根も葉もない噂が巷を賑わせていた。
噂の出どころは、唐沢マリンをはじめとする、あの動画を見て集まった元・入部希望者達だろう。

「それ、全部ガセだから」
「ガセって言ってもね。そんな噂が立つようなところに所属してたら、あんた学部で居場所なくすよ?」
「心配してくれてありがとう。でも、私はそんなガセ情報を信じて離れていくような人とサークルやめてまで仲良くする気はないから」

ユミが関心したような表情で私を見つめる。

「何よ」
「あんた、変わったね。昔は周りの目を気にしてばかりだったのに。なんというか、逞しくなった」
「まあ・・・ここ最近、色々あったからね」
「やっぱり、王子様が守ってくれるからかしら?」
「王子・・・様?」
「これもガセ情報かもしれないんだけど、あんたと今井君が手を繋いでキャンパス内を走っていくところを見たっていう噂を聞いたんだよね」
「え・・・」

あの時のことまで噂になっているとは誤算だった。
確かに、結構な人だかりを抜けてキャンパス内を駆け抜けていったから、知り合いに顔を見られていてもおかしくはない。

「そのリアクションからすると、この噂はガチってことかしら」
「ガチ、です」
「あんたも大胆ね。あの、引く手数多の御曹司、今井トウマと駆け落ちだなんてねえ」
「駆け落ちって、違う違う。それはガセ!」
「へぇー。どうだか」
「ホントだってば!」
「でも、気をつけなさいよ」

さっきまでからかっていたユミが真剣な表情になった。

「今井君のこと、ガチで狙ってる子も多いから。逆恨みを買わないようにね」
「だから、そういうんじゃ―――」
「そういうんじゃなくても、恨まれるのが、逆恨みだからね」

「じゃあ、今日はバイトだから」と走り去っていった後ろ姿を見送りながら、逆恨みなんて考え過ぎだという気持ちと、ちょっとだけ不安な気持ちがごちゃ混ぜになった頭をぶんぶんと振った。

今日から本格的な活動が始まる。
6月の定期公演に向けた、演目や配役の発表、そして稽古もスタートする。
本当かどうかもわからない噂話に振り回されている場合ではない。
これから定期公演の準備で忙しくなるんだ。
気持ちを切り替えて、旧サークル棟・アングラへの山道を登り始めた。

演劇サークルの部室には、谷垣さんと国枝さん、そして今井君が既に来ていた。
私が部室に入ると、待ってましたとばかりに谷垣さんが話を始めた。

「全員揃ったところで、定期公演の話を進めていきたいと思います」
「え、全員?」

驚きのあまり、思わず声が出てしまった。

「全員ですが?」
「いや、もっと他にメンバーがいるものかと」
「いろいろありましてね。先代の頃はもっと活気があったものですが、その世代の皆さんは引退して就活に専念されてますからね」
「じゃあ、こないだの入部試験のときに、もうちょっと合格させておいた方がよかったんじゃ・・・」
「それは私も思いましたよ。正直、チャンスだってね。ですが、蓋を開けてみたら今井君目当てのミーハー集団でしたからね。ああいう人たちはサークルを崩壊させかねません」

確かに、あの今井ファンクラブみたいな女子達が入ってきていたら、収拾がつかなくなりそうだ。
谷垣さんは続ける。

「白石さんが疑問に思うのも無理はありませんね。たった4人で演劇ができるものなのか、と思ってらっしゃる」
「正直に言えば、そうです」

ソファに座っている今井君が手を挙げる。

「実は僕もそう思っていました。このサークル、いつ来ても同じ人しかいないなあって。僕たちを含めて4人だけだったとは、知らなかったです」
「黙っていたわけではないんですけどね。でもまあ、演劇に興味がないっていうのも仕方ないんです。誰でも気軽に動画をアップロードして、お手軽にスターになれる。そんな時代ですからね」
「あんたが言うな」

国枝さんが口を挟んだ。

「この子たちのエチュードを勝手に撮影して勝手にアップロードしたのはどこのどなたですかぁ?」
「その件は、蒸し返さない約束ですよ、国枝さん」
「そんな約束してませんよ。私は死ぬまで蒸し返してやりますから」

国枝さんの言葉を無視して、谷垣さんは立ち上がり、部室の窓を開けた。

「この部室の窓から、ちょうど見えるんですよね。新サークル棟が」

私と今井君は窓の外をのぞき込む。
谷垣さんが指指す先、山の下、キャンパスのど真ん中に新築の建物がある。
ユミに連れられて一度だけ行ったことがあるが、どのサークルもパーティー状態で、少しいるだけでどっと疲れが出たため、それから近づいていない。

「あの新サークル棟の中にとあるサークルがありましてね。演劇サークルのメンバーはほとんど、そちらに移籍してしまいました」
「とあるサークル?」
「動画研究会です。演劇だけじゃなく、いろんな動画を撮影してYouTubeにアップロードしています。再生回数も伸びているらしくて、収益化も視野に入れて活動しているようです」

そんなサークルがあったとは知らなかった。
動画研究会ができたせいで、演劇サークルのメンバーは徐々に減り、谷垣さんと国枝さんが残った、ということだった。

「どうしてお二人は、この演劇サークルに残ったんですか?」
「先代の部長に譲り受けましたから。このサークルを守る義務が私にはあります」
「国枝さんは?」
「私は・・・動画研究会なんて気に食わないし。新サークル棟の人たちのノリがあんまり好きじゃないし。なにより―――――」
「なにより?」
「この馬鹿を監視することが私の役割だから」

そう言って国枝さんは谷垣さんの頭を叩く。
国枝さんはいつも谷垣さんに厳しい態度を取っているが、一人だけ残って谷垣さんを支えているのだとすると、こんなに心強いことはないはずだ。
そこには私たちには見えない、信頼関係があるはずだ。
なんだかいい関係だな、と二人を眺めながら思った。

「さて、本題に入りたいと思います。たった4人で演劇ができるのか、という問いに対する回答ですが、結論から言えば、できます。というか、やらなきゃいけません」

そう言うと谷垣さんは冊子のようなものを配り始めた。

「これは、私が書いた台本です。皆さんのキャラクターを最大限に活かしてあて書きしています」

冊子をめくると、私の名前がある。
役名は「白石ナナコ」と書いてある。

「私の役名、本名なんですけど」
「僕の方も・・・」

今井君の役名も「今井トウマ」となっている。

「演技はまだまだ初心者ですから、お二人にはご自分自身を演じてもらう」

自分自身を・・・演じる?

「どういうことですか?」
「まあ、普段通りでいいってことよ」
「普段通り・・・って言われても」

かえってそれが難しい気がする。
谷垣さんと国枝さんにはそれぞれ役名が振られている。
なんだか不公平な感じだ。

「不服そうですね、お二人とも」
「本名のまま演技をするのは、抵抗があるっていうか」

そう申し出たのは今井君だった。
今井ホールディングスの御曹司としてもてはやされている今井君にとって、その名前を背負って舞台に立つことがどういうことを意味するのか、計り知れないものがあった。

「確かに、あなたの場合は色々と事情があるかもしれません。しかし、これはあくまでもお芝居で、台本があり、台詞も決められています。あなたが個人の主義主張とは異なります、と本番当日にアナウンスすることにしましょう」

今井君も「それなら・・・」と納得した様子だった。
が、台本を読み進めていくと、今井君本人に関係するようなことが書かれていた。
「周囲からの好奇の目」であるとか「根も葉もない噂を立てられている」といった台詞は、今井君個人とリンクする内容だった。
私は心配になって、今井君の表情を伺う。
今井君は真剣に台本を読み進めている。

「もうお気づきでしょうが、この台本はあなた方二人の現状とリンクする部分があります。しかし、悪いように思わないでください。この芝居を演じきることが、お二人にとって必要なことだと、私は思うのです」

台本には、周囲から向けられている自分像を振り切って、殻を破り本当の自分をさらけ出して生きていく姿が描かれている。
確かに、これを演じることで、今井君の周りにいる取り巻きの女子達も、今井君自身も何かが変わる気がする。
また、私にもかなり重要な台詞が用意されていた。
物語の核となるような台詞だ。

「やります」

そう呟いたのは隣で台本を読み込んでいた今井君だった。
顔を上げてもう一度繰り返す。

「やらせてください」

その真剣な声に、台本を掴んでいる手に力が入る。
今井君はきっと、このお芝居に真剣に向き合って、自分を変えるつもりなんだ。
私も、変わりたい。
そう思って、この演劇サークルに来たんだ。

「私も・・・やります」

上擦った声が部室に響いて、自分でも思った以上に大きな声が出たことに驚いた。

そのようにして、谷垣さんが作った台本を元に、定期公演をすることになった演劇サークル一同は、台本を覚えたり、稽古をしたりと本格的な活動に取り組んでいった。
普段は何を考えているかわからない谷垣さんも、演劇となると目の色が変わった。
その日は、運動しやすい恰好で来るように指示があり、私たちはジャージで部室を訪れていた。

「まずは体力作りです。キャンパスからこの旧サークル棟までの山道を走り込みます」

そう言って谷垣さんは走り出した。
その後を今井君、国枝さんが着いていく。
私は最後尾で3人の後を追った。
山の上にある旧サークル棟をスタート地点として、キャンパスまで下りて折り返し、また旧サークル棟まで登るという道順だ。
中学高校と運動部に所属してこなかったため、こんな走り込み体育の授業以外ではやったことがない。
そのため、徐々に前を走る3人から離されていく。
山道を下っていくのは楽だと思っていたが、踏み出した脚に全体重がのしかかるため、結構しんどい。
なんとか国枝さんの背中が見えるか見えないかぐらいのペースを保って走っていたのだが、徐々に背中が見えない時間が増えてきて、ついに全く背中が見えなくなった。
あとちょっとでキャンパスまで抜けるんだから、もうちょっと頑張ろうと脚を踏み出したとき、踏み込んだ脚が滑り、その場で転倒してしまった。
前を走る3人とは距離があったため、私が転んだことには気付かなかったようだ。
私は右脚を摩った。

「痛っ」

どうやら転んだ時に軽く捻ったようだ。
右脚を庇いながら、立ち上がろうとするが、うまく力が入らず、立ち上がることができない。
普段全く運動していない、私がいけないんだ。
幼い頃から運動が苦手で体育の時間が苦痛で仕方なかった。
どうしてみんな足の速さを競っているのか、訳が分からなかった。
ただ、颯爽と走っている人達は私にはキラキラして見えた。
私には違う世界を生きている、あの人たちが羨ましくて、妬ましくて、そんなことを思ってしまう自分が嫌いで、目を逸らしてグラウンドの砂をいじってばかりいた。
あの頃から、私は何も変わっていない。
私はその場に蹲って、私が転んだ辺りの砂を恨めしく見つめて、深いため息をついた。

「白石さん、大丈夫ですか?」

顔を上げると、谷垣さん達がいた。
キャンパスから折り返して、登ってきたようだ。

「すみません、ちょっと転んじゃって」

こんな姿見られたら、演劇サークルを辞めさせられちゃうかもしれない。
小学校の時、人数合わせでリレーのメンバーに入れられたときもそうだった。
クラスの男子から、リレーのメンバーを外れるように言われたのだ。
あの時見たいに、私はメンバーから外されるんじゃないか。
そんな恐怖が私を襲った。

「どうやら、足をくじいてしまってるみたいですね。今井君、肩を貸してあげてください」

今井君は、すっと手を差し伸べてきて、私の肩を支えるようにしてぐっと体を引き上げた。
身体を支えられると、男性特有の力強さを感じる。
丹精な顔立ちと普段のスマートな佇まいとは打って変わって、意外と肩回りが筋肉質だった。

「大丈夫?」

今井君は私のすぐ耳元で優しい声をかけてくれる。

「うん」

私は泣きそうになるのを堪えながら、心配させまいと声を振り絞った。

「あれ?白石さん、泣いてる?」

前を歩く国枝さんが私の顔を覗き込んだ。
涙を堪えたつもりだったが、知らぬ間に溢れ出ていたのだ。

「いや、泣いてません」
「今井君、泣かせましたね?」
「え、僕は何も」
「やめなさいって」

谷垣さんが国枝さんに叩かれている。
二人のやり取りを見て、思わず吹き出してします。
私が笑ったので、安心したのか、二人はまた前を向いて坂道を上り始めた。
私は今井君に肩を貸してもらって、少しずつ歩いている。

「そんなに痛むの?足」

今井君が気にかけてくれる。
もう大学生だというのに人前で泣いてしまって恥ずかしくなってしまう。
だけど、こんなに優しくしてくれる人たちがいるんだ。
もう取り繕うのはやめにしよう。

「そうじゃなくて。みんながこんなに優しくしてくれるのが、嬉しくて。それで涙が出ちゃったんだ」
「・・・そっか」

今井君は私の言葉を噛みしめるように、虚空を見つめている。
肩を預けたまま、ゆっくりと坂道を登っていく。
今なら、なんだって喋れそうな気がする。

「小学校の頃から運動は苦手だったの。それなのに、リレーのメンバーに選ばれちゃって」
「それは、大変だ」
「私があんまり遅いから、クラスの声が大きい男子が、「白石を外してください」と先生にお願いしたの」
「それで、先生は何て言ったの?」
「先生は「一度決まったことだ。最後までやり抜きなさい」って言って、その申し出を断ったんだけど、あれはもしかすると私に言っていたのかもって、今になって思うんだ」

今井君は、それについて何かアドバイスをするでも考察をするでもなく、「そっか」と優しく受け止めてくれた。
こんな今井君だから、きっと私はこんな昔の話を喋ることができたのだ。

「多分、あのとき、あの男子よりも私のことを信じてなかったのは、私自身だったんだと思う。あのときから私は、自分を信じられなくなったのかも」
「自分を信じられない、か」

今井君はそれがどういう感覚が想像しているようだった。
きっと今井君の人生にはそんなことはなかったのかもしれない。
それでもこうやって、私の感情に寄り添ってくれるのが嬉しかった。

「あのときの私の周りに、こんなに優しい人たちがいたら、自分を信じることができたのかな、って思ったら涙が出てきちゃった」

今井君の肩に支えられながら、自分の胸に浮かんだ言葉、全てを話したらなんだかすっきりした。
喋り終えたのと同時に、開けた場所に出て、太陽の光が私たちを照り付けた。

「きっと」

今井君が呟いたので、今井君の方を見た。
雲を縫って、一筋の光が今井君の頬を照らし、キラキラと輝いて見えた。

「きっと、まだ遅くないよ。これから自分を信じられるようになれば、その日の自分も報われるはずだよ」

自然が生み出した天然のスポットライトが、今井君を照らしていて私は今井君から目を離せなくなった。
このときからかもしれない。
私にとって今井君が、かけがえのない存在になったのは。

脚の痛みが治まった頃、私は一人の時間にもランニングを始めることにした。
最初はどうしても苦手意識があったが、走っているうちに少しずつ慣れてきて、他の3人と同じペースで走れるようになった。
演技の稽古も順調に進んでいて、部室で台詞を合わせたり、発声の仕方や立ち位置、細かい所作まで谷垣さんが指導してくれた。

「最初に比べて大分声が出るようになりましたね」
「谷垣さんの指導のおかげです」
「連日の走り込みのせいかですよ。ランニングによって肺活量が増えて、自然と腹式呼吸ができるようになっています」

ランニングにはそんな効用があったとは知らなかった。

「当たり前のことですが、何を言っているか聞き取れなかったら、元も子もないですからね。お客さんは台詞を聞き逃すどころか、何て言ったのか気になって、その後の演技に集中できなくなります。ですから、発声というのは演劇のスタートラインです。まずはそのスタートラインに立った、といったところですね」

普段は変人としか思えない谷垣さんだが、演劇のことになると急に真面目なことを言う。
人にはいろいろな側面があるものだ、と改めて思う。
私が感心しているので、谷垣さんが尋ねてくる。

「どうかしましたか?」
「いや、演劇のことになると人が変わったようにまともなこと言うよな、と思いまして」
「なかなか酷いですね。そういうところ、国枝さんに似てきましたね」
「ありがとうございます」
「いや、褒めてませんけど」

どんな人でもいい面もあれば、悪い面もある。
どちらか一方だけ見ていても、その人の本質は見抜けない。
でも、演技をすることはもしかすると、そのどちらか一方の面だけを見せることなのかもしれない。
国枝さんが慌てて部室に飛び込んできたのは、私がそんな的外れなことを考えているときだった。

「どうしました、そんなに慌てて」
「見てないんですか?SNS」
「あの一件で、アカウントが炎上していましてね。いちいち相手するのも大変なので見ないようにしているんですよ」

炎上してSNSを見ないようにするような繊細な一面もあるんだな、なんてのんきなことを私は考えていた。
しかし、国枝さんの次の言葉に私も谷垣さんも凍り付いてしまった。

「『演劇サークルの定期公演を中止しろ。中止しなかったら旧サークル棟を爆破する』って投稿が拡散されてるの」

国枝さんはスマホの画面をこちらに見せた。
リツイート数は1000件を超えている。

「まさか・・・」

冗談めかしく呟いた谷垣さんの声が部室の隅に吸い込まれるようにして消えていった気がした。

「どうするんですか、これ」

谷垣さんに国枝さんが詰め寄る。
これにはさすがの谷垣さんも困った表情を見せる。

「とりあえず、落ち着いてください」
「これか落ち着いていられますか!このアングラが爆破されるかもしれないんですよ」

アングラーーーーー私たちがいるこの旧サークル棟のことだ。

「それは、許されることではありません。ですが、考えてもみてください。この爆破予告は愉快犯かもしれません」
「愉快犯だとしても、私たちは警戒しないといけないでしょ?」
「そうですね。お客さんはもちろんのこと、部員を守るのは私の使命ですから」

谷垣さんの毅然とした態度に、国枝さんも冷静さを取り戻した様子で、ソファに腰掛けた。

「だったら、今度の定期公演、中止にするしかないか」

国枝さんはポツリと呟いて、溜息を着いた。
谷垣さんは立ち上がって、部室の窓を開けた。
暗い空気が新しい空気に入れ替わるような気がした。

「諦めるのはまだ早いです」

カーテンレースが風に煽られて、谷垣さんの顔を隠した。

「こんな卑劣な行為に屈するわけにはいきません」

表情が見えないが、声色から察するに怒りを押し殺しているようだ。

「だけど、どうするのよ!」

国枝さんがまた詰め寄る。
怒ると敬語が抜けてしまうところに、2人の関係性が表れている。

「犯人を見つけて、爆破を食い止めます」

谷垣さんはカーテンレースを払い除けて、国枝さんをしっかりと見つめて言った。
いつになく力強い眼差しに、国枝さんは一瞬気圧されて、反論の勢いが削がれたようだった。国枝さんは少しトーンを落として反論を続けた。

「・・・どうやって?SNSの利用者が何万人いると思ってんの?」
「確かに不特定多数の中から爆弾魔を見つけ出すのは至難の業です。しかし、動機を考えれば自ずと犯人は絞られてくるはずです」
「動機?」

動機とか犯人とかさっきからサスペンスドラマみたいで、私は話について行くのに精一杯だった。

「犯人は演劇サークルに恨みを持つ人間で間違いないでしょう」

確かに恨みを持たない人間が爆破予告なんてしないはずだ。
国枝さんもこれには異論は無さそうだ。

「そして、この演劇サークルですが、正直言って放っておいても消滅するかもしれないような弱小サークルです」
「なんか聞いてて悲しくなるわ」
「こんなサークル、最近まで見向きもされなかった。つまり、恨みを買うどころか、誰も興味すら持たなかった。存在を知らない学生も多かったんじゃないでしょうか」
「よくもまあ堂々と言えるわね」

新サークル棟に動画研究会が設立されてから、演劇サークルの部員のほとんどはそっちに移籍してしまったという話は先日聞いたばかりだが、そんな風に言われるとだんだん不安になってくる。

「ところが、つい最近ある事件が起きた」
「事件を起こしたの間違いでしょ?」
「そう。この私が投稿したキスシーンの動画によって演劇サークルの知名度は一気に上がりました」
「炎上商法だけどね」
「そして、あの動画を見て、訪ねてきた人達がいますよね」

あの動画を見て訪ねてきた人達ーーーーー。
つまり、今井君目当てで演劇サークルの入部試験を受けた女子たちのことだ。

「あの時の入部志願者の中に、犯人がいると見て間違いないでしょう」

確かに恨みを持っているとすれば、あの中の誰かだろう。

「そして、あの中で一番怒りを露わにしていたのはーーーーー」

私はあの時の入部志願者達を思い浮かべる。
人数が多くて一人ひとりのことはよく思い出せないが、あの中で一際目立っていた女子のことが頭から離れない。

「唐沢マリンでしょう」

谷垣さんはこちらを指差しながら言うので、私が思い浮かべた人を言い当てられたかのようでドキッとしてしまう。
谷垣さんの芝居がかった言い回しに、飲まれてしまったが、国枝さんが手を叩いたことで、カットがかかったように、緊迫した雰囲気が和らぐ。

「それで?その唐沢って子だっていう確証はないんでしょ?」
「確証はありません。ただ私はあの中では唐沢さんが一番怪しいと思っています。捨て台詞を吐いて帰りましたからね。演劇の世界ではああいう人は必ずもう一度出てくるものです」

そういうものなのか、と思って聞いていたが、すぐに国枝さんが否定する。

「その謎理論は知らないけど、確証が無いんじゃどうしようもないじゃない」
「ですから、我々で確証を掴むんです」
「どうやって?」
「まずは、情報収集です。唐沢さんは白石さんと同級生ですね?」
「はい。・・・でも、学部も違うし、面識もありませんよ?」

力にはなれそうもないことを素直に伝えるが、谷垣さんはなんてことないような顔で答える。

「大丈夫です。あれだけ目立つ方ですから、いろんな情報が転がっているはずです。まずは白石さんに基本的な情報を集めてもらいます」
「ちょっと、そんなこと白石さんにさせて大丈夫なの?危険な目に遭ったらしたらどうするの?」
「危険な目には遭わないように尽くすつもりです。でも、白石さん、基本的な情報だけで結構です。危ないところには決して首を突っ込まないように」
「・・・はい」
「ちょっと、白石さんも!断っていいのよ?
こんな確証もないこと、全部この人の妄想なんだから」

私は少し考えてから立ち上がり、国枝さんを見つめた。
すごく心配そうな顔をしている。

「唐沢マリンがどういう人物なのか、それだけでいいんですよね?」
「結構です」
「だったら・・・」
「いや、もし、この馬鹿が言ってることが本当だったら爆破予告の犯人かもしれないのよ?そんな子の情報を集めてるなんて知られたらどうなるか・・・」

私は国枝さんを心配させまいと、笑顔を作る。

「私、やります!」
「でも・・・」
「この演劇サークルに入って、ずっと私は足を引っ張ってきました。でも、やっと皆さんの役に立てるんだって思ったら、私、嬉しくって」

谷垣さんは、少し驚いた表情の国枝さんの肩に手を置いて言った。

「さすが白石さん。肝が据わってます」
「じゃあ、私、早速行ってきます」
「どこに?」
「そういう情報にやたら詳しい友達がいるんです。その子のところに」
「くれぐれもこの件は内密にお願いしますね」

わかりました、と部室を飛び出した私の背中を谷垣さんの声が追いかける。

「今井君にも、まだ内緒で」
「え?」

虚をつかれた私は立ち止まって振り返った。

「爆破予告のことはいずれ彼にも知れることでしょうが、犯人が唐沢カレンかもしれないと我々が疑っていることはまだ内緒の方向で」
「どうして・・・ですか?」
「うーん・・・説明は難しいですが、彼、ああ見えてこないだの一件、気にしているみたいなんですよ。自分の取り巻きの女子達がサークルに迷惑かけたとでも思っているんでしょうか。唐沢カレンが犯人かもしれないと知ったら、彼は危険を承知で彼女と接触するでしょうね」

私がサークルの役に立ちたいと思っている以上に、今井君はサークルにこれ以上迷惑をかけたくないと思っているのかもしれない。

旧サークル棟・アングラから駆け出した私は、高校からの友人、ユミの元へ向かった。
この日、ユミはバイトだったため、バイト先に向かうことにした。
キャンパスへ続く下り坂を転がるように走って行く。
脚を挫いてしまったあの日とは別人のように、軽やかに走っている自分に驚く。
意識しなくても身体が勝手に私を前へ前へ運んでくれる。
小学校の頃の自分が今の私を見たら、もうちょっと希望を持って毎日を過ごせるだろう。

下り坂でついた勢いのまま、一気にキャンパスを駆け抜けて行く。
行き交う人達なんてもう気にならない。
私は今、この瞬間が大事なのだ。
演劇サークルがピンチだと言うのに、今この時を楽しんでいる自分がいることに気がつく。
緩んでしまう頬をキュッと引き締めて、走る。
それでも、じわじわと笑みが溢れてしまう。


ーーーーー私は今、物語の真ん中にいる。

そんな気がした。
今までの私は、教室の隅でいるのかいないのか分からないように身を潜めていた。
誰かに頼られるようなことはなく、私に何かを期待する人などいなかった。
いや、一番私に期待してなかったのは自分自身だった。

でも、今は違う。
私に期待してくれる人がいる。
私を守ってくれてる人がいる。
それが嬉しかった。
そうやって、ようやく気がついた。
私も、期待していいんだ、自分に。

「いらっしゃいませー、ってどうしたの?」

ユミは大学の近くにある小さな喫茶店で働いていた。
私がバタバタっと入ってきたものだから、驚いているようだ。

「聞いて・・・ユミ・・・あのね」
「ちょっと、ストップ!そこ座って!水持ってくるから」

ユミがキッチンの方へ下がったので私は言われた通り、席に座った。
そこで私は喫茶店で大きな声を出してしまったことに気がついて急に恥ずかしくなる。
辺りを見回すが、お客さんは一人だけだった。
白髪の老人が隅の席で一人読書をしていた。
私の視線に気がつくと、顔を上げてにっこりと微笑んでまた読書に戻った。

「おまたせ」
「あ、ユミ!あの・・・」
「とりあえず水飲む!話はそれから!」

言われた通りに、ユミが持ってきた水を飲み干した。

「汗もすごいよ?ほら、おしぼり」
「ありがと」

私はちらっと老人の方を気にしてから、おしぼりで顔を拭いた。
ユミは私の向かいの席に腰を下ろした。

「バイト、大丈夫だった?」
「暇だったから休憩もらっちゃった。ってかいきなり飛び込んで来てそういう心配はするのね」
「ごめん・・・」

なんだか、自分の世界に入り込んでしまって、周りが見えていなかったようだ。
ユミの事情も考えずにここまで来てしまった。

「まあ、あんたがパニックになってる理由は大抵想像がつくわ」

ユミは触っていたスマホをこちら側に向けて言った。
そこには『演劇サークルの定期公演を中止しろ。中止しなかったら旧サークル棟を爆破する』という投稿が表示されている。

話が早くて助かる。
さすがは情報通といったところだろうか。

「そうなの。このままじゃ、アングラが爆破されちゃう・・・」
「待て待て。まだ本当に爆破されると決まったわけじゃないでしょ」
「そうだけど・・・」
「っていうか、そもそも定期公演を中止するってわけにはいかないわけ?」
「それは・・・」

演劇サークルのメンバー達の顔が浮かぶ。
谷垣さん、国枝さん、そして今井君。
みんなでここまで一緒に稽古してきたんだ。
一緒に走って汗を流して、発声練習もした。
細かい演技指導もしてもらった。
今更、それを無しにするわけにはいかない。
それに、どうして私たちが引き下がらなきゃいけないんだ。
こんな得体も知れない爆破予告に屈するわけにはいかない。

「それでも私は、定期公演をやりたい」
「本気?」
「本気・・・」

ユミはふぅとため息をついて、括っていた髪を解いた。
長い黒髪が解き放たれて、シャンプーの香りが漂う。

「ナナコ、本当変わったね」
「え?」
「本気で打ち込めるものが見つかったみたいでよかった」

ユミは本心で喜んでいるようだったが、どこか寂しげな表情をしている。
手に持ったシュシュを弄びながら続けた。

「ナナコと私は似てると思ってた」
「え?全然、真逆じゃん」
「まあ・・・ぱっと見は真逆だけど。本当にやりたいことが見つからないってところは一緒」
「でも、ユミはサークル掛け持ちしてて、バイトも行ってて、むしろやりたいことだらけなんじゃないの?」
「いいや。本当にやりたいことがないから、とりあえず体動かしてるだけ。それでも、何も見つからなかった。だから、あんたが羨ましいよ」
「え?」

誰かから羨ましがられる日が来るなんて思いもしなかった。
それも、あんなに活発なユミに言われるなんて。

「よし。わかった。私も協力する。あんたが初めて本気でやりたいと思ったんだ。これは親友としてほっとけないよ」

親友。
何の気無しに言った言葉かもしれないが、私には特別な言葉に思えた。
ユミがそう思ってくれていたことが、ただただ嬉しかった。

「ありがとう!ユミ」
「当然よ。困ったときはお互い様ってね。それで、私はどうすればいいわけ?」

そこでようやく本題に入った。
ここまで走ってきた割りには、なかなか本題に入らず、回り道ばかりだったが、私たちにとってはとても大切な時間となった。
私は、ユミに唐沢マリンの情報を調べて欲しいとお願いした。

「唐沢マリンね・・・。確かにいい噂は聞かないけど。この子が怪しいってわけ?」
「あんまり・・・詳しいことは言えないんだけど、とにかくその子のことでわかることを教えてほしいの」

私は、谷垣さんから「この件は内密に」と釘を刺されたことを思い出した。
「この件」というのはどこからどこまでのことなのかわからなかったが、とりあえず、どうして唐沢マリンを疑っているのかは伏せておくことにした。

「そういえば、テニサーの新歓コンパのときにいたよ、唐沢マリン」
「え?喋ったりした?」
「いや、私なんて相手にされてなかったな。男の先輩達に囲まれてチヤホヤされてたわ」

鼻の下を伸ばしていろいろ質問している男達の姿は容易に想像ができた。
いつ、どこにいても話題の中心、人気者といったイメージだ。
そんな子が爆破予告なんてしたって何の特にもならない気がしてきた。
ただ、私はユミの言葉に引っかかりを覚えていた。

「さっき言ってた、いい噂は聞かないって話、他にも何か知ってるの?」
「ああ、これはあくまでも噂なんだけど」

と前置きをしてから、ユミは話し始めた。

「あの子モテるからさ。何人かいるんだって」
「彼氏?」
「いや、彼氏はいないらしい。その代わり、兵隊がいるって噂」
「兵隊?」
「そう。まあ、あり得ないんだけどさ」

ユミによると、唐沢マリンは男達をその気にさせるだけさせておいて、付き合うことはしないが、突き放すこともせず、いい距離感を保ち続けているらしい。
そして、何か自分にとって不都合なことや不快なことがあると、その男達に頼んで処理してもらっているそうだ。

「処理って?」
「まあ、いろんな噂があるけどさ。高校のとき、唐沢マリンに説教した教師がいたらしいんだけど、その数日後には退職したんだって。あと、唐沢マリンが好きだった男子と付き合い始めた女子も、数日後には転校することになったりとかね。理由ははっきりしてないんだけど、とにかく唐沢マリンの周りにはそんなことがよく起こるらしい」

唐沢マリンが何か裏で糸を引いているとしか考えられない。
退職や転校に比べれば、定期公演を中止するということが簡単なことに思えてきた。
もし、定期公演を開演してしまったら、本当に爆破しかねない気がしてきた。

「まあ、どれも信憑性は低いけどさ。でも、こんな噂がたってる子には、極力近づかない方が得策だね」

極力近づかない、というのはもう手遅れかもしれない。
というか、あちらから現れたのだから仕方がないが、あんな風に怒らせるべきではなかったのだろうが、今になって後悔しても遅い。

「もし、仮にだけど、その唐沢マリンが今回の爆破予告の首謀者だとしたら」
「確実にするだろうね、爆破」
「どうしよう・・・」

ユミは手に持っていたシュシュを使って、また髪を結び直し始めた。
後ろで一つに結ばれた黒髪を揺らしながら、立ち上がった。

「ま、あんまり思い詰めたって仕方ないよ。あんたに出来ることは限られてるんだから」
「限られてる?」
「定期公演を中止にするか」
「それはやだ」
「それか、唐沢マリンにお願いして、爆破を止めてもらうか」

そんなこと、できるんだろうか。
今までの話を聞くと、話して通じるような相手ではない気がする。
そんなことができるのは、多分、今井君だけだ。

ユミのバイト先の喫茶店から旧サークル棟・アングラへ戻る道中、私は唐沢マリンのことを考えていた。
気に入らない人がいたら嫌がらせをする人の気持ちが私には理解できない。
もし仮に、今回の事件が唐沢マリンの仕業じゃないとしても、犯人がどうして爆破予告なんかしたのか、一生理解することはできないかもしれない。
どうして、人が努力して積み上げてきたものを平然と壊すことができるのか。
そう考えると怒りよりも先に、疑問が浮かんだ。

そんなことをして、一体何になるんだろう。

世の中には、人が転んでるのを見て笑う人たちがいる。
私はそういう人たちを見て、何がそんなに面白いのか、疑問に思う。
転んだ人がいたら、手を差し伸べて「大丈夫ですか?」と声をかけることが私にとっての普通だ。
だけど、ある種類の人たちは転んだ人を見て笑う。
それどころか、次は誰を転ばせようか、どうやって転ばせようか、などと企むことすらある。
もしかしたら、唐沢マリンはこの手の人種なのかもしれない。
私がキャンパスの裏山で転んだとき、唐沢マリンならきっと笑っていたと思う。
でも、演劇サークルのみんなは、今井君は、私に手を差し伸べてくれた。
きっと違う人種なんだ。
そう思わないと理解することができない。

そんなことを考えて歩いていたら、気がつくと裏山を登り終えていて、旧サークル棟・アングラの前まで着いていた。
古びた雑居ビルのような佇まいも見慣れてしまった。
恐る恐る訪ねて来たのは、ついこないだのことなのに、もうかなり昔のことのように思える。
私が変わるきっかけをくれた、このアングラを爆破するなんてありえない。
何としても爆破を食い止めないといけない。
相手が違う人種だとかそんなことは関係ない。
駄目なものは駄目なんだ。
その当たり前のことが罷り通らないのなら、きっと世の中の方がおかしい。

「おかえりなさい。収穫はありましたか?」

部室に戻ると谷垣さんが珍しくパソコンに向かっている。

「はい。とりあえず、唐沢マリンがどんな人なのかは何となく・・・」
「その様子だと、あんまり良い話ではなさそうですね」
「なんだか聞いてて嫌な気持ちになりました。ところで国枝さんは?」
「ああ、彼女もいろいろ手を尽くしてみるって出て行きましたよ。私はここを離れるわけにはいきませんから、部室に残ってパソコンで情報収集です」

ちらっと見えたパソコンの画面には、ビキニを着た女性の画像が映し出されている。
やっぱり、この人ーーーーー

「変態だ、なんて思ってませんか?」
「え?あ、いや」
「これ、唐沢マリンのインスタグラムですよ。私なりにいろいろ調べていたんですが、それにしてもけしからん身体してますよ」

やっぱり変態だ。
私は一歩だけ谷垣さんから離れた。

私はユミから聞いた唐沢マリンの情報を谷垣さんに伝えた。
唐沢マリンの噂、気に入らない人がいたら彼女の周りにいる男達にお願いして処分してもらぅているという話だ。
谷垣さんは顎に手を当てて考えるような仕草をしてから意見を言った。

「そうなると、事態は余計ややこしくなりますね。実行犯と主犯格が別にいるわけですから、爆破予告した人物を捕まえたとしてもまた何かしらの手段を講じて我々に危害を加えるでしょうね」
「主犯格の唐沢マリンをどうにかするしかないってことでしょうか」
「そうできれば一番いいんですけどね。唐沢マリンが主犯であるという証拠がないわけですから、どうにもしようがないですね」

ーーーーー証拠。
確かにそんなものは存在しない。
唐沢マリンが怪しいってことも私達の憶測に過ぎない。
全く関係ない、第三者の仕業ということだってあるんだ。

「まあ、でも。白石さんの情報のおかげで、唐沢マリンの疑惑は深まりました。ありがとうございます」

谷垣さんはそう言って頭を下げるが、私は困惑していた。
疑惑が深まって、感謝されるのってあんまり気持ち良いものではない。
谷垣さんが頭を上げて、再びパソコンの画面を見て、何かに気がついた様子だ。

「おや?」
「どうしたんですか?」
「これを」

谷垣さんはノートパソコンの画面をこちらに向けてきた。
唐沢マリンがたった今投稿したらしい。
『いきなりだけど、5分後にライブ配信しま〜す!』
間伸びした文字がいかにも唐沢マリンらしい。

「これはチャンスかもしれませんね」
「え?」
「とりあえず、参加しましょう」

数分後にライブ配信が開始されて、私達は谷垣さんの持っている裏アカで参加した。
画面に唐沢マリンがアップで映し出される。
甘ったるい声を出しながら、アイス食べたいとか授業めんどくさいとか、他愛もない話をしている。
こんな配信誰が見るんだろうと思っていたが、5分もすれば20人近くの視聴者がついていた。
ライブ配信のことはよくわからないが、素人の大学生がいきなり配信を始めたにしては多い方なのかもしれない。

私の横でつまらなそうに配信を眺めていた谷垣さんがあることに気がついた。

「これ、投げ銭機能ありますね」
「投げ銭?」
「ほら、たまにコメントに色がついているでしょう?その下に¥200と表示されています。これは視聴者から唐沢マリンへお金を渡していることになるんです」

配信でお金のやり取りが発生していることを私は知らなかった。
今までSNSなんかに興味がなかったため、少し感心してしまう。

「投げ銭、してみましょう」
「へ?」
「まずは1,000円から。これで何か情報が掴めるかもしれません」

そんなことで上手くいくんだろうか。
爆破予告の主犯格と疑っている相手にお金を渡すのって、敵に塩を送るようなもので何だかおかしい気がした。

「投げ銭して爆破予告犯である証拠を掴む質問をするってことですか?」

私の質問に、谷垣さんはわざとらしく指を振った。

「違いますよ。そんなことをすれば真っ先に疑われます。そして、気がつくはず。我々が不穏な動きをしていることに。そうすれば、次の手を打ってくるかもしれません。そんな凡ミスは避けたいですね」
「じゃあ、なんでーーーーー」
「信頼を得るには、相手が欲しがっているものを与えることです。お金と承認欲求、この2つを満たして、信頼を獲得します。話はそこからです」

『初見です!応援してます!! ¥1,000』

「まずはこれぐらいから行ってみましょうか」

私たちは配信を見つめる。
唐沢マリンがコメントに気がついたようだ。
一瞬、眉が動いて、その後すっと口角が上がった。

「初見さん、応援ありがとう。人が集まってきたからもうちょっと続けようかしら」

谷垣さんの投げ銭に機嫌を良くしたようだ。
口数が増えてきた。
主に自分が大学でどれだけモテているかの自慢だ。

「テニスサークルに入ったんだけど、私のコートに人が集まって、もう、困っちゃうわ」

実際は全く困っていないはずだ。
見ていて嫌な気分になってきた。
しかし、谷垣さんは目を光らせる。

「ここです」

『マリンさんが綺麗過ぎて集まるのはわかるけど、マリンさんを困らせるのは許せない!¥1,000』

谷垣さんのコメントを見て、私は薄寒くなった。

「正気ですか?」
「相手が欲する言葉をかけてやることが大事です。唐沢マリンは承認欲求の塊ですから、このようなコメント、大好物のはずです」
「いや、これはさすがにやり過ぎのような・・・」

私の心配を余所に、唐沢マリンは機嫌良くコメントを読み上げた。

「私を困らせるのは許せないかぁ。ありがとうね。こういう方は頼り甲斐がありそう」

谷垣さんはすかさずコメントを打ち込んだ。

『なんでも頼ってください!僕はマリンさんの味方ですから¥1,000』

これで三千円だ。
バイト暮らしの大学生にとっては結構な金額だ。
こんなことして、何も得られなかったら、三千円溝に捨てるどころか、爆破予告してる張本人にお金が渡ることになるかもしれない。

「そろそろ・・・」

と、私が谷垣を止めようとしたときだった。
配信とは別の通知音が鳴った。

「来ました」

唐沢マリンからダイレクトメッセージが届いた。

『この後、鍵付きで配信をするのでよかったら』

そのメッセージにURL、パスワードが添えられていた。
谷垣さんの笑みが深くなる。

「ここからが本番です」

どっちが悪いことしてるのか、わからなくなって私はゾッとした。

ライブ配信が終わってしばらくすると、鍵付きの配信の方がスタートした。
先程とは打って変わって、唐沢マリンは素に近いような喋り方をしている。

「はぁ・・・なんか疲れたんだけど」

こちらは5人ほどの視聴者が既にいて、唐沢マリンの一挙手一投足にコメントを欠かさない。

『お疲れ様~♪』
『水分摂ってね!』
『火曜日はちょっと講義が過密過ぎる気がする』

鍵付きということもあり、先程とはコメントの質も違うようだ。

「今日は新入りさんをこっちに連れてきたよ」

『新入り?』
『おめ』
『俺は見ていた。初見で3千円なんてなかなか見どころがあるじゃないか』
『あまりここの人数を増やさない方がいい気が』
『古参アピおつ』
『秘密は少人数で共有するから秘密になりうるわけで…』

私たちが鍵付きの配信に入ってきたことに対して、波紋が広がっている。
「秘密」というワードが引っ掛かる。
それって、爆破予告のこと?

「谷垣さん、もしかして、この鍵付きの配信って…」
「そうですね。ここで爆破予告の計画が練られているのかもしれません。ですが、まだ確証が得られていません。油断せずに、慎重にコメントをしていきましょう」

『お初です。初見ですが、よろしくです』

当たり障りのない、かといって堅苦しくもないコメントだ。
それに対して、何件か反応のコメントがあったが、すぐに流れていった。
とりあえず、この鍵付き配信に溶け込んだ、といったところか。

「なんか最近、インスタの反応が良くないんだよねー。みんな拡散してくれてんの?」

『もちろん!』
『サブ垢でも拡散してる!』
『マリン様の美しさを理解できない奴らは時代に置いて行かれて消えていくから気にすることはない』

「まあいいわ。ちゃんと拡散しといてね。それから、こないだのカメラマンだけど、注文多すぎるから他の人に変えたいな」

『確かに!カメラマンは変えるべき』
『あいつは下品な角度から撮り過ぎだ』
『良ければ、カメラ歴10年のおいらが撮りますよ』
『抜け駆けはNGだぞ』

話題はインスタでやってるモデル活動のことになった。
鍵付きの配信っていうから、もうちょっとダークな話なのかと思ったが、意外とまともなのかもしれない。
そう思ったときだった。

「そういえば、あいつらどうなった?」

唐沢マリンが急に話題を変えた。
―――あいつらどうなった?
これだけで通じる話がある、ということだろうか。

『絶対ビビってると思う』
『誰か様子見に行ってないの?』
『あんなとこ、行くの面倒』
『俺の情報によると、かなり狼狽えている模様。アングラから走って出ていく女の姿が目撃されている』

アングラ、という言葉が出てきてドキッとする。
谷垣さんが目配せをしてくる。

『定期公演は中止だな』
『計画通り』
『爆破予告されちゃ、仕方ない』
『また俺達の勝利、だな』

その時、バン、という音がした。
唐沢マリンが手を叩いた音だということに少しして気が付いた。

「ぬるい。ぜんっぜん、ぬるいわ!私は、あいつらが泣いて謝る姿が見たいの!そして、今井トウマ。あの男も絶対振り向かせてやるんだから」

『振り向かせる?』
『付き合うってこと?』

「振り向かせて、私無しじゃ生きていけない身体にして、それであっけなく振るの。そのときの絶望した顔、見てみたいなぁ」

唐沢マリンはうっとりと微笑み、いつの間にか手に持っていた赤ワインのグラスを傾ける。

その後は唐沢マリンを褒め称えるコメントが相次いだ。
私は見ていられなくなって、目を逸らした。
同じ気持ちだったのだろう、谷垣さんはその配信から退出した。
私達は顔を見合わせて、深い溜息をついた。

「想像以上にヤバかったですね」
「でも、これで確証が得られました。主犯格は唐沢マリンです」
「主犯格は分かりましたけど、かなり厄介じゃないですか?もし、定期公演を中止にしたとしても、それだけじゃ満足できないようだし」
「彼女は我々が泣いて謝る姿が見たいようですね。それに今井君に特別な感情を抱いている」

特別な感情ーーーーー
それは恋愛感情なんて生優しいものではなく、嫉妬や怨みや憎しみが絡み合ったどす黒い感情のような気がした。
唐沢マリンに対する恐怖とは別に、どうしてそこまでして誰かを陥れようとするのかという疑問が浮かんでいた。
気がつくと私はその疑問を谷垣さんにぶつけていた。

「どうして、爆破予告とか、誰かを陥れるようなことができるんでしょうか」

谷垣さんは、私の問いに対して少し考えるような様子で、窓の外を眺めた。
そして、悲しそうに言った。

「きっと、愛されるべき人に愛されなかったんでしょうね」

愛されるべき人に愛されなかった。
それが何を意味しているのか、私にはすぐに飲み込むことができなかった。
私がそれについて考えていると、谷垣さんはノートパソコンをパタンと閉じた。

「だとしても、許されるべきではありません。私は唐沢マリンと正々堂々戦うことに決めました」

どこかで聞いたことがある言い回しだと思ったら、選手宣誓みたいだなと思い当たった。
それぐらい、私にとって正々堂々戦うなんて言葉は他人事のように聞こえた。

「戦うって、一体どうやって・・・?」
「もちろん暴力!」
「暴力?」
「・・・は使いません。私、この通り、喧嘩弱いですから」

谷垣は屁っ放り腰でシャドーボクシングの真似をしてみせた。
確かに弱そうだ。

「かと言って、警察に突き出すにしても、唐沢マリンが主犯格であるという証拠を得るのは難しいでしょう。一応、先程の配信を録画してはいますが、直接的な物証として扱われるかは怪しいところです」

ちゃっかり録画しているところが谷垣さんらしいと思った。

「そこで、私にできること、と言ったらーーーーー」

谷垣さんはソファの上にかけられたブランケットをマントのように被った。
ソファの上に立ち上がり、ブランケットを棚引かせながら言った。

「演劇です!演劇の力で唐沢マリンを改心させてみせます」

そんなこと出来るのだろうか。
甚だ疑問だったが、ブランケットのマントを棚引かせて高笑いをしている谷垣さんを見ていたら、そんな心配をしている自分が馬鹿らしく感じられた。

私は家に帰る途中、ずっと唐沢マリンのことを考えていた。
愛されるべき人に愛されなかった、そういった谷垣さんの言葉がループする。
それって一体、どんなに辛いことだろう。
山道を下る途中、着信があった。
スマホの画面には、今井トウマと映し出されていた。
今井君から電話があるのは初めてで、驚いて一瞬画面を見つめていたが、切れる前に出ないといけないと思い、慌てて出た。

「ごめん、遅くに」
「ううん、サークルの帰りだったから大丈夫。今井君、今日はサークルに来なかったね」
「ああ、家の用事でちょっとね。それより、あの投稿だけど」

あの投稿、爆破予告のことだ。
やっぱり、今井君も気づいていたんだ。

「俺はやるべきだと思う、定期公演」
「うん」
「白石さんさえ、よければだけど」
「ここまでみんなでやってきたんだから、私も、諦めたくない」
「そうだよな」
「谷垣さんは演劇の力で戦うって言ってた」
「演劇の力でか」

今井くんは電話越しで笑った。
耳元に今井君の笑い声が響く。

「あの人らしいな。でも、そんなことができたら愉快だな」

愉快。
そう言われて、演劇の力で唐沢マリンを改心させるところを想像する。
それは確かに愉快かもしれない。
今井君はその愉快を噛み締めている余韻があった。
私はさっきまで考えていたことをぶつけることにした。

「愛されるべき人に愛されないって・・・どんな気持ちかな」
「え?」

突然、私が言ったから今井君は聞き返した。

「いや、ごめん、急に」

返事はない。
が、無視しているというわけではなく何か考えているような沈黙だった。
そして、しばらくの沈黙の後、今井君が答えた。

「俺はそんな気持ち、分かるかもしれない」
「え?」

次に聞き返したのは私の方だった。

「俺は親に愛されていなかった。というより、親が俺のことを見てくれてなかったんだ。それが悲しくて、寂しくて仕方なかった。もうこのままじゃ、無理だって時に親父が」

その時、電話の向こうで今井君が呼ばれる声がした。

「あ、ごめん。明日はサークルに行くからまた明日」

私の返事も待たずに電話は切られてしまった。
だけど、また明日会える。
それだけで、私の心の中は熱くなった。

今井君が言おうとしたことの真意はわからない。
だけど、またいつかその話を聞かせてくれるだろう。
今井君はきっと、愛されるべき人に愛されなかったことを乗り越えた人なんだ。
そんな今井君だったらきっと、あの唐沢マリンにも対抗できるはずだ。
そんな期待を胸に、坂道を下っていった。

次の日、講義を終えて部室に行くと、既に全員揃っていた。
唐沢マリンのことで話し合いをしている様子は無さそうだ。

「白石さん、待ってましたよ」

谷垣さんがそう言って冊子を手渡してくる。

「えっと、これは?」
「新しい台本です」
「新しい台本?」

焦って手渡された台本を落としかける。
こないだようやく台詞を覚えたばかりだっていうのに台本が変わるの?

「え?どういうことですか?」
「演劇の力で、爆弾魔と戦うためですよ」

谷垣さんは本気の様子だ。
よく見ると目の下にクマができている。
もしかして、徹夜でこの台本を書いたのだろうか。

「私は止めたんだけどさ、どうしても描き直したいっていうから」

そう言ってフォローする国枝さんの目の下にもうっすらクマが見える。
きっと台本作りを手伝っていたのだろう。

「白石さん、あなたが良ければこっちの台本で行きたいんですけど」

急に選択を迫られて戸惑い、今井君の方を見る。
台本から顔を上げて、今井君は頷いた。
今井君はOKしたということだろうか。

「とりあえず、台本を読ませてください」

台本に目を通してからじゃないと判断ができない。
そんな言い訳をしながら、自分が判断するための時間稼ぎをしていた。
このタイミングで台本が変わって、台詞入れられるかな、でも谷垣さんが徹夜してまで作ったんだからきっと良いものに違いない、でも演劇の力で戦うってどういう意味なんだろう、と思考がぐるぐる回りながら、とにかく台本に目を通していった。
そして、台本を読み終わる頃、思わず声が漏れた。

「え、これって・・・」
「はい。今の私たちの状況を投影した形になっています」
「こんなの犯人が観たら逆上するような」
「正直、一か八かですが、この作品で戦いたいと思っています。我々演劇サークルはどんな卑劣な行為にも屈さない、ということを示したいのです」
「でも・・・」

もう一度、今井を見る。
今度は台本に目を落としていて、目が合わない。
唐沢マリンが逆上したら何をするかわからないんだ。
それこそ、アングラの爆破もあり得る。
演劇サークルの定期公演は毎年、アングラ5階にある舞台で行われるらしい。
爆破なんてされたら、私達はもちろん、お客さんだって無事じゃ済まない。

「必ず、皆さんの安全は確保します。もし、仮に爆破が起きても大丈夫なように」

爆破が起きても大丈夫な人間なんていない。
また谷垣さんのハッタリだろうか。
でも、その目の奥に真剣さが感じられる。
もう一度、台本を読む。
台詞の節々に、谷垣さんの思いが込められている。
何より、最後の長台詞、これが決まればもしかしたら、唐沢マリンでも気持ちが変わるかもしれない。
そう思うと、この台本に込められたメッセージをお客さんに、そして唐沢マリンに届けたいという気持ちが強くなってきた。
私はじっくりと考えた上で答えた。

「やります。この台本の力を見せつけたいです」
「台本の力じゃなくて、演劇の力です。その為には、全員が力を合わせる必要があります。この4人が力を合わせればーーーーー」

谷垣さんは私、国枝さん、今井君の順番に視線を送る。

「爆弾魔なんて敵じゃありませんよ」

清々しくほどに理由のない自信に満ち溢れた言葉に私達は勇気づけられた。

こうして私達は、新しい台本を元に稽古を始めた。
爆破予告があってから、私達4人の結束はより強まったように感じる。
定期公演に向けた熱がますまず高まっているのだから皮肉なものだ。
とにかくまず台詞を覚えないといけない。
私以外の3人は、早々に台詞を覚えた。
今井君は長台詞があるのに、さらっと台詞を覚えてしまった。
やっぱり今井君には演劇の才能があるらしい。
それに比べて私は才能がないのかもしれない。

「焦らないでくださいね。台詞を覚えるのが早かろうが遅かろうが、公演当日ちゃんとお芝居ができれば、お客さんにはそんなことわかりませんから」

谷垣さんの言葉を胸に、毎日台本に向き合った。
台詞を覚えるために、いつも台本を持ち歩き、暇があると台詞を呟いた。
食堂でカレーライスを食べながら台詞を暗記しているところに、ユミがやってきた。

「あんた最近ぶつぶつ言ってるけど大丈夫?爆破予告されて精神病んじゃった?」
「違うよ。台詞覚えてるの?」
「台詞?」

ユミが台本に目をやる。
ふうん、と納得した様子で向かいの席に座った。

「結局やるんだ、定期公演」
「あんなのに屈したくないから」

新しい台本が配られた帰り道、今井君が言っていたことを思いだした。

「脅されて相手の要求に一度でも従ったら、それからずっと同じことが続くんだ。こいつは脅せば言いなりになるって相手に思われたら、一生そいつの要求に従わないといけない。だから、定期公演は絶対に成功させなきゃいけないんだ」

今井君は静かに、でも目の奥に強い想いを宿らせて言った。
私はその隣で静かに頷くことしかできなかったが、今井君と同じ思いだった。
私が険しい顔をしていたからだろうか、ユミは突然私の頬を抓った。

「痛っ・・・!なにすんのよ!」
「あんたの気持ちは何となくわかるけどさ。ちょっと力入り過ぎじゃない?」

ユミは「隙あり!」と言って、私のカレーライスを一口食べた。
変わらない友人の姿に、私は肩の力が抜ける気がした。
カレーライスを食べながらユミは言った。

「演劇のことはよくわかんないけどさ、そんな怖い顔してお芝居してるのなんて、誰も観たくないよ。少なくとも私は」

ユミに言われてハッとした。
爆破予告があってから、稽古に対していつも以上に熱を注いできた。
しかしそれは、純粋にお芝居に向かっていくというよりは、唐沢マリンに負けたくないという気持ちの方が強かったかもしれない。
そんな気持ちでやるお芝居なんて誰も観たくないだろう。
ユミの言う通りだ。

「ユミ、ありがとう」
「あんたは考え過ぎちゃうところあるから、たまには私に相談しなさいよ」

ご馳走様と言ってユミは足早に立ち去った。
その後ろ姿を眺めながら、もう一度「ありがとう」と呟いた。
カレーライスの方に目を下すと、お肉が無くなっていた。
他人のカレーライスのお肉を全部食べてしまうところがユミらしい。
私は溜息をついた後に、噴き出してしまった。

この日は演劇サークルの活動が休みだった。
爆破予告があったり、台本が変わったりと色んな事が目まぐるしく起きた上に、ノンストップで稽古を続けてきた。
一日休みましょうと提案したのは谷垣さんだった。

「不思議なもんで、ちょっと寝かせた方が味が出ることもあります」

と、谷垣さんは言った。
きっと演劇に慣れない私に気を使って休みにしてくれたのだろう。
その後、国枝さんから「カレーの話?」と突っ込まれていて、恰好つかなかったが、そういうところも谷垣さんらしさだ。
台詞を覚えきれていない私にとっては、休みと言われて何もしないわけにもいかず、ひとりで台詞を暗記する時間に充てることにした。
ただ、ひとりで台本をぶつぶつと呟いていると、周りから変な目で見られてしまう。
私は行き場を失い、結局、旧サークル棟・アングラに足を向けた。

サークルが休みの日でも部室に来るなんて、いつの間にか私の生活の中心は演劇サークルになっていることに気が付いた。
入学当初は、やりたいこともなく、ユミ以外に友達と呼べる友達もいなくて不安だったのに、今は居場所がある。
やるべきことがある。
それが私には嬉しかった。
爆破予告も、台本が変わったことも、初めての定期公演も、不安だけどそれ以上に強いやりがいを感じていた。
演劇サークルみんなとならきっと、成功する。
そのためにも早く台詞を覚えないと。

そんなことを考えていたら、気が付くと部室の前まで来ていた。
部室のドアに手をかける。
が、ドアに鍵がかかっていた。

「え、嘘」

部室が開いてないなんて冗談だと思って、ガチャガチャとドアノブを回す。
しかし、ドアは開かない。
いつ行っても部室には谷垣さんが居て、しょうもないことを言って国枝さんに怒られて、最近は今井君も二人のやり取りを見て笑うようになった。
その部室に誰もいないってだけで、なんだか寂しくなった。
そりゃそうだ、今日は休みなんだから部室も閉まっているはずだ。
でも、私は心のどこかで、谷垣さんは部室にいるものだと期待していたのだ。

私は深くため息をついて、部室の前にしゃがみこんだ。
ここに来るまでに登ってきた坂道をまた下らないといけない、っていう物理的な徒労感もあるけど、それ以上に、自分にとって演劇サークルが無くてはならない存在になっているんだということに気が付いた。
もし、演劇サークルが無くなっちゃったら、私、どこに行けばいいんだろう。
ふいに後ろから声をかけられたのは、そんなことを考えているときだった。

「・・・白石さん?」

振り返ると今井君が立っていた。

「え、今井君?」

今井君は台本を片手に持っている。

「台詞、自信ないとこあってさ」

今井君は照れ隠しに頭を掻いた。
完璧だと思ってたけど、可愛いところもあるんだ、って少し思った。

「私も」

右手に握っていた台本を見せる。

「同じだね」
「ううん、今井君はほとんど完璧じゃん」
「そんなことないよ。初めての演劇でこれでも緊張してるんだ」
「ほんと?」
「本当だって。じゃなきゃ休みの日に部室に来ないよ」

緊張していることを堂々と言い切っているのがなんだか可笑しくって私は笑ってしまった。
そんな私を見て、今井君も笑った。
私以外のメンバーはみんな完璧だと思っていたから、「同じ」だと言われたことが私は嬉しかった。
ひとしきり笑い合ったあとで、今井君が私に聞いてきた。

「で、部室に入ってないってことはもしかして」
「閉まってるみたい」
「マジか・・・」

今井君はハァとため息が漏らして、首を垂れた。
さっきの私と同じだけど、こういう気持ちも共有できる人がいるだけで大分楽に感じた。

「2人して部室の前で何やってんだろうね」
「確かに」

乾いた笑いがアングラの廊下に響く。
その時、何気なく視線を廊下の奥にやった今井君があることに気が付いた。

「あれ、奥の扉、開いてる?」

今井君が指差した先は、かつて講堂と呼ばれていた部屋だ。
私達はまだ入ったことはないが、定期公演はこの部屋で行われると聞いている。
その講堂の扉が少しだけ開いている。
その扉の隙間から何か飛び出してくるような不気味な気配が漂っている。
今井君が扉の方に向かって歩き出したので、私も少し後ろをついて行った。
今井君はゆっくりと扉を開けた。

「誰か・・・いるんですか?」

真っ暗な部屋に今井君の声だけが響く。
今井君が扉を開き切ると、廊下の明かりが差し込んで、だんだんと部屋の中が見えてきた。
講堂は思ったより広く、奥に舞台がある。
高校の体育館を小さくしたような部屋だ。

「白石さんはここに居て」

今井君はそう言い残して、講堂の中に入って行った。
手に持ったスマートフォンを懐中電灯代わりにして部屋の中を照らしていく。

「気をつけてね」

今井君に言われた通り、外で待っていることにした。
こういう時、1人にされるのもなんだか不安だ。
ただでさえ幽霊が出ると噂のあるアングラだ。
しかも、今爆破予告までされてるんだから、爆弾魔が潜んでいる可能性だってある。
今井君の身になにかあったらどうしよう。
そんな不安を余所に、5分程経って、今井君が戻ってきた。

「誰もいないみたいだ。どっかのサークルが使ったまま、鍵を閉め忘れたのかもしれないな」
「そっか」

そっと胸を撫で下ろす。
今井君が何かを閃いたような表情をした。

「せっかくだからここで台詞合わせする?」
「え、ここで?」

私は講堂の奥に目を凝らす。
まだ何か居るような気がして仕方がない。

「大丈夫だよ」

今井君は私の手をとって、講堂の中に入っていく。
真っ暗な講堂にスマートフォンのか細い明かりが心許ない。
講堂の真ん中辺りで、今井君はスマートフォンを床に起き、鞄から取り出したレジ袋を上から被せた。
そうすると、スマートフォンの灯りが拡散されて、部屋の中が仄かに明るくなった。

「どう?これで台本読めるでしょ?」
「うん。こんなやり方、よく知ってるね」
「昔、キャンプで父さんに教わったんだ」

今井君のお父さん、すなわち今井ホールディングスの社長がキャンプでこんな豆知識を披露している姿が思い描けなかった。
私はふと思ったことを今井君にぶつけた。

「っていうか、電気は?つけないの?」
「利用許可取ってないからね。電気つけたら守衛が飛んでくるだろうね。それにーーーーー」
「それに?」
「この方が雰囲気出るだろ?」

確かに、と改めて周りを見る。
真っ暗な講堂に灯った明かりは、私達をぼんやりと照らして、影を作った。
夜の講堂に2人きり、何だか悪いことしてる気分だ。

私達はスマートフォンで作った簡単な照明を挟むようにして、講堂の真ん中に座った。
私と今井君の掛け合いの部分の台詞を読み合わせていく。
何回かやっているうちに、いつの間にか今井君は台本を置いて、私の目を見てお芝居をするようになった。
まだ、覚えきれているか不安だったけど、それに釣られる形で私も今井君の目を見てお芝居をした。
そうすると、自然と台詞が口をついて出る。
台詞を思い出すというよりは、今井君の台詞が呼び水となって、口からこぼれ落ちていく感覚に近いかもしれない。
演技なんだけど自分の言葉として発言しているような不思議な感覚だ。
私と今井君の長い掛け合いのパートが終わる。
ふっと、私に戻る。

「言えた」

ずっと覚えることが出来なかったら台詞を台本を見ずに言い切ることができた嬉しさが口をついて出た。
今井君も嬉しそうに、頷いてくれた。

「白石さんならきっとできるって思ってた」
「ありがとう。今井君が本気でお芝居してるから引っ張られちゃった」
「ここでーーーーー」

今井君は、講堂の舞台の方を見つめている。

「ここで演るんだよな、俺達」
「・・・うん」
「お客さんが何人来るか、どんな反響があるか、想像できないけど・・・これだけは自信を持って言える」
「なに?」
「この公演は俺達にとって、かけがえのないお芝居になる」

今井君はそう言い切った。
仄かな明かりに照らされた今井君の横顔は、何だか少年みたいに思えた。

翌日、部室に行くと谷垣さんが発表があると言い出した。
また、何か企んでいるのだろうか。
せっかく、台本を覚えたばかりだというのに、また台詞が変更されたら困る。
谷垣さんは全員が揃うのを待ってから、口火を切った。

「今回の定期公演ですが・・・やはり、安全面に考慮して、お客さんは入れないことにしました」
「え?ってことは・・・」
「無観客・・・?」

谷垣さん以外の全員の頭にハテナマークが浮かんだ。
お客さんがいない状態で、演劇をやる意味とは一体なんだろうか。
それは稽古と変わらないのでは・・・?
みんなの頭に浮かんだ疑問を今井君が代表してぶつけてくれる。

「それってやっぱり、爆破予告があったからですか?」
「そういうことです。私達はともかく、お客さんまで危険な目に合わせるわけにはいかないですから」
「でも、お客さんには観てもらいたいです」

谷垣さんは待ってましたとばかりに立ち上がった。

「そこで、今回はーーーーーライブ配信と致します!」

ライブ配信?
唐沢マリンがやっていた配信を思い出して少し嫌な気持ちになる。
そこで、国枝さんが口を挟んだ。

「そんなの、素人にできるもんなの?知識もないし機材もないし・・・」

国枝さんのツッコミに対しても、谷垣さんは不適に笑みを浮かべるばかりだ。
こういうときの谷垣さんはちょっと気持ち悪いが、誰にも止められない無敵感を感じる。

「うちの大学には、動画撮影やライブ配信に関するスペシャリスト集団がいます」

そんな集団いたっけ?と頭を傾げていると、谷垣さんが徐にカーテンを開け放った。
窓の向こうに見えるのは新サークル棟だ。

「動画サークル?」
「そう。そして、彼らは演劇サークルの部長であるこの私に負い目を感じている」
「負い目?」

私のその問いかけには国枝さんが答えてくれた。

「みんないきなり辞めちゃったからね。この人には合わせる顔がないのよ」
「そういうことです。それで昨日、動画サークルに交渉に行ったところ、すんなり快諾していただきました」

谷垣さんはそう言って、「誓約書」と書かれた紙をテーブルの上に置いた。
『甲は乙に対して、下記の事由につき、全面的に協力することをここに制約するものとする』
それっぽいことが書かれてはいるものの、要するに、「定期公演の時に、機材一式と撮影スタッフを寄越せ」ということだ。
かなり横暴な書類だが、しっかりと映像サークルの部長名義でサインされている。
一体、どんな取引が行われたのか、想像するだけでもおぞましい。

「と、いうわけで、動画サークルの全面協力の下、定期公演はライブ配信と致します」

谷垣さんにそう言われても、すぐには飲み込めずに反応に困ってしまう。
他の2人も同様に黙り、ライブ配信について考えている様子だった。
そんな雰囲気を察してか、谷垣さんが続けた。

「確かに、舞台演劇の良さは、その場に居合わせた人のみが味わえる空気感、一体感です。ライブ配信ではこういった演劇本来の良さが損なわれてしまいます」
「そうです。そこに一番こだわっていたのはあなたでしょ?」

付き合いが長い国枝さんが返した。

「はい。今でもこだわりは捨てたくありません。こだわりを捨ててしまうなら、やらなくていいんじゃないか、そう考えた時もありました」

爆破予告があってから、谷垣さんなりに悩んでいたのだ。
演劇サークルの部長として、定期公演をやるかいなか、そこにのしかかる責任や重圧は、もしかしたら私達には計り知れないものなのかもしれない。

「でも今回は・・・悪意を持って私達を妨害しようとしている人がいる。そんなこと許されるはずがありません。そこで一つ、私は爆弾魔と戦ってみようと、そう思ったわけです」
「戦う?」
「そう。もちろん、演劇の力で」
「演劇の力・・・」

谷垣さんが最近繰り返し言っている言葉だ。

「定期公演を通常通り開催した場合、おそらく犯人は現れません。本当に爆破するつもりなら、会場には現れず、少し離れたところから爆破の様子を確認するでしょう」

確かに、会場に来てしまったら、爆破に巻き込まれる恐れがある。

「それでは、犯人に演劇を観せることはできませんよね。そうなると、我々がわざわざ台本を変えてまで稽古をしている意味がなくなります」
「確かに」

思わず口をついて出てしまった。
私の様子を見て、谷垣さんはふっと笑って、続けた。

「定期公演がライブ配信になると、どうでしょうか。犯人は変わらず、会場から少し離れたところに潜伏するでしょうが、それと同時にライブ配信も観るんじゃないでしょうか?」
「何のために?」
「爆破が起きて、私達が慌てふためく姿を見たいからです」

主犯の唐沢マリンは、「私達が泣いて謝る姿を見たい」とはっきりと言っていた。

「そして、これは私の推測ですが・・・爆破は、クライマックスのシーンで起きると思います」
「どうして、そう思うんですか?」

今井君が質問した。
今井君は、犯人が唐沢マリンだということを知らない。

「定期公演をやめさせることが目的だったら、開演直後を狙うんじゃないでしょうか?」
「犯人の目的が公演をやめさせることだったら、そうですね。ですが、犯人の目的は別にあります。おそらくは私達への復讐。そうなると、1番いいところで爆破を実行するというのが心情なんじゃないでしょうか?」

今井君は今ひとつ納得がいってなさそうだったが、唐沢マリンの性格を考えると、なんとなく想像できる。

「でも、クライマックスで爆破されたら、逃げようがないんじゃないですか?」
「もちろん、それについても秘策を用意しています」

そして、稽古や宣伝活動など、バタバタとしているうちに、定期公演の当日となった。
19時の開演時間に合わせて私達は、動画サークルの部室にいた。
演劇サークルの部室と違って、部屋の中は綺麗で、まだ新築の匂いがする気がした。
動画撮影用のビデオカメラや三脚、音響機器が整然と並べられている。

「いやぁ~、恩に着ますよ。部室まで使わせてもらって」

谷垣さんが動画サークルの人に御礼を言う。

「できる限りのことはさせてもらったからな。後は好きにしてくれ。俺たちはこれ以上関わらないからな」

そう言って、動画サークルの人達は部室から出ていった。
谷垣さんがどういう条件で動画サークルの人達を動かしたのかはわからないが、なんだか早く解放されたい、といった様子が見えた。
動画サークルの部室に取り残された私達、演劇サークルの4人は、パソコンのモニターを囲む形で見つめていた。

「思いのほか、閲覧人数が伸びていますね」

開演まであと5分というところで、視聴者数が2000人を超えている。
これは唐沢マリンのライブ配信の視聴者数の比ではない。
どんなマジックが起きたのだろうか。

「例のSNSの炎上騒ぎと爆破予告が注目を集めているんでしょうね。きっとまだまだ増えますよ」

谷垣さんの言う通り、ものの数分で3000人を突破した。

「さあ、開演まで残り2分です」

谷垣さんが満を持して、といった面持ちで言い放ったが、私たちはパソコンのモニターの前から動かない。
これが、谷垣さんの言うところの「秘策」である。

「なんだかんだ言って、本当に爆破されてしまっては、私達も危険ですからね」

「秘策」とは、ライブ配信を装った、事前収録の配信のことだ。
つまり、アングラの講堂で事前にお芝居をしたものを撮影し、それをあたかも生放送であるかのように見せかける、ということだ。
万が一、配信中に爆破されたとしても、私たちは新サークル棟にいるので、安全が確保されている、という寸法だ。
これから自分の演技が3000人もの人達に向けて、配信されると考えただけで、手の中に汗が滲む。

「どう?初めてのお芝居は?・・・緊張した?」
「緊張しましたよ!撮影だからってミスは許されませんし・・・今から配信されるって考えただけでまた緊張してきました」
「そうよね。私も初めて舞台に立ったときはそんな感じだったなぁ」

国枝さんは、初舞台に緊張している私に対して、懐かしそうに目を細める。

「さあ、お二人とも、お喋りはそれぐらいにしましょう。開演しますよ」

谷垣さんのその言葉を待っていたかのように、モニターに映し出された講堂の幕が開いた。

いよいよライブ配信が始まった。
演劇サークル 定期公演『アングラ』と書かれた横断幕がステージの後ろの壁に貼り付けられている。
物語は、探偵事務所でバイトをしている今井君が、大学で巻き起こる様々な事件を解決していくというもの。
小さな事件をいくつか解決した後、このお芝居の核になる事件と相対することになる。
その事件こそ、旧・サークル棟アングラの爆破予告事件である。
つまり、この脚本を仕立て上げた谷垣さんの狙いは、実際に起きているアングラの爆破予告をお芝居に落とし込むことだ。

「あの爆破予告をお芝居の演出に使うなんて、今でも信じられない」

国枝さんがそう漏らしたのに私も同意した。
ライブ配信の中では、リアルタイムで演劇に対するリアクションが投稿されていく。
爆破予告の件が流れた時、視聴者達はどんな反応を示すのだろうか。
それを考えただけで、胃がキリキリと痛む。

「観ている人の気持ちを逆撫でしないか心配だ」

パソコンの画面を見つめている今井君がそう呟いた。
私達の不安を察したのか、谷垣さんが宥めるように言った。

「撮影は終わっているんですから、今から何かを変えることはできません。それに、今井君の今日のお芝居はとても良かったですよ。感情が乗っていました」
「実際に爆破予告をされているんですから、感情が入るのも当たり前ですよ。あれは演技というより、素の感情に近いです」
「いいんですよ、それで。お芝居は複雑な感情をいかに表現するかが大切ですが、その感情は全くのゼロから生まれるものではありません。どんな役者さんでも自分の中にある素の感情を上手く操っているに過ぎないのです」

2人が話しているうちにも、画面の中のお芝居は進んでいく。
そして、お芝居は爆破予告事件に突入する。

『これって・・・』
『爆破・・・予告・・・?』

今井君の隣で驚いている演技をしている自分自身を観て、つい目を逸らしてしまう。
我ながら、下手な芝居だ。
目を逸らした先に、谷垣さんと視線が合ってしまう。
谷垣さんはニコッと笑って親指を突き立てた。

「良いお芝居ですよ、白石さん」
「やめてください」

谷垣さんのからかいを振り払うように、パソコンの画面に向き直った。
その時、ライブ配信のコメント欄に多くのコメントが寄せられた。

『もしかして、あの爆破予告って演劇サークルの自作自演だったの?』
『演出だとしても不謹慎過ぎるだろ』
『これは許せん』
『金返せ』
『↑金は払ってない。が、時間は返してほしい』

そんなコメントと共に、視聴者がどんどん減っていった。

「これって・・・」
「毎度おなじみ炎上商法ですね」

谷垣さんは「はっはっは」と高笑いした。

爆破予告の話に入ってから視聴者は減っていき、今まさに300人を切ろうとしている。
ほとんどの視聴者が本当に爆破されるかもしれないという興味本位で観ていたということがよくわかる。

「まあ想定の範囲内です。ここで観るのをやめる人達は、元々私達の演劇には興味ないですからね」
「でも、また問題になるんじゃ・・・」
「そうよ!ただでさえ、キャンパス内での評判悪いんだから」

国枝さんが私に加勢する形で、谷垣さんを責める。
しかし、谷垣さんはきょとんとした顔でこちらを見ている。

「他人の評判なんて気にしない人達だと思っていましたが・・・私の見立て違いでしたか?」

他人の評判が気にならないといえば嘘になる。
でも、演劇サークルに入ってから、他人の目や噂なんてちっぽけなものだの思えるようになったのも確かだ。
私と国枝さんが黙っていると、今度は今井君が口を開いた。

「僕はいつも誰かに値踏みされて生きてきました。今井ホールディングスの息子として、あいつはどうだ、出来がいいのかどうかとか、他人の評判は嫌でも耳に入ってきました。僕はそれが嫌で、自分以外の何者かになりたくて、このサークルに入りました」

今井君の入部の理由を初めて聞いた。
いつもみんなに注目されている今井君だが、本人にとってはそれが負担になっていたのだ。
パソコンの画面に映るお芝居を見つめながら、今井君は続ける。

「でも、今回のお芝居で気付きました。自分以外の誰かになろうなんて、それは自分の運命から逃げてるだけだって。僕が本当にやるべきことは、他の誰でもない、今井トウマとしての自分を示すことなんだって」

そう言って、右手をぎゅっと握った。

「きっと届きますよ、その気持ち。少なくともここにいるメンバーには届いてますから」

谷垣さんはそう言って今井君の肩をぽんと叩いた。
初めてのお芝居で主演を演じたのだ。
その重圧が肩に乗っていたのかもしれない。
谷垣さんもう一度軽く叩くと、今井君の肩がすっと軽くなるように見えた。

谷垣さんは仕切り直しとばかりに手を叩いた。

「さて。お喋りはこの辺にしましょうか。そろそろ、犯人も動き出す頃でしょうから」

そう言って、スマートフォンを取り出してパソコンの横に並べた。

「これは・・・?」
「ライブ配信です。まあ、裏番組とでも言いましょうか」

スマートフォンの画面に映し出された唐沢マリンが、つまらなそうにパソコンのモニターを眺めている。

『ていうか、爆破予告ネタにしてんじゃん。こいつらマジ腹立つ〜。もう爆破しちゃおっかな〜』

気怠そうにそう呟くと、即座に何人かがコメントを寄せる。

『賛成!こいつらは我々を愚弄している!』
『こんな屈辱・・・初めてだぜ』
『爆破だ、爆破!』

「何ですか、これ・・・」

驚きの声を発したのは今井君だった。
唐沢マリンが犯人であることを今井君にだけ伏せていたんだった。

「今回の事件の黒幕ですよ」

今井君は動揺した様子で、唐沢マリンの配信を見ていた。

「唐沢・・・マリン・・・?」

今井君がスマートフォンの画面を見て驚いている。

「実は以前から彼女が怪しいと思っていて、尻尾を掴んでいたのですが、あなたに伝えるのはどうしても憚られていました」
「どうして・・・」
「唐沢マリンが演劇サークルに現れた目的はあなたと芝居をするためでした。それを断ったことを彼女は根に持っていたようです。唐沢マリンが犯人だとあなたに伝えると、あなたはきっと必要以上に自分を責めることになるでしょう」
「それは・・・」

言いかけてぐっと飲み込んだ。
きっと谷垣さんの言う通り、自分に非があると思っているのだろう。

「そうなると、お芝居にも余計な力が入って、うまくいかなくなる。それどころか、あなたは1人で解決しようとして、唐沢マリンに接触するかもしれない」

今井君はそれについてしばらく考えたあと、答えた。

「確かに、彼女を説得していたでしょうね。それのどこが悪いんですか?」
「直接会って彼女を説得するのは危険です。刺激すると何をしてくるかわかりません。それに、私達を人質にとって、あなたに不利な条件を飲ませるかもしれない」

2人が話しているうちに、お芝居は佳境を迎えた。
アングラがついに爆破する、というシーンだ。

「2人とも、言い争ってる場合じゃないよ。これ、見て!」

国枝さんがスマホの画面を指差して、皆の視線がそちらに集中する。

「じゃあ、そろそろ爆破ボタンを押しま〜す」

唐沢マリンの手元にクイズの回答ボタンのような、真っ赤なボタンが用意されている。

『爆破しちゃえ!』
『本当に爆破したらこいつらビビるだろうな』
『ビビる間のなく木っ端微塵よ』
『カレン様に歯向かう奴はこうなる運命なんだよ』

そして、スマホの画面の中の唐沢マリンがカウントダウンを始める。

「10・・・9・・・8ーーーーー」

「このままだとアングラが爆破されますよ!」

今井君が谷垣さんに詰め寄る。
谷垣さんは平然とスマホの画面を見つめている。

「7・・・6・・・5・・・4」

「何とも思わないんですか?」
「もう遅いですよ、今から何かしようとしても」
「そんな・・・」


「3・・・2・・・1。どーーん!」

唐沢マリンが真っ赤なボタンを押した。
その数秒後、アングラの方からドン!と音がした。
机の上に置かれたパソコンの画面では、何事もなかったかのようにお芝居が続けられている。
スマホの画面の方は爆破ボタンを押して高揚している唐沢マリンが映し出されている。
まだ、ライブ配信が続いていることに気がついていないようだ。

「くそっ・・・」

今井君が声を漏らした。

私達は動画サークルの部室で俯いていた。
その間も絶えず、旧サークル棟・アングラの方向から爆発音が聞こえる。

ドン・・・パァン・・・ドン・・・パァン・・・

最初に違和感に気がついたのは国枝さんだった。

「・・・ん?」

国枝さんは俯いていた顔を上げて、窓際へ駆け寄る。
そして、勢いよくカーテンを開けた。
窓の外を見て、私は目を疑った。

今井君がまだ顔を伏せていることに気づいて、呼びかける。

「今井君!外!窓の外見て!」

私の呼び掛けに今井君はゆっくり顔を上げる。
暗かった顔にじんわりと喜びが滲む。

「なんだこれ・・・」

思わず笑いが溢れたのと同時に、涙が目尻に溜まる。

窓の外、アングラの方角に花火が上がっている。
そんなに大きいものではないが、しっかりとした打ち上げ花火だ。

「これは何?あんたまだ何か隠してたの?」

国枝さんに詰められて、谷垣さんが照れ隠しなのか、頬を掻きながら答える。

「昼間、アングラの周りを散歩していたら、起爆装置のようなものを発見したので、解体して代わりに花火を設置していたんですけど・・・うまく打ち上がりました」
「なにそれ・・・あんた全部私たちに黙って・・・!」

国枝さんはずんずんずんと谷垣さんの方に向かっていき、飛びかかった。

「ちょ・・・」

飛んだ勢いで倒れかかる形になり、それを谷垣さんが受け止める。

「・・・最高じゃん!」

国枝さんはそう呟くと、力強く谷垣さんを抱きしめた。

「ちょっと、国枝さん!苦しいですって」
「もっと苦しめてやる!」
「これ以上は・・・!本当に死にますから!お二人も見てないで止めてください!」

苦しいと言う割に楽しそうだったので、そのままにしておくことにした。
それよりも、この花火をもうちょっと見ていたい、そんな気持ちになっていた。

「綺麗だね」

隣で今井君が呟いた。
今井君の横顔は花火に照らされていて、さっき零れ落ちた涙の痕を浮かび上がらせた。
花火に照らされたアングラは七色に光り、夜に突如浮かび上がった城のようにも思えた。

「うん。なんだか夢みたい」
「俺、ほんとに爆発したと思ったよ・・・。谷垣さんだけには敵わないな」

今井君はくしゃっと笑って、頭を掻いた。
そして、谷垣さん達の方に振り返り、頭を下げた。

「部長、すみませんでした。何も知らないのに、偉そうなこと言って」

その言葉に反応して、国枝さんが拘束を解いた。
ようやく解放されたとばかりに、苦しそうに咳をした後に、谷垣さんが答える。

「別に、謝ることはありません。黙っていたこちらにも非がありますし。それに・・・嬉しかったですから」
「嬉しかった?」
「あなたが・・・そして、白石さん、国枝さんが心からアングラを大事に思ってるっていう気持ちが伝わりました。それが私には嬉しかったんです」

谷垣さんの言葉を噛みしめるように3人とも黙った。
多くの部員が演劇サークルを去って、動画サークルに移籍したという。
その人達の大半は、アングラにこれといった思い入れがなかったのだろう。
少なくとも谷垣さんには、それが感じられなかったのだと思う。

私達がなんだかしんみりとしていると、谷垣さんは空気を変えるためか、手を叩いた。

「皆さん!これにてめでたし、めでたし〜じゃありませんよ」
「え?」
「こちらをご覧ください」

スマートフォンの画面をこちらに向ける。
唐沢マリンのライブ配信だ。

「はぁ?なんでこいつら普通に演技続けてんの?」

私達の演劇配信がまだ続いていることに気づいたようだ。

『爆発音は聞こえたが・・・』
『誰かキャンパスにいないのか?』
『誰だよ爆弾仕掛けたの』
『今食堂にいるけどなんか花火上がってる』

「花火・・・!?」

唐沢マリンはハッとした様子で、窓のある方に駆け寄り、カーテンを開けて夜の空を確認する。
窓の方を向いているため、顔色はわからないが、何で花火が上がっているか理解できないという疑問が段々と怒りに変わるような空気が画面越しにも伝わる。

『誰だよ、爆弾仕掛けたやつ』
『ネットの繋がりなんてのは所詮こんなもん』
『俺は確かに爆弾を仕掛けたぞ』
『嘘乙』
『どうせ、爆弾仕掛けたとか言ってマリン様に気に入られられようとしただけだろ』
『証拠はあんのかね?』

唐沢マリンのライブ配信のコメント欄も荒れ始めた。
今まで一枚岩に見えた集まりも、こうして見れば烏合の衆だ。
常に誰か標的を見つけて袋叩きにする。
それが仲間であっても。
自分が標的にされないように必死で誰かを叩いている。


『してやられた』
『言い訳かよ』
『爆弾男マジ無能』
『もう俺は抜けるけど最後にお前らに教えとくわ。演劇サークルにはめちゃくちゃ頭のキレる谷垣ってのがいるんだ。多分そいつにやられた』
『谷垣?』
『誰だよ急に』
『嘘乙』
『だから証拠は?』

その時だった。
配信画面の向こうから破裂音がした。
画面の奥の方で鏡が割れている。

「あいつら・・・許さない・・・」

唐沢マリンはそう言い残して部屋の外へ出て行ってしまった。
配信者がいなくなって、残された視聴者は突然の状況に動揺しながらも罵り合いを続けている。

「さて、ここからが本番です」

谷垣さんの言葉に、私は我に帰る。
何か全く別の世界を見ていたような気分だ。
谷垣さんは続ける。

「私達も行きましょう」
「行くって、どこに?」
「決まってるでしょう?私達の城、アングラですよ」
「行ってどうするのよ?」

国枝さんが食い下がる。

「唐沢マリンは私達が生配信でお芝居をしていると勘違いしている。だとしたら、今向かっているところはアングラ4階の講堂です。急に入り込んでお芝居を台無しにするつもりでしょうね」
「だから、そんなヤバい奴のところにノコノコと出て行って、どうするって言うのよ?」
「舞台は整いました。あとはうちの主演俳優に頑張ってもらうことにします」

谷垣さんはそう言って今井君を指差した。

「いけますね?」

今井君は黙って頷いた。

私達はアングラへの道を急いだ。
坂道を抜けたところで、アングラに入っていく女性の後ろ姿を見つけたので、こちらの存在がバレないように、音を立てずにアングラに入っていく。
階段を登り切ったところで、講堂の電気が点いていることを確認。
谷垣さんは黙って頷いて、今井君を促した。
今井君が勢いよく講堂の扉を開けると、想定通り、唐沢マリンがそこにいた。

「やっぱり、君が犯人だったんだね」
「・・・なんで」
「君の計画は全て筒抜けだったんだよ」

唐沢マリンは、今井君の後ろに私たちがいることに気が付き、肩越しに私達を睨んだ。
唐沢マリンの形相に動じず、今井君は続ける。

「唐沢さん、どうしてこんなことをしたんだ?」
「・・・こんなことって?何のことかしら?私はただ、定期公演を見に来ただけなんだけど?」
「君が爆破予告の主犯格であることは分かってるんだ」
「爆破予告?そんな物騒なこと、この私がするわけないじゃないの」
「だから不思議に思っているだ。なんでこんなことができる」
「証拠は?まさかここにいるってだけで犯人扱いしてるわけじゃないでしょうね」
「証拠もある。このUSBメモリには君が爆破予告するように指示した映像が残されている」

唐沢マリンは黙って今井君の手の中のUSBメモリを睨みつけている。
本当に証拠の映像があるのか、それともはったりなのか、品定めしているようにも見える。
しばらく睨んでいたが、考えるのをやめたのか、唐沢マリンはふっと力が抜けたように笑った。
とても歪んだ笑みだった。

「だったら何?私を警察に連れてく?証拠の映像を提出して私を逮捕する?」

さっきまでのしらばっくれた態度とは一変して、完全に開き直っている。

「私のパパ、警察のお偉いさんなの。そんな証拠品の1つや2つ、手品師のように消してくれるわ。それどころかあんたら全員、名誉棄損で訴えられちゃうかもね」

今井君は無言で唐沢マリンを見つめている。
唐沢マリンを追い詰めるための段取りは、谷垣さんが準備してくれた。
ライブ配信の映像を保存したUSBを証拠品として提示して追い詰めるところまでは計画通りだ。
しかし、ここからの筋書きは用意されていない。
少し不安になり、私は谷垣さんを見た。
谷垣は無言で頷いた。
「大丈夫です」と言いたげな表情だ。

ここに来るまでの間、谷垣さんは私達に計画を説明した。
その中で、主演である今井君に唐沢マリンを追い詰めることへのこだわりを話していた。

「そんな危険なこと、今井君にさせるなんて」
「いいえ、これは彼にしかできない大役です。唐沢マリンにとって、もっとも言葉が響くのが今井君だからです。そして、この舞台の主演は彼です。彼こそが最後のシーンを飾るのに相応しい」

谷垣さんと国枝さんのやり取りを思い出す。
不安な気持ちを押し込めて、私は谷垣さんに頷き返す。
きっと大丈夫。
今井君ならやってくれる。
私は祈るような思いで、今井君の背中を見つめた。

「君を警察に突き出すことはしない。それはきっと、根本的な解決にはならないから」

今井君は唐沢マリンの態度に動じずに話している。
堂々とした態度は今井君本人のものなのか、はたまた演技が入っているのかはわからない。

「1つ教えてほしい。君をそこまで怒らせてしまったのは、僕が君とのエチュードを断ったからか?」

入部審査を受ける際に、唐沢マリンがエチュードの相手に今井君を指名したことを思い出した。
今井君はそれを断り、唐沢マリンは怒って出て行ってしまった。
今井君の問いかけに、唐沢マリンは鼻で笑って答える。

「今はもう、そんなことどうだっていいわ。ただ、あの時の屈辱は今でも胸の中でグツグツと煮えたぎってる。それなのに、あなた達は毎日楽しそうにお芝居ごっこに興じている」
「お芝居ごっこーーーー?」

一生懸命頑張って稽古してきた日々をお芝居ごっこと片付けられてしまったとなると怒らない方がおかしい。
今井君は怒りを堪えていたが、私の後ろにいる谷垣さんは、自らの怒りを抑えるために壁を殴り、鈍い音が講堂に響いた。

「だってそうでしょ?ライブ配信を見せてもらったけど、素人レベルのお芝居で正直見てられなかったもの」

今井君は怒りを抑えるために、一度息を吐き出した。
冷静さを失わないように気をつけているように見える。
講堂に入る前、谷垣さんはこんなアドバイスをしていた。
「安い挑発に乗っては相手の思う壺です。冷静にこちらのペースで話を進めていってください」
そのアドバイスを守っているのだろう。
少し間を置いて、冷静さを取り戻した今井君は話の矛先を変えた。

「演劇サークルには関わらないでほしい。爆破予告とか僕らを困らせるようなことはやめてくれないか」
「私に指図するわけ?・・・でもまあ、あなたがそこまで言うなら、お願いを聞いてあげないでもないけど」
「本当か・・・?」
「だけど・・・タダでお願いを聞くほど、世の中は甘くないわ。条件がある」

状況としては、唐沢マリンが爆破予告の犯人だと追い詰めているはずなのに、あちらから条件を出してくるなんておかしな話だ。
おそらく自分のペースに持ち込もうとしているんだ。

「条件・・・?」
「私にキスをしなさい。今、ここで」

ついに無茶苦茶なことを言い始めた。
こんな取引、絶対におかしい。
演劇サークルに関わらない代わりに、キスをしろだなんてどうかしてる。
しかも、私達が見ている前で。
こんなの絶対おかしい。

今井君は少し考えた後、口を開いた。

「キスをすれば演劇サークルに一切関わらないんだな?」

「ええ。キスをすれば演劇サークルには関わらないわ。ただし、私の納得がいかないような手抜きのキスだったら、一生許さないから」

唐沢マリンはそう言って今井君を睨みつける。
これからキスをしようという女の態度ではない。

「わかった。本気のキスをしよう。その代わり、演劇サークルには金輪際関わらないと約束してくれ。誰か他の人間を使って嫌がらせをするのももちろん駄目だ。約束を破るようなことがあったら、許さないから」

今井君は冷たく言い切った。
これもまた、これからキスをするという男の表情ではない。
今井君はゆっくりと唐沢マリンの方へ近づいていく。

これから今井君と唐沢マリンがキスをする。
演劇サークルのためとはいえ、今井君がそこまで身体を張る必要があるのだろうか。
それに、今井君が他の女性とキスをするところなんて見たくない。
「ダメ!行かないで!」と喉元まで声がでかかったけど、覚悟を決めた今井君の表情、雰囲気に圧倒されて、止めることなんて出来なかった。

2人は見つめ合いながら、いや、睨み合いながら距離を縮めていく。
今井君が唐沢マリンの肩に手を回したその時、大きな音を立てて講堂の扉が開いた。

「その人に触るな!」

入ってきた男はそう言い放って、今井君と唐沢マリンの間に割って入った。
突然の乱入者に、さすがの谷垣さんも驚いているようだ。

「えーっと・・・誰ですか?」
「誰だっていいだろ!それより、お前らこんなことしてタダで済むと思うなよ!」

突然現れた男が訳の分からないことを言い出した。

「何か・・・勘違いされてませんか?」
「勘違いだと?お前らが寄ってたかってマリン様を問い詰めて、挙句の果てにそこの男にふしだらなことをさせようとしてたじゃないか!俺はそこでずーっと見てたんだぞ」

男はそう言って扉の方を指差す。
あの扉の隙間から隠れて様子を見ていたのかもしれない。
きっと話の内容まで聞き取れなかったのだろう。
見当違いの言い分に、どこからどう説明すればいいのか、ここにいる全員が頭を悩ませたことだろう。
男は、あの唐沢マリンの親衛隊の1人なのだろう。
「マリン様」という言い方で大体察しがついた。
ライブ配信の途中で飛び出していった唐沢マリンを追いかけてアングラの講堂に辿り着いたのは私達だけではなかったということだ。

「マリン様、帰りましょう。こんな野蛮なやつら、この俺が守りますから!」

唐沢マリンは勘違いを続ける男を睨みつけた。

「あんたって本当使えないわね」
「へっ?いや、でも・・・」
「もういい!帰るわよ」

そう言って唐沢マリンは出口に向かって歩き出した。
男は慌ててそれに着いていく。

「さっきの約束は?」

今井君が呼び止めると、唐沢マリンを足を止めて振り返った。

「白紙よ。だってキスしてないんだもの」
「それはこの男が止めに入ったから」
「そんなの関係ない。私の気分が乗らないから帰るって言ってんの。こんな状況でキスされたって良い気しないから」

どこまでも横暴な発言だが、私はどこかでホッとしている自分がいることに気がついた。
今井君がキスしなくて済んだ。
そのことに少しだけ安堵していた。

「私、あなたのこと諦めないから」

そう言い残して、唐沢マリンは去っていった。
私達には一瞥もくれないまま、肩で風を切るようにして講堂から出ていった。
乱入してきた男も何か言いたげな顔をしていたが、特に言葉が出てこなかったのか、何も言わぬまま、唐沢マリンについて出ていった。

「いやぁ〜参りましたねぇ」

最初に口を開いたのはやはり谷垣さんだった。

「私が書いた脚本のように綺麗に収まらないものです」

谷垣さんはやれやれといった具合で両手を天井に向けた。
そんな谷垣さんに今井君が質問する。

「あれで良かったんでしょうか・・・?結局、唐沢マリンには逃げられてしまっただけのような・・・」
「あの状況でできる最高の芝居だったと、私は思いますよ。乱入者については私も計算外でしたが」

さっきの今井君がどこまでお芝居でどこからが本人なのかはわからない。
だけど谷垣さんが最高のお芝居だって言うってことは、そういうことなのかもしれない。

 「あれじゃあ、また何か嫌がらせをしてくるかもしれません」
「まあ、元々誰かをコントロールしようなんて考え自体が間違ってますからね。演劇の力は相手を統制する力ではありません。しかし、今日のあなたのお芝居、その覚悟はきっと唐沢マリンにも伝わったと思います。きっと心の奥に残っているはずです」
「だといいんですが」

谷垣さんは場の空気を変えるために、手を鳴らした。

「さ、考えても仕方ないことは後回しにして、打ち上げを始めましょうか」
「打ち上げ・・・?」
「定期公演が終わったんです。やることといったら打ち上げしかないでしょう?」

さも当然のように言って、つかつかと出口に向かって歩き出した。
まだ何やら考え込んでる様子の今井君の肩を國枝さんが優しく叩いた。

「さ、行くわよ。白石さんも」
「は、はい」

打ち上げと言うから、どこかお店でも予約しているのかと思ったら会場はいつもと変わらない部室で少し拍子抜けした。
でも、動画サークルの部室や講堂にずっと居たからなんだか久しぶりな気がする。
この生活感たっぷりの部室にみんなが揃っているとなんだか安心してしまう。
谷垣さんが冷蔵庫からビールや酎ハイを取り出してテーブルに置いた。

「さあ。好きなものをどうぞ」
「あ・・・ソフトドリンクとかって・・・」

私はおずおずと右手を挙げた。
やっぱりサークルの飲み会って飲酒が基本なんだろうか。
そこに国枝さんが割って入る。

「何普通に飲ませようとしてんのよ。未成年2人にはこっちにジュースとかあるから」

そう言って2Lのペットボトルをテーブルに並べた。
私も準備を手伝って、紙コップや紙皿を並べた。
今井君は谷垣さんにビールを注いでいる。
飲み会での所作が身についているようでちょっと意外に感じる。
飲み会に慣れてるんだろうか。

「じゃあ、皆さん、飲み物は揃っていますか?」

私達は紙コップを片手に立ち上がっている。
4人しかいないのだから、一目で飲み物が揃っているのが確認できるはずだが、飲み会の定型文といったところなのだろうか。
谷垣さんは少し満足そうな顔をしている。

「それでは、会に先立ちまして、主演に一言もらっちゃいましょうか」

谷垣さんが話を振ったので私達は今井君に注目する。
今井君は急に振られて驚いた様子だったが、しばらくしてしっとりと喋り出した。

「前にも話したんですが、僕は自分以外の人間を演じてみたくてこのサークルに入りました。でも、実際与えられたのは自分自身、今井トウマという役でした」

乾杯の前の挨拶としては話が長くなりそうな語り出しだったが、皆茶化すことなく優しい顔で聞いている。
こういう暖かい空気になるのは、今井君が真剣に話しているからだろう。

「自分自身を演じるとはどういうことなのか、1人で考えました。考えても答えは見つからなかったけど、1つ仮説が生まれました。それは、今まで僕は今井トウマという人間を演じていたのではないか、ということです」

その仮説について、私はよく理解できなかったが、谷垣さんはうんうんと頷いている。

「演技とは、何も舞台の上だけじゃない、日常生活の中にも満ち溢れているものなんだって気がついたとき、僕は自然と自分自身を演じることができました」

その時、今井君の目の奥に光が宿った。

「そして僕は、他の誰かを演じなくても、なりたい自分になればいいんだって、気がついたんです。・・・言ってる意味、分かりますか?」

正直、私はぽかんとしてしまったが、谷垣さんが拍手をするので、私も釣られて拍手をした。

「すみません、長くなっちゃいました。皆さんとお芝居が出来たことは僕の誇りです。本当にありがとうございました。それでは、乾杯」

今井君の発声に合わせて、私達は紙コップを打ちつけ合った。
飲み会というものに初めて参加する、というわけではないが、同級生達が背伸びしてやってる飲み会なんかより、この古びた旧サークル棟・アングラの部室で、打ち上げをしている今の方がよっぽど大人びて感じて、お酒も飲んでないのに何だかみんなで悪いことをしてるみたいな高揚感にも似た感覚があった。

それから谷垣さんはビールを開け続け、国枝さんは酎ハイから赤ワインに乗り換えた。
2人とも本当にお酒が強いな、と2人を見比べながら思う。
今井君と私は相変わらず、ジュースを飲みながら会は進んでいく。

「ですから!ね、演劇の力っていうのは」
「出た出た、また演劇の話」
「演劇サークルなんだから演劇の話して何が悪いって言うんですか?」
「どうぞー?好きなだけ演劇の話をしてもらって構いませんよー?」

2人は酔って語尾が伸び始めた頃だった。

「僕、そろそろ帰らないといけないので」

今井君が立ち上がった。
谷垣さんと国枝さんの2人は言い合いをやめた。

「そうですか。白石さんは?」
「あ、私はまだ大丈夫ですけど」
「ま、せっかくなんでお見送りしてあげてください。今日の主演なんで」

さぁとばかりに、今井君と私は部室の外に追いやられた。

「なんかすごく酔ってたね」

廊下にも酔っぱらった2人のやり取りは聞こえてくる。
普段とは違う一面が見れた気がしてなんだか嬉しい。

「定期公演が無事終わったから、安心して酔えるんじゃないかな」
「それもそうかも」

今井君が階段を下り始めたので、私もそれに倣う。
2人だけの階段に足音と部室からの笑い声が響く。

「一日が長く感じるね」
「そうだね。定期公演を収録したのが遠い昔のことのように思える」
「色々あったからね」

アングラの講堂で定期公演を収録して、それから動画サークルの部室でライブ配信を鑑賞して、その横で唐沢マリンの生配信も見て、花火が上がって・・・。
みんなでアングラの講堂まで走って、唐沢マリンと対峙して、部室で打ち上げをして・・・。
振り返ると今日一日で本当に色々なことが起こったものだ。
その時、その瞬間は一生懸命で、本当に爆破されるんじゃないかとか、今井君と唐沢マリンがキスするんじゃないかとか冷や冷やしっぱなしだったけど、今思い返すと、どれも額縁に入れて飾りたくなるような思い出になりそうだ。

「私達が上級生になって、後輩たちに今日の話をしたら、きっと驚くだろうね」
「いやきっと、信じてくれないよ」

そう言って、今井君は笑った。
それにつられて私も笑った。
今井君の横で笑っていられる、今が幸せだ。
薄暗いアングラの階段を下りながら、この階段がいつまでも続けばいいのに、なんて本気で思った。

「今井君はさ、初めて演技してみて、どうだった?」

私は今井君の顔を覗き込む。
今井君は「うーん・・・」と頬を掻きながら答えた。

「やっぱり緊張したなぁ。ああやって自分の演技を見直すと、下手だなぁって正直ヘコんだよ」
「え?下手だなんて全然そんなこと」
「やっぱり、谷垣部長や国枝さんはすごいよ。俺なんてまだまだだって思った」
「それは、さ。経験が違うから。今井君だって、これからお稽古頑張って、どんどん公演を重ねればきっと、谷垣さんや国枝さんよりも凄い役者さんになれるよ!」

本当は、私の方が全然下手なのに、そんな私が今井君を励ましているのがなんだか可笑しかった。
今井君が少し微笑んで「ありがとう」と返しとき、私たちは一階に着いてしまった。
楽しい時間はあっという間だ。
なんだか寂しい気持ちになる。

「あの・・・山の下まで送るよ」
「そうすると、白石さん、また1人であの坂を登らなきゃだろ?こんな暗いのに、心配だよ」
「でも・・・」

まだ一緒にいたい。
その言葉をぐっと飲みこんだ。
そんなこと伝えたって困るだけだ。
今井君の取り巻きの女の子達を思い出す。
今井君は明らかに嫌がっていた。
私は、その取り巻きの1人になんてなりたくない。
そんな葛藤が生んだ沈黙に、今井君の言葉が響いた。

「誰にも言わないでおこうと思ってたんだけど―――――」

「俺、旅に出ようと思ってる」
「旅・・・?」

急な告白に面食らってしまう。
アングラの外に出ると、綺麗な満月が顔を出した。

「今までさ、家とか周りの人とか、色んなもののせいにして逃げてきた気がするんだ」
「逃げてきたって・・・何から?」
「自分自身に向き合うこと・・・かな?さっき打ち上げの前にも言ったけどさ、俺はずっと別の誰かを演じてみたかった、いや・・・別の誰かになりたかったんだ」

夜の空に雲が立ち込めて、満月を隠す。
今井君の表情もはっきりと読み取れなくなる。

「それってきっとさ。自分自身から逃げてたんだよな」
「そんな・・・」
「今回、自分自身を演じるってことになってよくわかったんだ。自分の中が空っぽだってことが」

私はなんて声を掛ければいいか分からず、黙り込んでしまう。
夜の風が2人の間を通り過ぎる。
この風が今井君を飛ばして、どこか遠くに連れ去って行ってしまう気がした。
私は慌てて言葉を探す。

「旅って、どこに?」
「まだ決まってない」
「いつから行くの?」
「今夜、これから」

これから?
当たり前だが旅に出かけるような格好ではない。
どうして、急に?
そんな言葉が浮かんだが、きっと私に理解できるような説明は用意されていない。
それが寂しかった。
きっとこの人は、行ってしまう。
私が止めても無駄だ。
だけど・・・。
せめていつ帰ってくるか、聞かなきゃ。

「・・・どれぐらい?」
「わからない。自分が納得するまで。1週間かもしれないし、1ヶ月かもしれないし、1年かもしれない。とにかく、今井トウマを知る人間がいないところで自分と向き合いたいんだ」

雲に隠れていた月が顔を出して、今井君の顔を照らした。
今井君の目は真剣そのものだった。
その目は、私を説得しようとしているというよりは、難しいけど解ってほしいんだって言いかけてきているようだった。
その真剣な気持ちに呼応するように、私の中から押し殺していた気持ちが言葉になった。

「私も連れてって」

今井君は虚をつかれたように驚いた顔で私を見た。
私の真意を確かめているようだったが、それから本気で言っていることを察して、苦い顔で言った。

「それは・・・できない」
「今井君の邪魔はしないから」
「1人じゃなきゃ駄目なんだ」
「じゃあ離れてるから」
「ごめん・・・」

そう言ったきり、私も今井君も黙ってしまった。
黙って俯く2人の間に、もう一度風が吹いた。
そしてまた、雲が月を隠した。
それを合図に今井君が言った。

「じゃあ、そろそろ行くね」

今井君は私に背を向けて歩き出した。
背中がゆっくりと遠ざかる。
私は涙が溢れそうになるのを堪えて声を振り絞った。

「待ってるから」

今井君の足が止まる。

「私、ここで待ってるから」

もう一度、繰り返す。
はっきりと相手に言葉を伝える。
これも演劇サークルで学んだことだ。
今井君は振り返った。

「待ってて。必ず戻ってくるから」

今井君の頬に月の光が差した。
とても優しい表情だった。
全ての重圧から解放された人の顔。
その顔を見たら、堪えていた涙が溢れ出した。

「じゃあね」

右手を挙げて、坂道を降りていった。
私は今井君の背中が見えなくなるまで見つめていた。
それから涙がボタボタと溢れ出して、それを両手で拭った。

月は、また隠れてしまった。

今井君が旅立った後、私はアングラの前にしゃがみ込んで散々泣いた。
この時ばかりは、人気のないアングラがありがたかった。

私はずっと勘違いしていたのかもしれない。
今井君と一緒にお芝居をして、毎日話して、笑い合って、今井君のことをわかったような気がしていた。
でもきっと、今井君には私には理解できない痛みがあって、それを隠しながら生きていたんだ。
そんなことにも気づかずに、隣で馬鹿みたいに分かったような顔して。

こんなにも自分自身に腹が立ったことはない。
どうして分かってあげられなかったのか。
いや、自分みたいなやつが今井君を理解できるなんてこと自体が驕りなのではないか。
そんな問いが私の心を抉っていく。
月のない夜は、私をこんなに不安の渦に巻き込んでいった。

アングラの玄関でひとしきり泣いた後、私はそのまま家に帰ろうかとも思ったが、荷物を部室に置いてきてしまったことを思い出して、部室に戻ることにした。
袖で頬を拭い、泣いていたことがバレないよう平静を装うことにした。

だけど、帰ってきた私を見た2人の反応からすると、泣いていたことはバレていたのだろう。
谷垣さんは「やっぱり」と言った表情を浮かべ、国枝さんは「え、なんで泣いてるの?」と駆け寄ってきた。
私の2ヶ月のお芝居の稽古も大したことがないのかもしれない。

もう隠しきれなかったので、私は先程の出来事を包み隠さず2人に伝えた。
国枝さんが「追いかけないと」と飛び出しそうになるのを谷垣さんが止める。

「白石さんでも引き止められなかったんです。誰が行っても彼を止めることはできないでしょう」

谷垣さんが元から知っていたような雰囲気なのが気に掛かった。

「知ってたんですか?」
「まさか?私は何も聞いてませんよ」

谷垣さんは手に持ったワイングラスを傾けた。
いつの間にか国枝さんに合わせてお酒がワインに変わっていることに気がつく。

「でも、違和感には気付いてました」
「違和感・・・?」
「最初は唐沢マリンがキスを迫った時、動じずに受け入れたこと。彼は以前、唐沢マリンとの共演を即答で断っています。それなのに、キスをしろと言われて快諾するなんて彼らしくない」
「それは演劇サークルのために」
「だとしてもやり過ぎです。あの時、乱入してきた男がいなければ、私が止めてました。さすがに私もあんなの見てられませんからね」

それには私も同感だった。
見てられない。
でも、私に止められていたかどうかは怪しい。

「そして、打ち上げの乾杯の挨拶。これがどうも引っかかてて」
「え、打ち上げの挨拶ですか?」
「ええ。彼は『皆さんとお芝居が出来たことは僕の誇りです』と言いました。新入生の初舞台の言葉にしては重すぎませんか?・・・まるで引退のときの言葉みたいに」

そう言われた時、後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
私が気づかなかっただけで、今井君はこんなにもわかりやすく、メッセージを発していたのだ。
こんなことにも気がつかなかった癖に、なんでも知ってるような顔で隣にいた自分が恥ずかしくなった。

「でも、どうして急に旅に出るなんて・・・」

谷垣さんの言う今井君の言動の違和感というのは理解できたが、それが今井君が急に旅に出たことにはとても結びつかなかった。
谷垣さんは少し考えるような素振りをしながら、答えを探すように言った。

「彼はこうも言っていました。『他の誰かを演じなくても、なりたい自分になればいい』と・・・。これはあくまでも推測に過ぎませんが、なりたい自分になるために旅に出たんじゃないでしょうか」
「それにしても、今夜いきなり出ていくなんて・・・」
「時間が経つと決心が揺らぐと思ったんでしょう。こんな風に飛び出すように旅に出るだなんてこと、周りに心配も迷惑もかけますからね。今日の定期公演を終えて、旅立ちの決意が固まったんでしょうね」

谷垣さんの言葉を頭では理解しようとしているが、心が追い付いていかない。
今井君がいなくなってしまったという事実を受け止めるのには時間がかかりそうだ。
そんな私の心を解すためなのか、谷垣さんはワイングラスを片手に微笑んだ。

「ま、彼を信じて待ちましょう。必ず戻ってくるって、そう言ったんでしょ?」
「・・・・はい」
「だったら、私達はいつも通り、ここに集まって彼の帰りを待つことにしましょう。大丈夫。きっと彼は一回りも二回りも成長して帰ってきますよ。人間としても役者としても・・・。我々も彼に負けないように稽古に励みましょう」

谷垣さんはそう言ってワインを飲み干した。
その飲みっぷりの良さに、私は何だか救われるような気がした。
大丈夫。きっと今井君は戻ってくる。
それだけを信じて、待つことに決めた。


次の日、学食でランチを食べているとユミがやってきて、「お疲れ~」といつもの調子で隣に座った。

「昨日の配信見たよ。あんた、結構やるね~」
「自分でも見たけど、全然。あんなのが何百人に見られてたって考えとぞっとするよ」
「そんなことないって。私、驚いたもん。あんたがあんなに大きな声出すの初めて見たからさ」

それは友人の贔屓目だろう。
だけど、初めて第三者から評価を受けて、素直に嬉しかった。

「ネットでもかなりバズってるよ」

「唐揚げもーらい!」と例のごとく私の唐揚げを盗み食いしながら、スマートフォンをテーブルの上に置いた。
そこには、『アングラの王子様あらわる!』と題された見出しのまとめサイトが表示されていた。

「アングラの王子様?」
「そう。昨日の演劇を見た今井君のファン達が今井君のことをアングラの王子様って呼んでるらしいんだ。学内で結構広まってるみたいだよ?さっきも同じ学部の子たちとこの話題で持ちきりだったんだから」

まとめサイトの記事を読み進めていく。

『演劇サークルの定期公演がライブ配信が昨日行われた。3000人を超える視聴者に見守られながら、定期公演は幕を閉じた。フィナーレにはアングラから打ち上げ花火が上がるサプライズも用意されており、非対面イベントであるにも関わらず、大学内の多くの学生達を沸かせた。中でも、主演の今井トウマ(19)の甘いマスクには、一部の女性ファン達が熱い反応を見せており、「アングラの王子様」というハッシュタグがトレンド入りを果たすなど、SNSでも大盛り上がりとなった。近年、部員不足で中止を余儀なくされていた定期公演だが、今回の成功を機に、演劇サークルの知名度は大きく跳ね上がりそうだ』

「あんた達もう有名人じゃん」
「別に、私は・・・」
「あんたも十分有名人だよ?あの今井君が唯一心を開いている女子だって」
「そんなの誰が言いふらして・・・」
「さあね。でも、今井君のファンは多いから、あんた気を付けなよ?ただでさえ、爆破予告なんてされてるんだから」

ユミの言うことも一理あった。
今井君の存在が有名になればなるほど、傍にいる私が目を付けられることも増えてくるということだ。
唐沢マリンのように爆破予告までしてくることはないにしても、気を付けておくに越したことはない。

「気を付けとく」

「じゃ、そういうことで」と唐揚げをもう一口食べると、ユミは足早に去っていった。
私は唐揚げ2つを失った唐揚げランチに目を落として、軽くため息をついた。

その日は午後から大講義室で授業があった。
色んな学部の学生が受けに来る授業だったので、知らない人だらけだ。
とりあえず、空いている席に腰を下ろして、ノートや筆記用具を取り出して机の上に並べているときに声をかけられた。

「白石さん・・・だよね?」

振り向くと、眼鏡の女の子が立っていた。
どこかで会ったことがあったけ?と思い、彼女の顔をよく確認する。

「あ、初めましてです」

彼女は上田サキと名乗り、ペコリと素早く頭を下げた。
どうやら初めて会うということらしい。

「え、なんで私のこと・・・」
「昨日の定期公演、見させてもらって。それで白石さんのこと知ったの。急に声かけてごめん。隣いいかな?」
「あ、どうぞ」

「あんたも十分有名人だよ」
さっきのユミの言葉を思い出す。
今まで実感はなかったが、こうして知らない人に声をかけられると、昨日の定期公演の話題性を改めて思い知らされる。

「白石さん、演技初めてなんだよね?」
「・・・うん。まだまだ全然下手くそで・・・」
「そんなことないよ。初めてなのにあんなに堂々とお芝居できるなんて、私感動したんだから」

私は上田さんの目を見返す。
どうやら本心で言ってくれてるらしい。

「ありがとう。なんか元気出た」

それからサキと食事に行くようになった。
恥ずかしい話、演劇サークルとユミ以外、大学の中に知り合いがいなかったので、友達が出来たことは素直に嬉しかった。
今井君がいなくなって生まれた心の穴は何をしていても満たされることはなかったが、サキと食事に行ったり、遊びに出掛けることで少しだけ気が紛れた。

サキはよく彼氏が欲しいと口癖のように言った。
高校まで勉強ばかりしてきて、ろくに恋愛をしてこなかったそうだ。

「教室で勉強してるときに、嫌でも聞こえてきちゃって。聞きたくもない彼氏自慢。そういうときは心の中で見下してたんだけど、実際は憧れてたんだよね」

大学生になってから、そのことに気がついたという。

「必死になって勉強して、この大学に受かった時、一緒に喜んでくれる人が家族以外いなかった。それはそれで嬉しかったんだけどさ。あの教室の隅で彼氏の自慢してた子は志望校に落ちたらしくて、校舎の裏で泣いてるのを彼氏に励ましてもらってるところを見ちゃったんだ。なんかそれ見た時、自分のしてきたことが馬鹿馬鹿しく思えてきて」
「その気持ち、ちょっと分かるかも」

私も生まれてこの方、恋人はいない。
大勢の輪に入るのが苦手で、高校時代は男子と話すのも得意ではなかった。
それでも、仲良くなった男子は1人だけいた。
彼とは放課後の教室でよく喋っていた。
他愛の無い話だが、自然と心が軽くなった。
そんな日々も長くは続かず、クラスのリーダー的な存在の女子に、彼に近づくなと言われ、面倒事に巻き込まれたくない私は、それに従った。

「なにその子。何の権限があってそんなこと言ってくるんだろ」
「でしょう?でも、その時はまだ好きとかそういう感情はよくわからなかったし、彼女に逆らったら教室に居づらくなると思って、放課後は残らないようにしたんだ」
「それで?その男子は何も言ってこなかったの?」
「ううん。一度だけ、もう放課後に来ないの?どうして?とだけ聞かれた」
「なんて答えたの?」
「家の用事って。本当のことを言ったって仕方ないからね」
「うぅん。そうだね。余計拗れそう」
「で、それからしばらく経った後、その女の子と2人で手繋いで歩いてるところ見かけたのは、ちょっとしんどかったかな」

サキは深く溜息をついた後、メロンソーダをストローで吸い込んだ。
そして、ひと息ついた後に言った。

「白石さんも辛い経験してるんだね」
「ナナコでいいよ。それに、もう昔のことだから」
「でもちょっと安心した」
「何が?」
「こないだの定期公演を観た時、人前であんなに堂々と演技をしてるナナコに感動したんだけど、それはどこかで、きっとこの人は私と同じタイプの人間だって思ってたからなんだよね」
「同じタイプって」
「引っ込み思案で人見知りで恋人がいないタイプ」

真顔でそう言うサキの言葉に私は吹き出してしまい、それにつられてサキも笑い出した。

「だからね、大学に入ったらそんな自分とはおさらばしたいって思ったの」
「大学デビューってやつだ」
「でも、うまくいかなかった。最初は周りの子とノリを合わせてそれなりに上手にやってたんだけどさ。同じ高校の子に見つかっちゃって・・・。それからは前の自分に逆戻り。地味で奥手なサキってわけ」

サキは飲み終わったグラスに刺さっているストローを吸った。
ズズズという音がするだけで、きっと何も喉を通っていないのだろう。

「だから、ナナコを観てなんか励まされたんだ。この子もきっと私と同じような人なのに、こんなにも自分を表現しようとしている人がいる。それだけで、なんか救われた気がした」

私はなんだか照れ臭くて、俯いてしまった。

「ごめん、なんか急に」

それに気がついて、サキも照れ臭そうにグラスを手に取り、中身がないことを思い出してまたテーブルに置いた。
それを見て私はまた吹き出してしまった。
ひとしきり笑い合った後で、サキはソフトドリンクを補充して戻ってきた。

「それで、相談なんだけど」

一度席を立って戻ってきたから、一体どの文脈に繋がっているのかわからなかったが、表情から真剣な話だってことはわかった。

「一緒に合コン行ってくれない?」

サキは手を合わせて頭を下げた。

「え、合コン?」

急なお願いに私は不意をつかれた。

「合コンって言っても、2対2だし、ただの食事会だよ。お金もほとんど相手が払ってくれるみたいだし」

話が飛躍し過ぎて私は着いていけなくなる。
どうして、さっきの話から2人で合コンに参加することに繋がるのか。

「ちょっと待って。私、合コンとかそういうのは・・・」
「え?でも、彼氏いないんでしょ?」
「えー・・・まあ、そうだけどさ。でも、いきなり合コンなんて・・・」
「全然いきなりじゃないよ。大人数ってわけでもないし、かと言っていきなり2人きりってわけでもない。2対2が丁度いいって、そういう結論に達したの。何かあっても2人いるから安全だし、客観的に見てくれる人がいるのって大事だしね」

合コンかぁ・・・。
私は窓の外を眺めながら、ぼんやりと今井君のことを想う。
今どこで何をしているんだろうか。
「待ってて」って言われたのは、そんなに深い意味はないはずだけど、何かを期待してしまっている自分もいる。
もう一方で、このぽっかり空いた心の穴を満たしてくれる相手を欲している自分も確かにいた。
それが今井君以外に務まらないのかどうか、考えれば分かりそうなものだが、この時の私はあまりにも恋愛経験が少なく、そもそも今井君への気持ちが恋心なのかどうかもわからぬまま風船のようにふわふわと浮かんでいた。
だから、意外と押しの強いサキに言われるがまま、合コンに参加してしまったのだ。

「え?白石さんって、演劇サークルの?」
「ライブ配信見てたよ〜。演劇?のことはよくわかんなかったけど、あれだけの台詞間違えずに言えるのは凄いよな〜」

サキが連れてきた男子学生は、居酒屋に入るやいなや慣れた様子で生ビールと適当なおつまみを注文した。
私達も雰囲気を壊さないようにノンアルのカクテルを注文した。
流されるまま、自己紹介をしたところで男子学生達は私が演劇サークルであることに食いついてきた。

「私なんてまだまだ・・・」
「でも、入部早々キスシーンとかさせられたんだろ?」
「それに爆破予告だっけ?あれってマジ?」

キスシーン動画が炎上したり、SNSで爆破予告されたり、定期公演をライブ配信したりと、大学内で話題になっている団体に所属している私に興味があるようだ。
演劇のことを評価されるのならいいが、それ以外のことについては触れられるのはあまりいい気がしない。
私は困ってサキに目配せする。
サキはそれに気がついた様子で
「まあまあ、一気に質問したらナナコも困っちゃうから」
と入ってきてくれた。
私はひと息ついて、シャーリーテンプルを飲んだ。
ノンアルでも普段のジュースほど甘ったるくない大人な味に、なんだか悪いことをしている気分になる。
私はグラスに口をつけたまま、目の前の男子学生を眺めた。

2人ともサキと同じく教育学部の学生らしく、私の話をしたら興味を持ってくれたらしい。
ということは私が演劇サークルってことは最初から分かっていたわけで、さっきの「え?白石さんって、演劇サークルの?」っていうのは演技ということになる。
そもそも、演劇サークルの私を餌にこの2人を釣ってきたのは、他でもないサキなわけで・・・。
私はグラスを置いて溜息をつき、頭を振る。
駄目だ。
こうやって初対面の男子に疑いの目を向けてしまうのは私の悪い癖だ。
多分、居酒屋で合コンというシチュエーションによって、この2人への懐疑心が強くなっているだけだ。
彼らだって、きっと立派な教師になることを夢見て勉学に励んでいるに違いない。
男子学生の1人がビールを飲み干して、音を立ててテーブルに置いた。

「じゃあさ、あのキスシーンって、本当にキスしたの?」
「おいおい、いきなりぶっ込んでんじゃねぇよ」

もう1人の男子が突っ込みを入れる。

「ごめんね、白石さん。こいつデリカシーないから」
「おい、何好感度上げようとしてんだよ」
「お前がいきなり聞くからだろ?」

そう言って2人で盛り上がっている。
サキが2人を制止しようとするが、火に油を注いだように盛り上がりに拍車がかかる。

「で、どうなの?」

私は俯いてしまう。
今井君とキス?
そんなの関係ないじゃん。
あんた達に言う必要なんてない。
その言葉がなかなか出ないまま、俯いてしまった。

その時だった。

「そんなのあんた達には関係ないでしょ?」

突如、背後から私の言葉を代弁してくれる人が現れた。
振り返ると、国枝さんが立っていた。
驚く私をよそに国枝さんは続ける。

「さっきから何なのあんたら。キスしてたらなに?いつまでガキじゃないんだからさ、キスしたかしてないかぐらいで興奮してんじゃないわよ」

男子学生達は明らかに動揺している。

「えっと・・・どなたですか?」

サキが尋ねる。
私が説明するよりも早く、国枝さんが答える。

「理工学部の国枝ヒトミよ。あんた達、うちの若い子に手出すんだったら、まず私を通しなさい」
「国枝・・・ヒトミ・・・?」

男子学生達は顔を見合わせる。

「100人殺しの・・・?」
「何ごちゃごちゃ言ってんのよ」

2人は一気に青ざめて、「僕ら、用事を思い出したんで」とお金を置いてそそくさと立ち去った。
サキも何が何だかわからず、「え?ちょっと待ってよ」と男子学生達を追いかけていった。

あとに残された私と国枝さんは、同じ席で飲み直すことになった。
と言っても私は引き続き、ノンアルコールカクテルなわけだが。

「ごめん、邪魔しちゃった?」
「いえ、ナイスタイミングでした。それより、お一人で飲まれてたんですか?」
「一人で飲んでちゃ悪いわけ?」
「いや、そういうわけじゃ・・・」
「まあ、大人になると一人で飲みたい夜もあるのよ。それよりあんたも意外とわかりやすいわね。今井君がいなくなって、合コンなんかしちゃうなんて」
「別に!そういうわけじゃ・・・」
「わかってるわよ。そういうんじゃないってことぐらい。ちょっとからかっただけ」

国枝さんはそう言ってカクテルを傾けた。
何のお酒なのかわからないが、綺麗な緑色をしている。
私は思い切って、気になっていることを聞いてみた。

「さっきの二人が言ってた、100人殺しって・・・」

私がそう切り出すと、国枝さんは一瞬鋭い目つきになる。
が、すぐさま笑顔になって言った。

「白石さん。世の中には知らなくていいことがあるのよ」

その笑顔に、私は何かを悟った。
本当に恐ろしい人は、険しい顔をしているんじゃなく、笑顔の人なんじゃないだろうか。
年上の谷垣さんに強く当たれる理由もそこに含まれているんだろうか。
これはあまり深入りしない方が良さそうだ。
国枝さんはカクテルを飲み干すと、聞いたことのないお酒を注文した。

「まあ、待つしかないよ。こればっかりは」

お酒を注文した後に、遠い目をして言ったから今井君のことを言っていると気がつくのに少し時間が経った。
何か言い返そうと思ったときに、ちょうど次のカクテルが運ばれてきて、タイミングを逃した。

「ほんと、男って馬鹿よね。こっちの気なんて知らないでさ。急に出ていっちゃうんだもんね」

国枝さんの言い方に含みを感じたので、思い切って聞いてみることにした。

「何か、過去にあったんですか?」

国枝さんはカクテルを一口飲んでお酒が身体に回るのを感じているようだ。
十分にその余韻を楽しんでから答えた。

「あいつも急にいなくなったことがあった」

あいつ・・・。
谷垣さんだということは、私でもわかった。

「どうしてですか?」
「留学。イギリスにね。本人はずっと考えてたことらしいんだけど、私達には何にも言わずに飛び出してさ」

国枝さんは遠くを見つめている。
きっとその時のことを思い出しているのだろう。

「今の白石さんみたいに、私も待ってた。あの部室で」

国枝さんの気持ちは想像するに容易い。
きっと今の私と同じ気持ちだ。

「部長だったあいつが抜けて、徐々にサークルから人が抜けていった。あいつが帰ってきたときには部室にいるのは私だけでさ。ほんと、悔しかった」

国枝さんは、そう言ってカクテルを飲み干して立ち上がる。

「昔の話はこれぐらいにして、部室で飲み直そうか。誰かさんが待ってるだろうし」

国枝さんは手早く私たちの分までお会計をしてくれた。
店を出た私たちは、コンビニでお酒やおつまみを買い込み、アングラへ向かう。

「谷垣さんは、どれぐらい留学してたんですか?」
「半年。ちょうど去年の年末に何事もなかったかのように帰ってきてぶん殴ってやろうかと思ったわ」

この国枝さんと谷垣さんにも色々あったんだな、とアングラまでの坂道を登りながら思った。

「白石さんはさ。今井君のこと、どう思ってるの?」
「どうって・・・」

急に直球を投げられて返す言葉が見つからない。

「今までちゃんと意識してなくても、居なくなって気づくこともあるんじゃない?」

今まで部室にいけば、谷垣さん、国枝さんと一緒に、今井君もいた。
それが当たり前だと思っていた。
国枝さんの言う通り、今井君がいなくなって、心にぽっかり穴が空いたことに気がついた。
でも、この気持ちが恋愛なのかそれ以外のものなのか、私は判断がつかなかった。
私は話をはぐらかすように、話題を国枝さんの方に向ける。

「そう聞いてくるってことは・・・もしかして、国枝さん。待っている間に、何か心境の変化があったんですか?」

国枝さんははっとした表情をしたが、すぐに持ち直して答える。

「なに言ってんのよ。先輩をからかうもんじゃないわよ」

この人もわかりやすい人だな、と思った。
私はくすっと笑って、居心地の良さを感じた。

「おや、お2人で飲みに出掛けていたんですか?」

谷垣さんは部室で、海外の舞台演劇の映像を観ていた。
少し酔っ払った国枝さんと、お酒やおつまみを詰め込んだレジ袋を両手に持った私を見て、飲みに行っていたと判断したらしい。

「そうよ。誰かさんの愚痴を酒の肴にしてね」
「それはそれは。その誰かさんが羨ましい限りですね。自分のいないところで、飲み会の話題になっているなんてね」

国枝さんは谷垣さんをどついた後、その隣に腰掛けて買ってきた酎ハイの缶をあけた。
そして、袋の中から缶ビールを取り出して、谷垣さんの前に置いた。

「なかなか気が利くじゃないですか」

そう言ってプルタブを開けると、中からビールが激しく溢れ出した。
アングラに来るまでの坂道で、ビールがかなり揺れていたらしい。
私は急いでフキンを持ってきて、テーブルを拭いた。
国枝さんは持っていたハンカチで谷垣さんの手や服を拭いている。

「とんだサプライズですね」

そう言いながらも、谷垣さんはなんだか嬉しそうだった。
その後、谷垣さんの観ていた舞台演劇の映像を3人で鑑賞した。

「これって、フランス語・・・ですよね?」
「そうです。ボンジュールとかアンドゥトロワでお馴染みのフランス語です」
「谷垣さん、フランス語わかるんですか?」
「さっぱりです。英語は多少分かりますが」

イギリスに半年留学していた程なんだから、英語は得意なんだろう。

「じゃあ、何言ってるかわからずに観てるんですか?」
「確かに。台詞は分かりませんが、それでも話の内容や感情は伝わります。一流のお芝居というのはそういうものです」

それを聞いて、もう一度、よく観てみる。
確かに、何を言っているのかわからなくても、その人がどんな感情で何を伝えようとしているのかがわかる気がする。

「言葉がわからない方が伝わることもあるもんです。私はたまにこうして海外の演劇をアトランダムに視聴して、お芝居の本質を掴もうとしているんです」
「お芝居の本質?」
「ええ。国や文化、時代、流行り廃りに左右されない不動のもの。それは一体何なのか。私の永遠のテーマです」

そんなものは本当にあるのだろうか。
少し難しい話に私は頭を捻った。
国枝さんはどう思っているんだろうと、目をやると、机に突っ伏して寝ていた。
谷垣さんもそれに気がついたが、起こすわけでもなく、口に人差し指を当てて「しー」と私を静止した。

「今日はいつになく飲みすぎたんでしょう。このまま、寝かしてあげてください」

穏やかな寝顔はなんだか幸せそうだった。

国枝さんが寝ているうちに、谷垣さんに質問をぶつけることにした。

「100人殺しって何ですか?」

居酒屋で男子学生達が国枝さんに向けて言った言葉だ。

「これまた懐かしい異名ですね。まだそんな噂が残っていたとは・・・」

谷垣さんは目を細めて国枝さんを見つめた。

「噂は風化し、言葉だけが一人歩きをするものです。100人殺しだなんて大そうなあだ名、彼女には似つかわしくないんですが」
「国枝さんにも聞こうとしたんですけど、なんだか聞ける雰囲気じゃなくて」
「もしかしたら、本人の口から言うのは照れ臭かったのかもしれませんね」

谷垣さんは国枝さんが寝ていることを確認して、話を始めた。

「実際に100人殺した・・・なんてことはなく、彼女は入学当初尋常じゃないほどモテていた、ただそれだけのことです」
「尋常じゃないほど・・・って?」
「それこそ、1ヶ月のうちに100人が彼女に告白してフラれました。そのモテ伝説が後に100人殺しとして囁かれるようになったんです」

私は思わず寝ている国枝さんを見る。
確かに言われてみれば整った目鼻立ちをしていて、ストレートの黒髪が美しく、誰が見ても美人と言うだろう。
しかし、失礼な話だがそんなにもモテている印象はなかった。

「今、そんなにモテるか?と疑問に思いましたね」

谷垣さんは私の考えを見透かしているようだった。
私は慌てて否定する。

「いえ、そんなことは・・・」
「いいんですよ、それで。彼女はモテなくなることを望んでいたんですから」

モテなくなることを望んでいた?
私の頭には疑問符が浮かんだ。

「どういうことですか?」
「彼女は言いたいことをズバッという性格をしていますが、その反面繊細さも持ち合わせていました。ですから、100人の男性の告白を断り続けたことで、彼女は自分自身を精神的に追い込んでいったのです」

私はこれまで誰かに告白されたことなどなかった。
だけど、誰かに告白されてそれを断る場面を想像してみる。
相手を傷つけないように言葉を選んだり、相手の落胆する顔を見たりするのは確かにキツイかもしれない。

「国枝さんはとても優しい人です。毎日のように誰かを傷つけている自分が許せなくなっていました。そんなときに、私が声を掛けたんです」
「まさか、谷垣さんも告白を?」
「違いますよ。白石さんも冗談を言うんですね」

谷垣さんはそう言って笑った。
冗談のつもりじゃなかったんだけど。

「国枝さんに演劇サークルへの入部を勧めたんです」
「勧誘・・・ですか?」
「スカウトですね。大学一の美女が入ったら話題になりますしね」

「彼女は最初、私のスカウトを断りました。これ以上、注目されたくない、と」

それはそうだろう。
ただでさえ、100人殺しとかいう変な噂に苛まれていたんだ。

「谷垣さんはなんて言って国枝さんを説得したんですか?」
「説得なんてしてませんよ。私はただ、モテないようにする方法があるということを伝えただけです」
「モテないようにする方法・・・?」

そんな方法あるのだろうか。
あったとして実践する人なんているんだろうか。
谷垣さんは勿体つけて私の頭に疑問符が浮かぶのを楽しんだ後、答えた。

「お芝居ですよ。モテたくないならモテない役作りをすればいい。それだけのことです」

谷垣さんはいつ何時でもお芝居で片付けるところがある。
もしかして、お芝居というのは魔法の言葉なのだろうか。

「そんなの本当にできるんですか?」
「根気と集中力があれば。そのどちらも持ち合わせた方が今ちょうどそこで寝てらっしゃいますよ」

谷垣さんは国枝さんを指差す。
私は谷垣さんの冗談に付き合わされたと思い、笑ってしまう。
が、どうやら冗談ではないらしい。

「今でも気が抜けた時なんかは妙に色気が出ちゃうようで・・・ほら、この寝顔見てくださいよ。その辺の男はほっときませんよ、これは」

谷垣さんはそう言って、国枝さんの寝顔をカメラに収めた。
あまりに自然に写真を撮るものだから、静止できなかったのもあるが、それ以上に改めて国枝さんを見ると、さっきまでとは違った大人の色気のようなものを感じる。

「え?でも・・・さっき寝顔を見た時にはなんとも・・・」
「寝ながら無意識に抑えていたんでしょうね。ただ、深い眠りに入るとこのように」

そう言って「パシャ」と寝顔を撮影する。

「ちょっとやめましょうよ、寝顔を撮るなんて」
「いいじゃないですか。減るもんでもないですし」
「よくないですよ。女子の寝顔を撮るなんてモラハラですよ。それに、私達のキスシーンを勝手に撮って炎上したのはどこのどなたですか!」

私が必死に止めた甲斐があったのか、谷垣さんは渋々カメラをしまった。

「冗談ですよ。白石さんは真面目ですね」
「冗談でもやっていいことと悪いことがあります」
「以後、気をつけます」

谷垣さんは反省した素振りを見せるが、これもどうせお芝居だろう。
私は何か仕返しをしてやろうと思い立ち、踏み入ったことを聞くことにした。

「谷垣さんは、国枝さんに惚れなかったんですか?」

この質問にはさすがの谷垣さんも動揺を隠せない様子だった。
ビールを飲み干してから言った。

「いきなり痛いところをついてきますね。さっきのお返しってわけですか?」

谷垣さんはそう言って、苦々しく笑いながら頬をポリポリ掻いた。
いつも主導権を取られてばかりだったから、その反応が新鮮で、面白かった。

「これだけははっきりしておきますが、私は彼女のモテオーラにやられたわけではないですからね」

谷垣さんにいつもの余裕がないように見えた。
私は無意識にニヤけてしまう。

「それじゃあ、どこに惚れたんですか?」
「どこってまあ・・・お芝居に熱心なところ、ですかね」

その返答に私は落胆してしまう。
結局、この人の頭の中はお芝居しかないのか。
私が落胆しようがお構いなしに谷垣さんは続ける。

「汗を掻きながらひたむきに、涙を流しながらもがき苦しみ、自分のお芝居を手に入れていった彼女の姿はとても美しかったんです」

谷垣さんは遠くを見つめながら言った。
この人は本当に国枝さんのことが好きなんだな、と思った。
でも、他の疑問が湧いた。

「それじゃあ、国枝さんに思いを伝えたんですか?」
「まさか・・・伝えられませんよ」
「どうして・・・」
「彼女は告白されることが苦手なんですよ。ある種のトラウマみたいなものです。私が彼女に告白してしまったら、彼女がこれまで積み上げてきたものをぶち壊すことになってしまいます」
「そんな・・・」

谷垣さんは冷蔵庫からビールを取り出してプルタブを開けた。
プシュッという乾いた音が部室に響いた。

「私は101人目にはならない。そう決めたんですよ」

ゴクゴクと喉を鳴らしながら缶ビールを飲む姿は側から見ても苦々しかった。

私はもどかしさを感じた。
きっと2人とも想い合っているんだ。
だけど、ボタンの掛け違いで2人は互いの気持ちに気付かないでいる。
こんなに近くにいて、一緒にいるのになんで気が付かないんだろう。

私がもやもやとしているのを尻目に、谷垣さんは缶ビールをテーブルに置いて「ふーっ」と息を吐いた。
案外思いの丈を話してすっきりしているのかもしれない。

「さて、私は喋りましたよ。素直な気持ちを」

谷垣さんはニヤリと笑った。
いつの間にかいつもの余裕が戻ってきている。

「次はあなたの番ですよ」
「え?」
「あなたはどう想っているんですか?今井君のことを」

急に話題を振られて困る。
そんなこと真剣に考えてこなかったから、谷垣さんの質問に対する回答は用意されていない。

「どうって・・・演劇サークルの仲間として尊敬してます。私と同じでお芝居は素人なのに、雰囲気があるというか、今井君の言葉には深みがあるというか・・・」
「そうですね。彼は魅力のある役者です。でも、話をはぐらかさないでください。この流れで彼をどう想っているかと聞かれたら、恋愛的な文脈しかあり得ませんよ」

私は逃げ道を塞がれた。
完全に谷垣さんのターンだった。
もしかしたら、こうなることをわかっていてわざと隙を見せていたのではないか。
私はそんなことを考えながら、自分自身に問いかけていた。

私は恋愛的な文脈で今井君のことをどう思っているんだろう。

私が考えている間に谷垣さんは缶ビールを飲み干した。
いつもよりペースが早い気がする。
やっぱり、なんだかんだで谷垣さんも照れているのだろう。

新たな缶ビールを取って戻ってきた谷垣さんに私はありのままを伝えてみることにした。

「実は、今井君のことをどう想っているのか、私自身にもよく分かってなくて・・・」
「ほう・・・それは恋愛的な意味で好きなのか、友達として好きなのか、といった古典的な迷いですね?」
「・・・そうかもしれません」

医師に病名を言い当てられたような心持ちだ。
谷垣さんはビールを一口飲んでから言った。

「いずれにせよ、今井君のことを好きということは疑う余地はないようですね」

谷垣さんはニヤリと笑った。
またしても谷垣さんに一杯食わされたようだ。

「まあまあ、そう怒らないでくださいよ。これでも、あなたの相談に乗っているつもりです。自分の心の変化を明確に捉えることも、お芝居をする上で大切なことですから」

なんだか言い包められているようで釈然としなかったが、今井君に纏わるモヤモヤした気持ちをすっきりさせたいのも事実だった。

「でも、こればっかりは焦って答えが出るような性質の問題ではありません。じっくり時間をかけて、自分の心と対話すべきです」
「自分の心と?」
「そうです。例えば、あなたは今井君とキスシーンをしてどう思いましたか?」
「あの時はただ、お芝居をするのに精一杯で・・・初めて会った男の子とキスをするかもっていう緊張はありましたけど」
「そこまで意識はしていなかった、と」
「はい」

谷垣さんは、ふんふんとうなづきながら、ビールに口をつける。

「それでは、唐沢マリンが今井君とエチュードがしたいと言い出した時はどうです?」

確かあの時はーーーーー
今井君とのキスシーンの動画が炎上して、部室の前に入部志望者が集まっていたときだ。
唐沢マリンは入部試験のエチュードの相手に今井君を指名した。
目を瞑ってあの時の光景を思い出す。

「ちょっと、ありのまま言うのは恥ずかしいんですけど」
「ここにはあなたの敵はいませんよ。あなたの正直な気持ちを笑う者もいません」

谷垣さんはニコッと笑った。
絶対面白がっている癖に、何故だかその笑顔には誠実さが垣間見えた。
これも演技なのだろうか。
迷いながら、言葉を選びながら、その時の気持ちを話した。

「正直、嫉妬のような気持ちはありました。今井君が取られるんじゃないかと不安になって・・・自分でも驚きました。だって取られるも何も、今井君は私のものってわけでもないのに」

谷垣さんはテーブルの上のミックスナッツを一掴み分口に入れてそれを砕いた。
その食感を楽しむように咀嚼していたが、やがてナッツを飲み込んでから言った。

「それは恋ですね」

色々と問診された上で、病名を宣告されるような気分だった。
それか、ミックスナッツを食べてから占うタイプの占い師のようにも見えた。
とにかく私は、その言葉を他人事のように聞いていた。

「恋・・・ですか?」
「ええ。古来から伝わる由緒正しい恋の病です」

谷垣さんは真剣な表情でそう語った。
恋という言葉を自分の中で咀嚼し、消化しようと試みる。
しかし、どうしても小骨がつっかかる。

「いやいやいや・・・私が今井君に恋だなんてそんな」
「それでは、もう一つ聞きましょう。私が動画サークルに乗り込んでいたときに、あなたと今井君はふたりで講堂に忍び込んで台詞合わせをしていましたね?」
「なんでそれを」
「なんでもお見通しの谷垣さんですから」

どこかでこっそり見ていたのだろうか、それとも今井君から聞いたのか、はたまたどこかに隠しカメラが・・・やめよう。
こうやって色んなパターンを考えているうちに、谷垣さんのペースに陥ってしまう。
それより、なんでもお見通しの谷垣さんなら国枝さんの気持ちも見通して欲しいものだ。

「2人きりで稽古をしたとき、どう思いました?」
「あの時は、確かにドキドキしました。でもそれは、2人で忍び込んだりして、なんだか悪いことしてるみたいで・・・。それに男の子と2人きりで密室にいるなんて初めてだったし」
「おや?私とよく部室で2人きりにいることがあるじゃないですか」
「谷垣さんは別腹というか・・・」
「・・・なかなか酷いことを言いますね」
「つい・・・」

話の流れでちょっと酷いことを言ってしまった。
でも、それは嘘ではなかった。
谷垣さんと一緒に居ても異性として意識したことが一度もなかった。
そういう雰囲気を谷垣さんは発しているのだ。

「でもこれではっきりしましたね。あなたは今井君のことを、異性として意識しているということです」

私はまたしても嵌められた気がした。
もうこれ以上は言い逃れができない。
私にはもう反論する力など残されていなかった。

「・・・そうみたいですね」
「別に恥ずかしがることではありません。むしろ、人を好きになることはとても素敵なことです。演劇の世界でもラブロマンスというのは古来より多く描かれてきています。そんなときに、人を好きになるという気持ちが分からないんじゃあ、演じるのも難しいですからね」

結局、お芝居の話に辿り着くのだから、この人の演劇オタクっぷりには驚かされる。

「そうと決まれば、あなたは一つの課題を抱えていることになります」
「課題?」
「そうです。今井君が旅から帰ってきたときに、どんな言葉をかけるのか。それはあなたが今井君のことをどう思っているかによって変わってきますからね」

どんな言葉をかけるか、なんて考えてもいなかった。

缶ビールを飲みながら、谷垣さんは続ける。

「彼は旅を通じて、何かしらの成長を遂げるでしょう。そうしたときに、あなたが同じ場所で立ち止まっていたら、2人の距離は遠ざかるばかりです」

今井君が帰ってきたときのことを想像する。
きっと旅立ったときとは何もかも違っていて私は面食らってしまうだろう。

「ですから、待つ人にもそれなりの成長が必要になるわけです。少なくとも帰ってきた今井君に対して、ちゃんと声がかけられるぐらいには」

そう言って谷垣さんは立ち上がった。
「お手洗いに。少し飲み過ぎました」といって部室から出ていった。

部室に取り残された私は、谷垣さんの言ったことを考えていた。
タイミングを見計らっていたかのように、国枝さんがむくりと起きて言った。

「あんまり全部鵜呑みすることはないよ」
「起きてたんですか?」
「途中からね。恋だの何だのってところから」
「ああ・・・そこから」

結構聞かれていたのが恥ずかしかったが、谷垣さんが国枝さんに対する気持ちを話していたのは聞かれていないようでホッとした。

「あんたの気持ちはあんたしかわかんないんだから。そんなの他人がとやかく言うことじゃないよ。あんたの思う通りにすればいい」
「そう・・・ですよね」

国枝さんにそう言われて、少しだけ肩の荷が下りた。

「あいつは何もかも見透かしているように見えて、恋愛感情については疎いから」
「ああ・・・」

先程、まさに恋愛について疎い姿を晒していたが、それについては触れることは避けておく。

「だいたい、人を好きになるって理屈じゃないんだからさ。あんな理詰めで恋です、だなんて断定されるの一番嫌だよね」
「自分でもよくわかってなかったので、案外そうなのかな、と」
「よく分からないんだったら、よく分からないままでいいんだよ。それを外野が恋だの恋じゃないだの言うことはないんだから」

そこで谷垣さんが戻ってきた。

「おや、お目覚めですか?なにやら盛り上がってらっしゃいますけど、どんな話題ですか?」
「誰かさんの悪口」
「それはそれは。その誰かさんが羨ましい限りですね。自分のいないところで、ガールズトークの話題の中心になっているなんてね」

それからしばらくしてその日は解散になった。
アングラからの帰り道、今井君のことを考えていた。
「それは恋ですね」と言った谷垣さん、「分からないままでいい」と言った国枝さん。
どちらの話もその通りだと思う。
いずれにしても、私自身がどうするか、だ。
今井君が帰ってくるまでに、自分の気持ちとしっかり向き合わないといけない。
そんなことを考えながら、夜のキャンパスを通り抜けた。

それから1ヶ月が経った。
今井君の不在はキャンパス内でも話題になった。

『アングラの王子様 今井トウマの失踪の真相』
と題されたまとめ記事まで作られて、ネット上でも大いに拡散された。
失踪の理由として、留学や親の仕事の関係、人間関係のいざこざなど、根拠のない噂が出回った。
一番有力な噂として挙げられたのは、演劇サークルで何かあったんじゃないかということだった。
定期公演の次の日に姿をくらませたんだから、疑われるのは仕方のないことだ。
しかし、今井くんがどうしていなくなったのかと問われたところで、私はきちんと説明できるわけでもなく、より疑惑は深まっただけだ。
なんだかまた大学に居づらくなったな、なんて思っていた矢先のことだった。

大講義室に入り、あまり目立たない端っこの席に座り、ノートや筆記用具を机に広げていたら、隣の席に誰かが座った。
何気なくそちらに視線を向けると、唐沢マリンが座っているので驚いた。
知らぬ間に金髪になって、より派手さが増している。
目が合うとあちらから話しかけてきた。

「あら、演劇サークルの方ね。いつぞやはどうも」
「・・・なんで」
「なんでって、私だって講義ぐらい受けるわよ。一応大学生だからね」

唐沢マリンは長い髪を掻き分けた。
香水の匂いが鼻につく。

「今井君はどこなの?」

唐沢マリンは今井君の行方を聞きにきたのだ。
こういうことを聞かれるのはもう何度目かだが、相手は唐沢マリンだ。
慎重に言葉を選んで答えた。

「・・・知らない」
「あなたも知らないのね」

唐沢マリンは余裕の笑みを浮かべた。
唐沢マリンはインスタをチェックしながら言った。

「今井君はきっと退屈だったのよ。この狭い大学生活が。芋臭い連中しかいないし、すぐに変な噂は立つし。大学から抜け出してどこか遠くに行きたい。そんな気持ちは私にはわかるわ」

唐沢マリンの訳知り顔に腹が立って、何か言い返そうと思った。
けど、うまく言葉にならない。
今井君がどこで何をしているのか、なんで旅に出たのか、分からないのだから反論しようがない。
ただ、私は今井君と約束をした。
それだけは事実だ。

「今井君はきっと帰ってくる」
「いつ?」
「それはわからない・・・けど」
「わからないことだらけ。いい?あなたと今井君は住む世界が違うのよ。あなたみたいな芋臭い女なんて今井君の眼中に入ってないのよ」
「約束したの」

スマホをいじっていた指が止まる。

「約束?」
「待ってて、必ず帰ってくるって今井君は言った。だから、私は今井君を待ってる。ずっと」

唐沢マリンと目が合った。
私はここで目を逸らしたら負けだと思って、じっと目を見つめた。

数秒、互いに目を逸らさなかったが、やがて唐沢マリンが「ふうん」と言って視線を逸らした。

「今井君がそんなことを、ねえ」

そう言って、唐沢マリンは立ち上がった。

「なーんか興醒めしちゃった」
「講義受けないの?」
「男達に出席取らせてるから、サボるわ。ま、せいぜい頑張って、今井君に見合う女になることね。今井君が帰ってきたら、一番に出迎えるのはこの私なんだから。覚悟しときなさい」

そう言って、長い髪を靡かせながら、唐沢マリンは立ち去った。
私はその後ろ姿を見送りながら、本当は何をしにきたんだろうとぼんやりと考えた。

「ほう・・・唐沢マリンが接触してきましたか」

大講義室で唐沢マリンに会ったことを話すと、谷垣さんが興味深そうに顔を上げた。
谷垣さんは演劇系の雑誌を読んでいて、国枝さんは何かのレポートを書いているようだった。

「恋のライバル出現ですか・・・」
「こら、そうやって焚き付けない」

いつものように国枝さんがつっこみを入れる。

「もしかしたら、彼女も少し変わってきているのかもしれませんね・・・」

私は今日会った唐沢マリンを思い出す。

「確かに、髪は染めてましたけど・・・」
「いえ、外見ではなく、内面ですよ。今井君がいなくなって、また騒動を起こすかと危惧していたのですが・・・だいぶ丸くなった気がしますね」
「・・・でも、相変わらず嫌味を言われましたよ?」
「言葉ではそう言っていても、きっと白石さんのことを認めているんですよ」

私は頭を傾げた。
唐沢マリンのあの言動のどこに私を認めている部分があるんだろうか。

「私には、同じ今井君を待つもの同士、励まし合いたかったように受け取れますね。唐沢マリンの性格上、それをそのまま話すことができません。だから、あなたに嫌味を言うような形で話をしたんでしょう」

いまいちピンとこなくて、国枝さんに助けを求める。
国枝さんは目が合うと、頭を振った。
「信じることはない」というメッセージだろう。
それから私は谷垣さんの言ったことを考えながら、講義のレジュメを整理した。
そこで、ふと疑問に思ったことを聞いてみた。

「そういえば、定期公演以来、ずっとこんな調子ですけど稽古はしないんですか?」

谷垣さんは雑誌から視線を逸らさずに答えた。

「次の舞台は10月の学祭ですからね。それまでは一時休憩です。今は試験やレポート提出も多い時期ですからね」
「学祭の演目ってどうなるんですか?」
「どうなる・・・とは?」
「今井君が帰って来なかったら」
「その時は3人でやることにしましょう」

このまま今井君が帰って来なければ、今井君抜きで公演をすることになる。
谷垣さんと国枝さんが居てくれるから不安ということはないが、それでもやっぱり寂しい。

「まあ、でも」

谷垣さんは雑誌を閉じて、顔を上げた。

「きっとそれまでには戻ってきますよ」

例によって、何か理由があるのかと思って谷垣さんを見たがそこから特に説明はないようだった。
しかし、その根拠のない言葉に少し心が救われる気がした。
それは信頼かもしれないし、願望かもしれない。
それでも学祭までにはきっと戻ってきてくれる。
自分に言い聞かせながら、レジュメに視線を落とした。

唐沢マリンが大講義室で話しかけてきてから数日後のことだった。
部室にいくと、谷垣さんと国枝さんが何か言い合いをしているようだ。

「じゃあ、なんで何も連絡がないんですか!」

いつになく谷垣さんが怒っている様子だった。
国枝さんのいじりやつっこみにはいつも飄々と受け流しているのに。
何かあったのか、と尋ねてみると、国枝さんが持っていた新聞の記事を見せてくれた。

『今井ホールディングス 今井トウマ氏 若干19歳の若さで取締役就任』

大きな見出しの下には今井君の写真が掲載されている。

「なんですか、これ」
「そのままですよ。今井君は今井ホールディングスの取締役に就任したということです」
「え・・・でも、旅に出てたんじゃ・・・」
「旅の末、行き着いた先がたまたま親の経営する会社だった、ということでしょうね」
「じゃあ、今度の学祭はどうなるんですか?」
「さあ・・・彼が戻ってくれば4人でやりますし、戻ってこなければ3人です。それに関しては今までと変わりませんよ。・・・でもこの記事が本当だったら、今井君はもう大学に戻ってこないかもしれませんね」

谷垣さんの言葉に、私は沈黙する。
国枝さんは頬杖をついて窓の外を見ている。

「・・・こんなこと言うもんじゃありませんよね。ちょっと、頭冷やしてきます」

谷垣さんは部室の外に出ていった。
それを見計らって国枝さんが深いため息をついた。

「・・・なんか雰囲気悪くてごめんね」
「え、全然・・・国枝さんのせいじゃないですし」
「あんたがここに来る前、あいつと喧嘩しちゃってさ。いつものくだらない言い合いだったんだけど、今井君のことが絡んできたら急にヒートアップしちゃって。あいつらしくないっていうかさ・・・」

いつもいがみ合っているように見えて、仲の良い2人が喧嘩するなんて、信じられなかったが、それだけ2人とも今井君の記事に驚きを隠せないのだろう。
私自身、状況を受け止めきれないでいる。

「こんなときに喧嘩なんて・・・ダサいよね」
「ちなみに、なんで喧嘩になったんですか?」
「説明するのも馬鹿馬鹿しいんだけどさ。あいつが自分の意思で決めたことだったら仕方がないって言うから、それはあまりにも冷たすぎるんじゃないかって私が言い返して・・・それで」

国枝さんは悲しそうな表情で部室の扉の奥を見つめている。

「谷垣さん、あんなに今井君が帰ってくるのを信じていたのに」
「いや、信じていたから、あんなになってるんだと思う。本当は信じたいんだよ。それは私も一緒。だけど・・・」

国枝さんは俯いてしまった。
私は何か声を掛けようと思い言葉を探したが、何も言葉が出て来なかった。
私自身、この今井君の記事は信じられないし、でも本当だったら、このまま今井君と会えないままお別れになるんだとしたらーーーーーそう考えると胸が張り裂けそうになった。

しばらくして、谷垣さんが帰ってきた。

「失礼しました。柄にもなく取り乱してしまいました」

戻ってきた谷垣さんの身体から煙草の匂いがした。
それに国枝さんが食いつく。

「あんた、煙草やめたんじゃなかったの?」
「こういう時の為に、1箱だけ持っていたんです。煙草を吸って吐き出すと、悪い感情も一緒に煙になって出ていく気がしてまして・・・まあ、一種のまじないみたいなもんです」

そう言って、向かいのソファに腰を下ろした。

「それで、すっきりして帰ってきたのはいいけど、今井君のことどうするつもり?今井君の意志なら仕方ないとか言ってたけど」
「そう。今井君の意志なら仕方がない・・・ですが、今井君の意志に反する取締役就任だったら・・・これは話が変わってきます。今井ホールディングスの前に、演劇サークルに所属している訳ですから、彼を連れ戻す権利ぐらいあるでしょう」

無茶苦茶な意見だが、心強くもあった。

「でも、その今井君の意志がわからないんじゃどうしようもないんじゃない?」
「そこなんですよ、問題は。でも、それを知らないままお別れなんて悔しいじゃないですか」

これには、国枝さんも私も同意した。
それを見て谷垣さんは満足そうに頷いた。

「煙草1本でここまでポジティブな気持ちになれるんだから、悪くないものです」
「喫煙を助長するような発言は慎みなさい。ここに未成年がいるんだから」
「国枝さんは飲酒を助長していたじゃないですか」
「私は別にーーーーー」

と、2人の掛け合いがいつもの調子を取り戻してきた時だった。
大きな音を立てて、部室の扉が開かれた。
「いつまで待たせるの!」という声と共に唐沢マリンが現れた。
私と国枝さんは驚き、身構えるが、谷垣さんは「すっかり忘れていました」と頭を下げた。

「実は下の喫煙所で唐沢さんと会いましてね。今回の件について何かご存知だと言うので付いてきてもらいました」
「そうよ!ちょっと待ってろって言われてあの汚い廊下で待ってたのに、何分待たせれば気が済むの?あなた達、私を誰だと思っているの?」
「唐沢マリン様でございます!」

扉の影に隠れていて気が付かなかったが、唐沢マリンには連れがいた。
よく見るといつかの乱入者だ。
唐沢マリンは満足そうに胸を張った。

「そう。私、唐沢マリンがこの汚い旧サークル棟にわざわざ来てやったんだから、それ相応のもてなしをしなさい」
「何しにきたの?」

国枝さんは喧嘩腰だった。

「あら?あなたが国枝ヒトミ?100人殺しとかって言われてるけど、全然地味じゃない。こんな芋臭い連中と一緒にいるから染まっちゃったんじゃないの?」
「こいつ、殴っていい?」

国枝さんは拳を握って谷垣さんに尋ねた。
谷垣さんは慌てて2人の間に割って入った。

「まあまあ。その物騒な拳をしまってください。喧嘩を売りにきたわけではないようですから。話を聞きましょう。唐沢さんも、そういった言葉は控えてください。よろしいですか?」

唐沢マリンはふんと鼻を鳴らして、乱入者が用意した折り畳みのアウトドアチェアに腰を下ろした。
国枝さんはやり場を失った拳を谷垣さんに押しつけて「どういうつもりよ」と小声で言って、谷垣さんが目で制した。

「えー、話を整理しましょう」

谷垣さんがハキハキとした声で言った。
全員の視線が自然と谷垣さんに集まるのだから大したものだ。

「我々、演劇サークルとしては、今回の取締役就任が今井君の意に介さないものであるならば、これを食い止めてサークルに連れ戻そうと思っています。しかし、今井君の気持ちがわからない。これはもう、本人に聞くしかないと思っています」
「でも、音信不通なんでしょ?」
「その通り。電話もLINEも返事がありません。それなら、家に乗り込むという手もありますがーーーーー」
「それは無理よ」

唐沢マリンが話を遮る。

「無理ってどういうことよ?」

国枝さんがつっかかる。
先程の地味発言を根に持っているのだろうか、言葉尻に棘がある気がする。

「今井君の家には、この私が何度も乗り込んだもの。でも、玄関はおろかエントランスも通してもらえなかったわ。今井君の彼女だって言っても無理。居場所を知ってるって言っても無理。話なんて聞いてもらえなかったわ」

唐沢マリンの行動力に一同息を飲んだ。
真性のストーカーか、はたまた愛の成せる業なのか、色々と言いたいことはあったけど、触れない方が良さそうだ。

「連絡もつかない。会うこともできない。それじゃあ、今井君の気持ちなんて確かめようがないじゃない」
「私もそう思って、これは今井君の意志なんだと言い聞かせるしかなかったんですが・・・そんな最中、唐沢さんが現れたわけです」

全員の視線がもう一度、唐沢マリンに向けられる。
みんなに見られていることに少し満足したように長い髪を掻き分けた。
香水の甘ったるい匂いが鼻につく。

「あなた達が逆立ちしても手に入れることができないものを、私は持っているわ。・・・見たい?」

唐沢マリンが勿体ぶるので国枝さんが苛立ちを隠せないでいる。
しかし、谷垣さんが肩に手を当てがうことでなんとか、気持ちを抑えているようだった。
それにしても、この唐沢マリンという女性は人を苛立たせる天才だと思った。
場の空気がぴりぴりとしている。
目一杯勿体つけてから、鞄から1枚のネームプレートを取り出した。

「これは今日の記者会見に参加するためのスタッフパスよ」
「記者会見って何の?」
「鈍いわね。今井君の取締役就任の記者会見に決まってるでしょ」
「どうしてそんなものあんたが持ってんのよ?」
「私のパパはテレビ局のお偉いさんなの。同級生が記者会見に出るからどうしても現場に行きたいってお願いしたら、1枚だけ取ってくれたわ」

唐沢マリンはそう言ってネームプレートの紐を指にかけて弄んだ。

そして、唐沢マリンは指で弄んでいたネームプレートをテーブルの上に置いた。

「記者会見が今井君と話せる最後のチャンス。そして、この許可証が記者会見に忍び込むための切符ってわけ・・・この意味わかる?」

そう言って私達を見た。

「それをわざわざ見せびらかしに来た、というわけでもないんでしょう?」
「そうね。そんな暇があるんなら、とっくに記者会見の会場に向かってるわ」
「だったら―――――」
「私だって馬鹿じゃないわ。そりゃあ、記者会見に忍び込んで今井君と話したいわ。話して、どんな手を使っても、私の物にしたい・・・記者会見で劇的な逆プロポーズ、なんてのも燃えるわね」
「こんな時にふざけないで」
「ふざけてないわよ」

唐沢マリンはどんとテーブルに長い脚を乗せて、腕組みをした。

「私じゃ無理だってことぐらいわかってる。だから、こうして小汚い部屋まで来たのよ」

唐沢マリンの言葉に、私達3人は顔を見合わせる。

「芋女!あなたが記者会見に忍び込んで今井君を連れ戻してきなさい。これは命令よ」

急に指を指されたので、少し後ろに下がってしまう。
唐沢マリンは立ち上がって、帰り支度を始めた。

「会見は18時から、国際ホテルで始まるから、絶対遅れないように」
「ちょ、ちょっと・・・」
「あと、これだけは言っておくけど、私、今井君のこと諦めたわけじゃないから。今は、こうするのが最善だと思っただけ。今井君が戻ってきたらあなたなんて相手にならないんだからね」

そして、「覚えておきなさい」と言い残して、長い髪をかき分けながら部室から出ていってしまった。
部室に残された、演劇サークルの3人は、何が起こったのか理解できず、しばらくの間ぽかんとしていた。
口火を切ったのは、やはり谷垣さんだった。

「一体なんだったんでしょう。」
「さあ・・・?」
「まあでも、芋女とか命令とか言いながらも、ちゃんと認めているんですよ。白石さんのこと」
「はあ・・・そうなんでしょうか」

私は唐沢マリンが考えていることを今一つ掴み切れないでいた。

「善意なのか悪意なのかは判別できませんが、チャンスを与えてくれたのは確かです。これを逃せば、もう一生、今井君と話す機会はないかもしれません。18時まではまだ時間があります。しっかり作戦・・・いや、台本を練ってから挑みましょう。これは、記者会見という名の、演劇サークル初の学外公演です」

そう言って、谷垣さんは「マスコミもたくさん来ますからね。いいショーにしましょう」などと言いながら準備を始めた。
張り切るベクトルが人とは違っているのが、この人らしいな、と思いながら私も準備を手伝うことにした。

国際ホテルのエントランスは思った以上に広く、既にマスコミ関係者と見られる人たちがロビーで時間を潰しているのが見えた。
手帳を開いてスケジュールを確認する人、ノートパソコンを開いてタイピングをしている人、カメラの手入れをする人など、時間の潰し方はそれぞれだったが、独特な緊張感がそこにはあった。
急拵えのスーツに身を包んだ私は、その場の空気に飲まれそうになっていた。

「キョロキョロしないで。あなたも記者の一員なんだから」

国枝さんから声をかけられて、背筋を伸ばした。
今の私は新人記者だ。
決して、場違いな学生ではない、と自分に言い聞かせる。

「そんなに肩に力を入れてると持ちませんよ。別に我々を怪しむような勢力はどこにもいないんですから。気楽にいきましょう」

私の緊張を見抜いて谷垣さんが言葉をかけてくれる。
谷垣さんも国枝さんも、2つか3つぐらいしか変わらないはずなのに、大人びて見えるのがさすがだと思った。
私は思わず弱音を漏らしてしまう。

「本物の記者の皆さんを目の当たりすると、私なんてただのコスプレで・・・」
「それでいいんですよ。何も本物の記者のようになる必要はありません。それなりの雰囲気を醸し出していればいいんです。新米記者が初めて記者会見に行くときなんて、そんなものだと思いますよ。そういう意味では、白石さんはよく演じられていますよ」

私達がロビーの隅っこで話をしていると、おじさんが近づいてきた。

「あんたら見ない顔だが、同業者かい?」

突然話しかけられて私は飛び上がりそうになるのを必死に堪えた。
谷垣さんが毅然とした態度で応じる。

「ええ。18時の記者会見に入る予定です。普段は現場に出ることは無いので勝手がわからなくて困っていたところです」
「そうか。どおりで見たことないわけだ」

タクシーの中で谷垣さんが言っていたことを思い出した。

『もしも誰かに話しかけられたら、嘘と本当を織り交ぜて喋るのがポイントです。嘘だけついても相手は納得しませんからね。こちらの素人臭い雰囲気の理由を欲しがります。そういう相手には適当な理由を与えてあげましょう』

先程のやり取りは、まさに嘘と本当が織り交ぜられているわけだ。

「あんた、この記者会見どう思うよ?俺は何か裏があるように思うんだが」
「確かに19歳で取締役とは若過ぎますよね。何か掴んでるんですか?」
「それは企業秘密ってもんさ。秘伝のタレの中身を教えちまったら、どこもそれを真似して同じ味になっちまうからな。俺の記事が出てのお楽しみだ」

男はそう言って有名な週刊誌の名前が載った名刺を手渡してきた。
谷垣さんはそれを受け取り、差し出す名刺がない非礼を詫びた。

「現場に出ないもんで、すみません」

男は一瞬怪訝な表情をしたが、谷垣さんの「記事、楽しみにしてますね」の言葉に機嫌を良くして「じゃあな、俺は先に会場に入ってるからよ」と去っていった。

男が去っていくのを見送ると谷垣さんはふぅと息を漏らした。

「バレるかと思いましたよ」
「絶対疑ってたよ、あの人」
「まあ、いいんですよ、別に。今井君を奪還するという目的さえ達成できれば。それより気になるのはさっきのあの人の言葉です。この記者会見には裏があるってこと。どんな裏があるのか、彼がどんな証拠を握っているのか分かりませんが、それ次第で我々のやるべきことも変わってきますからね」

私達は元々部外者である上に、今井君を連れ出そうとしている。
その上、さらにややこしい状況があるのなら、それは避けておきたいところだ。

「会見の場では白石さんに臨機応変に対応していただければなりません。お芝居としていえばアドリブということになりますが・・・大丈夫ですか?」

谷垣さんの目がきらりと光る。
大丈夫ですか?などと聞きながら、もちろん大丈夫ですよね?といった圧力を感じる。
少し前に谷垣さんに言われたことを思い出した。

『待つ人にもそれなりの成長が必要になるわけです。少なくとも帰ってきた今井君に対して、ちゃんと声がかけられるぐらいには』

あの時言われた言葉を私なりに咀嚼して飲み込んできたつもりだ。
今井君にどんな言葉をかけるか、ずっと考えてきた。
考えてきたことを今、今井君に伝える機会が得られたのだから、アドリブだろうがなんだろうが、私はそれを伝えるだけだ。
そう、思っているばすなのに。

「どうしたの・・・?」

国枝さんに声をかけられる。
驚いて見返すと2人とも心配そうに見ている。
自分の両手を見ると、信じられないほど震えていた。

「え・・・?」

初めて定期公演に出た時はこんなに緊張しなかった。
あの時は、収録ということもあったからだろうか。
初めて人前で演技をするか?
いや、違う。
本物の記者の中に混じって、記者のふりをするから?
いや、違う。
私の言動で、今井君が戻ってくるかどうかがかかっているから、それで緊張しているんだ。
今回の作戦は私の一挙手一投足にかかっている。
それを認識した途端、両肩に重い重圧を感じた。
その時、両手をぎゅっと握り締められた。

「大丈夫よ。あんたに待っててって言って出て行ったんだから、何も言わずに帰らないなんてことはないよ」

国枝さんが笑顔で励ましてくれる。

「そうです。この記者達の中で、こんなにも今井君のことを知っているのは我々だけなんですから、胸を張っていきましょう」

谷垣さんが付け加える。
私は記者としてのネームプレートを握りしめて頷く。

「私達は会見の会場に入れませんが、最後にこれだけは伝えておきます」

谷垣さんが言う。

「お芝居のコツは、楽しむことです」

記者会見の会場に入ると、既に多くのマスコミの人達が席に着いていた。
空いている席を探して座る。
私が記者としてこの会見に潜入できているのは、唐沢マリンからもらったネームプレートのおかげだ。
これは私だけが持っているから、谷垣さんと国枝さんは会場に入ることはできない。
外で見守ってくれているはずだ。
私は大人達の中に1人ぽつんと放り込まれたような気分で落ち着かず、スーツの裾を気にしていた。
そうこうしているうちに、奥から男性が壇上に現れた。

「それでは定刻になりましたので、今井ホールディングス、取締就任会見を執り行います。それでは、この度取締役に就任します、今井トウマよりご挨拶をさせていただきます」

男性の言葉に従って、奥から今井君が他の男性と一緒に登壇した。
今井君はきっちりとした高そうなスーツに身を包んでいて、とても同学年とは思えない風格だった。
シャッター音がこだまし、カメラのフラッシュが壇上に光る。

久しぶりの今井君だ。
今すぐ側に駆け寄って話しかけたい気持ちをぐっと堪えた。
まずは、今井君の気持ちを確認することが先だ。
今井君は大人達に囲まれながらも堂々とした態度でマイクの前に立った。
一点を見つめていて、私が潜入していることには気づいていないようだ。

「この度、今井ホールディングスの取締役に就任致します、今井トウマと申します。今井ホールディングスは私の祖父が創業し、50年以上、多くの人達に支えられながら、今日までやって参りました。伝統ある今井ホールディングスの取締役という立場は、私には身に余る役割だと感じていますが、先日の取締役会で承認をいただきまして、この日を迎えることができました。私はまだまだ若輩者の青二才でございます。至らぬ点も多いとは思いますが、精一杯努めてまいりますので、どうぞよろしくお願いします」

今井君が深々とお辞儀をすると、自然に拍手が湧き上がった。
私は今井君のしっかりとした挨拶に、怯んでしまった。
こんな大人たちの前で言葉を一つ一つをはっきりと言い切った今井君の姿に、私は何か声をかけることができるのだろうか。
今の挨拶に今井君の本心があるとすれば、私達にできることは何もないんじゃないか。
私達のやろうとしていることは、今井君の決意を邪魔することになるんじゃないか。
拍手の音の中で、私の心はざわついていた。

「それでは、これから質疑応答に入らせていただきます。質問のある方は、挙手をお願いします」

数人が手を挙げたが、今井君の挨拶に動揺していた私はすぐに手を挙げることはできなかった。

「それでは、そちらの男性の方、お願いします」

先程、ロビーで会った男性が指名された。

指名された男性が立ち上がって質問をする。

「週刊スクラップの山形です。えー、率直にお尋ねします。今回の取締役就任は、かなり急な話だったと聞いています。今井さんもまだ19歳という若さです。何故、この時期、このタイミングで就任となったのでしょうか?」

1人目からかなり切り込んだ質問だと思った。
今井君は少しだけ強張った表情になり、その瞬間を逃さぬようにシャッターが切られる。
今井君の隣の男性が代わりにマイクを持った。

「先程、今井の方から説明させていただいた通り、取締役会で取締役への就任が決まりました。この時期やタイミングに何か意図や理由はございません」
「本当にそうなんでしょうか」

山形の意味深な言葉に会場がざわつく。
司会者が「会見と無関係な詮索はおやめください」とアナウンスする。
その言葉を無視して山形は続けた。

「今回、取締役に就任した今井トウマ氏ですが、つい最近まで行方不明だったそうですね。警察にも捜索願いを出された形跡がありますから、これは確かな情報です」

定期公演の後、今井君は1人で飛び出して行ってしまった。
やはり、家族にも行き先を伝えていなかったのだろう。
山形の発言が正しければ、今井君の家族はさぞ心配したことだろう。

「この行方不明の時期が少なくとも1ヶ月はあるはずです。それで戻ってきた途端、取締役就任というわけです。これには何か裏があるんじゃないか、とそう勘繰るのが人情というものです」
「会見に関係のない発言は慎んでください」
「これは会見に関係のある発言です。今や世界に名を轟かせる今井ホールディングスの取締役就任が家出息子を更生させるためだったとなれば、御社の信頼は地に落ちるでしょうね。そこのところを明らかにして貰えないと、私も会社に帰れませんから」

山形の発言に会場がざわざわし始めた。
今井君も視線を落としている。
今井ホールディングスの社員と思われる男性も、予想外の展開に狼狽を隠せない。
その時、奥の扉が開かれて、貫禄のある男性が現れた。
突然の乱入に、会場の全員がその男性を見やる。
そして、その男性にシャッター音が向けられる。

「社長!来られてたんですか」

社員の男性が素早くお辞儀をした。
社長ということは、この人が今井君のお父さんということになる。
社長は今井君を見て、ゆっくりと頷いた後、登壇してマイクを手に取った。

「今井ホールディングスCEOの今井一平です。この度は我が息子、今井トウマの取締役就任会見にお越しいただき、ありがとうございます」

深々お辞儀をする姿は、さすがに大企業の社長の風格を感じた。

「今日の主役は自分ではないので、こうして出しゃばるつもりはなかったんですが、ちょっと聞き捨てならない言葉が聞こえてきたもんで、こちらに上がらせてもらいました」

一人ひとりに語りかけるように喋る様は、まるで講演会のようだったが、話す内容には棘を感じた。

「先程、質問していたのはどなたかな?」
「・・・私です」
「我社の信頼が失墜するとか何とか聞こえてきたんだが聞き違いかな?」
「・・・今回の就任に対して、裏があるのであれば、という意味で・・・。実際、今井トウマ氏はつい最近まで失踪していたわけで」

強気だった山形が今井社長の貫禄に気圧されいる。
今井社長は平然と話を続ける。

「うちには多くの社員が務めています。その多くの社員の生活を支えるのもまた、会社の責務だと考えています。会社のせいで社員の生活基盤が揺らぐなど、言語道断です。しかし、クライアントの信頼を失うということは、会社の存続が揺らぎ、ひいては社員の生活もまた揺らぎます。このようなことは決してあってはならないことです」
「それはつまり、記事を出すなってことですか?」

山形が食らいつくように質問をする。
今井社長は山形を見下ろしながら続けた。

「いや、何。そんな野暮なことを言いに来たわけじゃないですよ。それもあなたの仕事だ。好きに記事を書けばいい」
「だったら何を――――」
「そんな記事ひとつで、今井ホールディングスの看板には傷ひとつつかないということ、あなたが言うような信頼の失墜は起こらないということを伝えに来たんです。鬼の首を取ったように意気揚々と捲し立ててらっしゃるから、つい堪え切れなくて出てきてしまいました」

今井社長はくしゃっと笑った。
笑うとそれまでの威圧感が薄れ、少年のような印象になった。

「お望み通り、記事にさせてもらいますからね」
「どうぞ、満足いくまで書いてください。あることないこと」

バツが悪くなったのか、山形は逃げるように会場から立ち去った。
山形が居なくなると、会場から俄かに拍手が沸いた。
今井社長は照れ臭そうにその拍手を制すと、「今日の主役は彼なんで」と後ろに下がった。
それから少し空気が明るくなった記者会見は、順調に進んでいった。

「それでは、お時間も迫っていますので、次で最後の質問とさせていただきます」

気がつくと、最後の質問になってしまっていた。
最初の質問であんなことが起きたので気後れしてしまって、質問ができていなかった。
ここで、質問しなければ、ここまで来た意味がない。
私は思い切って、手を挙げた。

「じゃあ、そちらの女性の方」

司会者から指名された。
自分で手を挙げておいて驚くなんてどうかしている。
この期に及んで心の準備ができていない自分が憎らしい。
そんな自分を奮い立てるように、お腹に力を込めて、返事をする。

「はい」

思ったより声が出て、びっくりする。
前に座っていた記者が怪訝そうに振り返る。
今井君と目が合う。
初めて私に気がついたのだろう、目を見開いて口を開けている。
他の記者が私に注目していたため、今井君の驚いた表情に誰も気がつかなかったのが唯一の救いかもしれない。
もう引き下がれない。
私はぐっと脚に力を込めて立ち上がった。

私は新米記者になりきって、ハキハキとした声で言った。

「週刊アングラの白石です。この度は取締役就任おめでとうございます。19歳という異例の若さでの就任ということですが、周りのご友人にはお伝えになりましたか?」

今井君がマイクを手に取って答える。

「まだ、友人には伝えられていません」
「もし、ご友人に伝えるとしたら、どんな風に声をかけますか?」

今井君は少し沈黙して、どう答えるか考えている様子だった。
すかさずシャッター音が響く。
決意した様子で今井君が答える。

「実は今まで・・・友達と呼べる人はあんまりいませんでした。僕はいつもたくさんの人に囲まれて生きてきましたが、本当の意味で心を開ける人は数える程しかいません。それでも、つい最近になって自分の居場所だと思える場所ができました。そこから急に居なくなってしまったこと、本当に申し訳ないと思っています」

今井君は深くお辞儀をした。
記者達は何の話かわからず、ざわざわとし始めた。

「もしもまた、前みたいに戻れたら、あの部室でみんなと一緒にーーーーー」

今井君が次の言葉を言いかけたその時、遮るようにして司会者が言葉を挟んだ。

「えーー、会見の途中ではありますが、お時間となりましたので、これにてお開きとさせていただきます」

その言葉と共に今井君は奥の部屋へと誘導されて行ってしまった。
まだ、伝えたいことがあるのに、といった表情だったが従うしかないようだった。
私はすぐにでも追いかけて行きたかったが、記者達に阻まれた。

「先程のコメントはどういった意味なのでしょうか?」
「今回の就任はご自身の意思とは無関係といったことなのでしょうか?」

記者達が相次いで質問をするが、司会者が「これ以上の質問は受け付けません」と記者に忠告する。
私はその様子を呆然と見ているしかなかった。

「これはまた、大変なことになりましたね」

気がつくと隣に谷垣さんが立っていた。

「え?入ってきていいんですか?」
「会見も終わりましたし、これだけ混乱していたら摘み出されることもありませんよ」

その隣には国枝さんの姿もある。

「よく頑張ったじゃない。完全にアウェーな現場なのにね」

そう言って親指を立てた。

「で、記者会見はめちゃくちゃになっちゃったけど、どうするつもり?」
「そうですねぇ・・・最後のコメントから察するに、大学生活に未練があるようでしたし、そのコメントも途中で司会者に止められたことを鑑みると・・・やっぱり、無理矢理取締役に就任させられたと考えるのが普通ですよね」
「私もそう思うけど・・・今井君は面会謝絶だろうし」

国枝さんが指差した先、司会者が両手を広げて通せんぼうをする格好で奥の扉を塞いでいる。

「仕方ありません。強行突破しかないでしょう」

「それじゃあ、国枝さん。計画通りお願いします」
「あんまり気乗りしないんだけど・・・」

そんな文句を垂れながら、国枝さんが記者達の隙間を縫うように歩いていく。
強行突破とは、いったいどうするつもりなのだろうか。
私が記者会見に入っているうちに、2人で打ち合わせをしていたようなので、私には何が何だかわからない。

「これから、ちょっと面白いものが見られますよ」

谷垣さんがぼそっと呟いた。
国枝さんは記者達の群れに入った辺りで、後ろに結んでいた髪を解いた。
長い黒髪が宙を舞う姿がスローモーションに見えた。

「前にも説明したように、国枝さんは普段、モテオーラをオフにしています。溜まりに溜まったモテオーラを放出すると、どうなるのか・・・」

記者達の視線が一気に国枝さんに向けられる。
それまで記者達を止めていた司会者も目を奪われた。

「さあ、この隙に行きますよ。我々にも影響が出ますので、国枝さんの方は見ないでください」

そう言われて、国枝さんの姿を見ないようにしながら、記者達の間を縫って会場の奥まで小走りで駆け抜けた。
その最中、シャッター音が絶え間なく響いていた。
仕事を忘れて、国枝さんを写真に収めているようだった。
気が付くと、今井君が出ていった扉まで辿り着いた。
扉の前で通せんぼうしていた司会者も記者たちの輪に加わってしまっているようだ。

「さ、行きますよ」

国枝さんのおかげで、何の抵抗もなく、奥の扉を開けることに成功した。

「国枝さんがこんなに凄かったなんて・・・」
「この能力を本人は忌み嫌い、封じているというのもおかしな話です。アイドルだったら誰もが欲しい力でしょうね」

そんな話をしながら、会場の奥にある細い通路を歩く。
いくつか部屋があったが、突き当りの部屋に「今井トウマ様 控室」と書いてあった。

「ここだ」
「入りましょう」

ノックをすると、低い声で「どうぞ」と帰ってくる。
今井君の声ではなかったため、緊張が走る。
ゆっくりと扉を開けると、部屋の中には今井君と、先程会場に現れた今井社長、つまり今井君のお父さんが座っていた。

「失礼します」

私たちは恐る恐る控室に入った。
どこから説明するべきか、何を言うべきか・・・ほんの数秒の逡巡があった。
隣に立っている谷垣さんもそうだろう。
先程の立ち振る舞いを見ていると、この今井社長は一筋縄ではいかない人だというのはよく分かる。
言葉を間違えれば、今井君とは一生会えないかもしれない。
そんな緊張感に包まれていた。

口火を切ったのは今井社長だった。

「君が、白石さんだね?」

今井社長から名前を呼ばれて、驚いて飛びのいてしまう。
気を持ち直して、必死に返事をする。

「は、はい!」
「トウマからよく聞いてるよ。それでそちらの彼が谷垣君かな?」
「よくご存じで」

谷垣さんは丁寧にお辞儀をした。
今井君は何か言いたそうな素振りを見せたが、今井社長が片手で制す。

「いや、驚いたよ。まさか、記者会見まで潜入してくるとはね。さすがは演劇サークルといったところかな」
「トウマ君とどうしても話がしたくて乗り込みました。このような公式の場を荒らすような真似をお許しください」

谷垣さんはあくまでも低姿勢に話をしている。
こういった辺り、いつもの紳士らしい振る舞いが生きている気がする。

「そうだな。今日の記者会見はいろんな大人達にとっては大事な仕事の場なんだ。君たちが乱入して騒ぎを起こすと困る人達が大勢いる」
「それは承知の上です」
「トウマと話したいのなら、社会人として順序を守るべきだ」

今井社長の言葉に谷垣さんは何も言い返せなかった。
今井君も俯いて、重い沈黙を噛みしめている様子だ。
私達の様子を見た今井社長は、先程の会見で見せたくだけた笑顔になった。

「と、いうのは、社会人になってからでいいんだよ」

先程までの重々しい雰囲気が一気に軽くなった。
私と谷垣さんは顔を上げて、今井社長の目を見つめた。
この人の真意がつかめない。

「君たちはまだ学生なんだ。トウマと話したいなら、記者会見だろうがなんだろうが話しにくればいい。納得いかないことがあるなら納得いくまでやり遂げればいい。社会人としてのルールなんて関係ない。それが学生の特権だよ」

そんな特権、初めて聞いた。
今井社長は、記者会見に乱入したことを怒っていないのだろうか。
谷垣さんが切り出す。

「今日、ここに来たのは、トウマ君の意志を確認するのが目的でした」
「トウマの意志・・・?」
「僕たちに何も言わずに取締役に就任するなんて、トウマ君らしくないと思い、もし、トウマ君の意志とは関係なく、取締役就任が進められているのなら僕たちはそれを阻止し、連れ戻そうと思ってここに来ました」

今度は今井社長の方が驚いた様子だ。
ここまではっきりと「取締役就任を阻止する」と宣言したことに驚いているのだろう。
今井社長は谷垣さんの目をまじまじと見た後、声を出して笑った。

「トウマから聞いていた以上だ。谷垣君、いいキャラしてるな」
「僕たちは本気です」
「ああ。そうだな、笑って悪かったよ」

今井社長は今井君の方を向いて言った。

「谷垣君は、こう言ってるんだが、トウマ、お前の気持ちはどうなんだ?」

全員の視線が一斉に今井君に注がれる。
今井君がどう答えるか、それ次第では私達は諦めて帰るしかない。
「僕は」と今井君が重い口を開いた。

「僕は・・・勝手に旅に出て、皆に黙ったまま、こんな記者会見をして・・・本当に申し訳ないと思っています」

今井君は俯き、本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
やがて顔を上げて「だけど」と続けた。

「だけど、もし、皆が僕の勝手を許してくれるなら、またアングラのあの部室でみんなと一緒に演劇がしたいです」

最初は私と谷垣さんに向かって喋っていたが、言葉の締めくくりのときには、今井社長の目を見て訴えるように言った。
今井社長は、今井君の目を見据えて言った。

「それがお前の意志なんだな」
「・・・はい」
「わかった」

今井社長はそう言って立ち上がった。

「トウマ、お前の取締役就任は、大学卒業まで延期だ」
「え・・・?」
「いいんですか?さっき記者会見したばかりじゃ・・・」

意外な決断に谷垣さんが心配する。

「なに、大丈夫さ。まだその辺に記者がいるだろうし、適当なのを捕まえて、延期の旨を伝えればいいさ」
「そんなことしたら・・・」
「我社の信頼か?それは会見の時にも言ったが、大丈夫、揺るがないさ。そして、こんな勝手を通すだけの権限が俺にはあるんだよ」

今井社長はそう言って笑った。

「まあでも、トウマ。帰ったら母さんに2人まとめて叱られるから覚悟しておけよ」

冗談なのか、本当なのか、今井社長の顔は引き攣っている。
そんな今井社長に今井君は改めて向き直った。

「ありがとう、父さん」
「いいんだよ。親が子供の行く末を決めるなんてどうかしてるからな。お前がやりたいようにやればいいんだよ」

そう言って、今井君の頭をくしゃっと撫でた。
今井君は照れ臭そうに、でも嬉しそうにその手を受け入れていた。

「さて、俺はこれから謝罪会見だ。君たちも巻き込まれないうちに、さっさと帰ることだな」

今井社長はネクタイを締めなおしながら、歩き出した。
その後ろ姿に、私と谷垣さんが同時に頭を下げる。

「ありがとうございました」
「おう。トウマを頼んだよ」

そう言って楽屋を出ていった今井社長の姿は、さっきまでの威厳とはまた別の、言うなれば頼れる先輩みたいな風に見えた。

楽屋に残された私達は顔を見合わせた。

「なんだか、嘘みたいですね」
「嘘じゃないですよ。現にこうして、今井君と再会することができたんですから。今回もまた、我々の大勝利です」

谷垣さんは右手の親指を立てて微笑んだ。
なんだか落ち着いてしまう。
狭い部屋の中に、谷垣さんが居て、今井君が居て・・・。

「それで、国枝さんは・・・?」

今井君の問いかけに私と谷垣さんは声を合わせる。

「あ」

急いで記者会見会場に戻ってみると、案の定国枝さんは記者に取り囲まれていた。

私達は遠巻きにそれを眺めるしかなかった。
国枝さんは目で助けを求めてくるが、群衆が壁となり近づくことができなかった。

「モテオーラを解除すればいいんじゃないですか?」
「100%解放したときは、しばらく余韻を引きずるんですよ」

今井君は何が起こっているのかわからない様子で、私と谷垣さんの会話にもついて来れていないようだった。

「これは、一体・・・?」
「ええと、何から説明すればいいんだろ」
「説明は後です。とにかく、国枝さんを連れて抜け出しますよ」

私達が群衆に近づいて行ったときだった。
奥の扉が開かれて、今井社長が現れた。
再び登壇し、マイクを手に取った。

「はい注目!」

その発声に、記者達の視線は一斉に今井社長の方に注がれる。

「重大発表があります」

今井社長が続けた。
その隙を見て、谷垣さんがするすると前方に向かい、国枝さんの手を取って、群衆から抜け出した。

「遅い!あとちょっと遅かったら、お嫁に行けないところだったんだから」
「まったく大袈裟ですね。とにかく、ここを出ますよ」

今井社長の言葉を背中に聞きながら、私達は会場を飛び出す。

「実は、先程就任表明をした、私のせがれ、今井トウマですがーーーーー」

1人会場に残って、説明責任を果たしてくれている今井社長の存在に後髪を引かれながら、私達は走る。

「心配ですか?」

谷垣さんが今井君の顔を覗き込む。

「いや、大丈夫です。行きましょう」

エントランスを走り抜け、玄関を抜けるといったところに見覚えのある男が立っている。

「そういうカラクリだったのか」

記者会見で難癖をつけてきた、週刊スクラップの記者、山形が立っていた。

「おかしいと思ったんだよ。お前らみたいな若造が3人、記者会見の会場にいるなんてな。しかも、会見に入るためのパスを持っているのは、そっちの姉ちゃんだけだってんだから、訳ありだとは思っていたが、そういうことだったか」

山形は私達を一人ひとりじっくりと舐め回すように眺めた。

「何なんですか、一体」
「記者会見の主役、今井トウマを連れ出して会場を飛び出してきたってことは、今回の就任の件、破談になったんだろう?お前らのその焦った表情を見りゃ、それぐらい分かるよ。こっちもプロなんでね」
「取締役就任の件は、延期になりました。今、会場で代表が説明しています」

今井君が返答する。

「そうなれば、今日の見出しは『今井トウマ、取締役就任延期』ってとこだろうが、その理由を掴んだ記者はいないだろうな」

山形は意味深に笑みを深める。

「この俺以外はな」

谷垣さんが前に出ようとするのを今井君が制した。
ここは僕に任せてください、と目で訴えているのが伝わる。
どうぞ、とばかりに谷垣さんは一歩下がった。

「先程、代表が言っていた通り、どんな記事が出ようと、今井ホールディングスの信頼は揺らぎません」
「勘違いしてもらっちゃ、困るよ」

山形が鼻で笑った。

「別に、今井ホールディングスを貶めようとか、君達に意地悪をしてるわけじゃない。俺はただ、ジャーナリストとして、真実を追い求めたい。それだけなんだよ。何か裏がある、何か隠している、それを突き止めて世の中に知らしめる。それが俺の使命なんだよ」

山形には山形の道理がある、というわけだ。
この人だって、仕事でやっているんだから、それはそうかもしれない。
今井君がどう返答すべきか逡巡しているようだったので、代わりに谷垣さんが返した。

「立派な使命感です。ですが、我々には裏も隠しごともありませんよ」

谷垣さんは掌をひらひらとして見せた。

「使命感の矛先を向けるなら、記者会見の会場へどうぞ」

そう言って会場の方を指差した。

「まあ、そう言うなよ。お前らの正体にはだいたい見当がついてんだよ。お前ら全員学生だろ?」

ぎくりという音が漏れ聞こえてしまうのではないか、というぐらい図星をつかれた。

「記者に化けたつもりだろうが、この天才記者・山形の目は誤魔化せないぜ」
「だったら何か?学生が記者を演じて、会見に紛れ込むことは罪ではありませんよ」

谷垣さんがあっさりと学生であることを認めた。

「まあ、罪ではないな。罪じゃなけりゃ裁けないのが法律の世界だ。だが、俺はジャーナリストだ。罪じゃないものも裁くことができる」
「どうやって・・・?」
「民意だよ。お前らがやったことを国民に訴えかけるんだ。これって許していいことなのか?ってな。それで許されるってんなら、仕方ない。だが、もし、国民がお前らのやったことを許さないってんなら・・・その時はお前ら全員、今日の日のことを後悔するだろう」

山形と谷垣さんは睨み合う形になった。

「・・・言いたいことはそれだけですか?」
「ああ、わざわざ引き留めて悪かったな。一応、本人の口から学生だってことも聞けたわけだし」

山形はボイスレコーダーを取り出してこちらに見せつけた。

「もうお前らには用はない」

山形は不快な笑い声を上げた。

「行きますよ」

谷垣さんはそう呟いた後、山形の横を通り過ぎて行った。
私達も谷垣さんの後を付いて、ホテルを出て行った。

「ちょっと!いいの?あんなやばいやつほっといて」

ホテルを出たところで国枝さんが谷垣さんにつっかかる。
谷垣さんは前を向いたまま答える。

「あの記者は別に悪いことをしようとしているわけではありませんから。それは我々も同じです。悪いことなんてしてませんから何を書かれても堂々としておけばいいんですよ」

国枝さんは何か言い返そうとしたが、いい言葉が思いつかなかったようで、「それは・・・そうだけど」と言ったきり口籠もってしまった。
暗くなった空気を察して、谷垣さんが一段明るい声を出して言った。

「そんなことより、せっかく今井君が帰ってきたんですから、今日はおかえりパーティをやりますよ」

あんな後味の悪いことを言われてしまったから、今井君が帰ってきた喜びがなんだか薄れてしまったが、それでも隣を歩く今井君は今ここに実在しているんだ。
私はこうしてみんなが揃って歩いていることに喜びを噛み締めた。
それから私達は、コンビニで食べ物や飲み物を買い込んで部室に向かった。
谷垣さんと国枝さんはビール、私と今井君はジュースを手に取った。
定期公演の打ち上げをしたあの日と同じだ。
乾杯が終わると、谷垣さんが言った。

「それじゃあ本日の主役、今井君から一言もらいましょうか」

谷垣さんが促して、今井君がその場に立った。

「改めて、皆さんにはご迷惑とご心配をおかけしました」
「ほんとに。いきなりいなくなっちゃうんだから。それで取締役に就任するなんて話、何かの冗談かと思ったわ」
「それは本当にすみませんでした」

今井君は深々とお辞儀をする。
心から反省している様子に、国枝さんは「別に、こうして帰ってきたんだからいいんだけどさ」と少し溜飲が下がったようだった。

「それで結局、どうして取締役になることになったのよ?」
「家族の話なので、説明するのは恥ずかしいんでけど・・・皆さんにはご迷惑をおかけしたので、説明する義務はありますね」

そんな前置きをしてから、今井君は取締役就任に至る経緯を話し始めた。

「定期公演が終わって、僕は旅に出ました。自分がどこに行って何をしたいのか。それを見つけるために」
「自分探しの旅ってやつですね」
「そうです。僕の人生には今井ホールディングスの跡取りというタグが付き纏っていました。そのタグを外してみたかったんです。今井ホールディングスの跡取りとしてではなく、1人の人間として生きてみたかった・・・短い期間でしたが、実際、そういう旅ができたように感じています。僕の素性を知らない人達と触れ合って、自分の真の姿と向き合う旅でした」

自分の真の姿と向き合う旅、と今井君は言った。
それなのにどうして、取締役に就任するなんてことになったのか。
私達は皆一様に、同じことを思っただろうが、黙って続きを待った。

「旅に出てから1週間ぐらい経った時でした。今井ホールディングスの社員が僕の前に姿を現しました。その人は母が倒れたからすぐに来てくれと言いました」
「そんなの連れ戻すための嘘に決まってるじゃん」
「僕もそれを疑って、数日間は無視をし続けていました。けれど、社員達が現れる回数は日に日に増えて行って、終いには僕がお世話になっていた人達にも迷惑がかかるようになって、それで諦めて帰ることにしました」

自由を求めて旅に出た今井君からすれば、一番嫌なやり方だろう。
谷垣さんは缶ビールを手に握ったまま、一点を見つめて何かを思案しているようだ。
お母さんが倒れたことは連れ戻すための嘘だと言った国枝さんもかける言葉が見つからないようだ。

「家に帰ったら母は当たり前のようにお酒を飲んでいました。国枝さんが指摘したように、倒れたなんて嘘だったんです。母は僕を試してたみたいです」
「試した?」
「はい。自分が倒れたと聞いたら息子は帰ってくるのかどうか、つまり、僕の母を思う気持ちを試したんです」

そこで今井君は紙コップのジュースを飲み干した。
喉が渇いていたんだろうかと思ったが違っていた。
谷垣さんの方へ紙コップを向けて言った。

「ビール、貰ってもいいですか?」
「え?」

脈絡のない飲酒発言にさすがの谷垣さんも驚いた。

「旅先の漁港で飲んでみたら意外と飲めることに気が付きまして。両親ともに結構酒飲みなので当然といえば当然ですが」

一瞬、きょとんとした谷垣さんをよそに、国枝さんが「ついにビールの美味さに気がついたみたいね。いいわ、飲みなさい。私が許す」と手に持った缶ビールを今井君の紙コップに注いだ。
注がれたビールを今井君は一口で飲み干した。
その飲みっぷりには国枝さんも驚いた様子だ。

「心中、お察ししますよ」

谷垣さんはそう言って、今井君の紙コップにビールを注いだ。
お酒が飲みたくなるほど辛い話なのか、それとも私が知らないうちに大人になってしまったのか、もしかしたらその両方かもしれない。
今井君が遠い存在なったような気がした。
少し前までは、こうして集まって飲み会をしても、私と今井君はジュースを飲んでいたのに、今やジュースを飲んでいるのは私だけだ。
なんだか私だけ子どものまま、成長していないみたいで恥ずかしくなった。
紙コップをぐっと握ると、中のジュースが溢れそうになって、慌てて机の上に戻した。

今井君は注がれたビールに再び口をつけると少し苦そうな顔をした。
それからまた、話を続けた。

「とにかく、母は僕がすぐに帰ってこなかったことに腹を立てました。自分が倒れたという話を聞いても無視を続けたことに怒り、僕に罰を与えました」
「その罰が・・・取締役への就任というわけですか」
「はい。取締役に就任することが罰だなんて、他の社員の方々に失礼ですよね。でも、そうすることで、一番ダメージを与えることができると、母にはわかっていたようです」

今井君は悲しいような苦しいような顔で言った。
さっきまで、ビールを飲んでいる今井君が知らないうちに大人になった気がして勝手に寂しさを覚えていた自分が馬鹿みたいだ。
今井君は、大人にならざるを得なかったのだ。
大人にならないと到底立ち向かうことができないような大きな壁が今井君の前に立ちはだかっていたのだ。
私は自分の無知を恥じながら、オレンジジュースを飲んだ。
甘く、酸っぱい、子供の味だ。
私の自責の念を余所に、谷垣さんが質問する。

「取締役の就任という罰を断ることはできなかったんですか?」

谷垣さんの質問に、今井君は黙って俯いてしまった。
何かよくないことを聞いてしまったのだろうかと心配になり、私は口を挟んだ。

「あ、言いたくないことだったら、無理に言わなくても――――」
「大丈夫・・・言いたくないとかじゃないんだ。ただ、ちょっと思い出したくなかっただけ」

そう言うと、もう一口ビールに口を付けた。
紙コップが空になったのに谷垣さんが気付いておかわりを注ごうとするが、「一旦やめときます」とそれを断って話を続けた。

「取締役になることを承諾するまで部屋から出られないようにされたんです」
「それって・・・」
「監禁・・・?」
「いや、実際はそこまで厳しいものではなかったです。普通に自分の部屋だし、1日3食ご飯が出ますし、トイレやお風呂も自由です。ただ、常に監視の人間が付いているといった点を除けば、ですが」
「十分厳しいですよ。そもそも一人になりたくて旅に出た今井君にとってはこれもまた最大の罰でしょう」
「それでも1週間ぐらいは何とか耐えていました。耐えれば許してもらえる、なんて確証はなかったんですが、母に対する抵抗のつもりでした。自分の覚悟を示せば母も納得してくれるはずだと思っていました」

今井君は遠くを見るような目で、その時のことを思い出している様子だった。

「でも、それは間違いでした。効果がないと思った母は監視の人間を違う人に変えました」
「・・・鬼みたいに厳しい男とか・・・?」
「その逆でーーーーーーーー若い女性が監視をするようになりました」

「若い女性が監視するようになって数日も経たないうちに僕の心は折れてしまいました。取締役でも何でもやるから解放してほしいと懇願していました。母は満足そうな表情で頷き、僕は解放されました。それと同時に、僕の取締役の就任をマスコミに伝え、記者会見の日程まで決まったんです。これは、母の歪んだ愛情表現です」

何か裏があるんじゃないかとは思っていたが、ここまで酷いことが起こっていたなんて想像もできなかった。
皆一様に沈黙した。
やるせなく酒を飲み、かける言葉を探しているようだった。
みんなの表情とは逆に、今井君は少し晴れやかな表情で続けた。

「だから、みんなが助けに来てくれたときは、本当に嬉しかった。僕ひとりじゃどうしようもなかったけど、なんとかこうしてもう一度アングラに帰ってくることが出来ました。本当にありがとうございます」

今井君の感謝の言葉にうまく反応できずにいた。
私達はついさっき聞いた衝撃的な監禁事件の嫌悪感が拭い切れずにいたのだ。
谷垣さんが首を傾げながら言った。

「ちょっと待ってください。それって根本的な解決はしてないんじゃないですか?」
「確かに。取締役になることは阻止できたけど、そしたらまた、部屋に監禁されて監視をつけられるんじゃないの?」

国枝さんも今井さんに加勢した。
かなり珍しい光景だ。

「あー、それは多分、大丈夫です。父さんが帰ってきたから」

今井君のお父さん、つまり、今井ホールディングスの社長だ。
あのどっしりとした風格と、それに似つかわしくない少年のような笑顔、私達にとっては底の知らない人だ。
でも、今日は今井社長に助けられたといっても過言ではない。

「どこかに行ってたんですか?」
「海外出張で長期的にヨーロッパに滞在していたんです。父がいなくなると母は精神が不安定になるから、監禁だなんて物騒なことをしたんだと思います。父が間に入ってくれさえすれば、多分、何とかなります」

今井社長は、息子からの信頼も厚いようだ。
それは実際に対面した私達も理解できる。

「じゃあ、今回の一件、本当に解決ってことでいいんですね?」
「はい。あとは今井家の問題です。父が言ったようにちゃんと謝れば済むはずです」

なんだか腑に落ちなかったが、そんなものかもしれないな、と私は思った。
私と国枝さんが曇った表情をしたのを察して、今度は谷垣さんが言った。

「お二人とも、何を暗い顔なんかしてるんですか。今井君が解決したって言うんですから、解決なんですよ。きっと私達にできることなんてほんの僅か、限られたことしかない。だけどそれでも、私達が動いたことで事態は少しずついい方向に転がっている。それでいいんじゃないですか。
それ以上、何を求めることがあるのでしょう」

「さ、飲みますよ」と言って、空いてる紙コップにビールを注いだ。

「ちょっと待ってください」

思わず声が出て自分でも驚いてしまう。
みんなの視線が集まって少し怯んでしまうが、一度口から出したものを引っ込めるわけにはいかない。
勇気を出して思ったことを言ってみよう。
演劇サークルのみんなならきっと受け止めてくれるはずだ。

「なんか・・・これで解決ってやっぱり・・・もやもやするっていうか・・・」
「気持ちはわかりますが、本人がもう大丈夫って言ってるんですから、これ以上我々が踏み込むべきことでもないと思うんですが」

谷垣さんの言い分も正しいと思った。
正しいけどなんか違う。
うまく言葉に出来ない自分に苛立ってしまう。

「白石さんはどうしたいの?」

国枝さんが優しく聞いてくれる。
でも、どうしたいのかは自分の中でもまとまっていない。
ただ、このまま流しちゃいけないことのように感じたから、「ちょっと待ってください」という言葉が口をついて出ただけだ。
その後の具体的なプランは特に思いついていない。
私が返答に困っていると、今井君が言った。

「心配かけるようなこと言ってごめん。だけどもう大丈夫だから。家のことは親父と一緒に何とかするからさ」

今井君は優しく微笑んだ。
その微笑みの奥に、悲哀を感じたのは私の錯覚だろうか。
そんな私の様子を見て、谷垣さんが深く息を吐き出してから言った。

「白石さんの気持ちはわかりますが、これ以上、家族のことに踏み込むのはよくないと思うんです。踏み込んで、どうにかしてやろうというのもこれまたエゴだと思いますよ」

私は今井君を助けたいだけだ。
それは私のエゴなんだろうか。
谷垣さんは続けた。

「でもまあ・・・それでいいんだと思います。今井君が勝手に旅に出たように、白石さんももっと自分勝手に生きていいんです。エゴで結構。エゴでも相手のことを思い遣ったエゴだったら、それは立派な優しさですよ」

谷垣さんの言っていることはよく理解できなかった。
そもそも、この人はどっちの立場なのだろうか。
私を止めたいのか、止めたくないのか。
混乱する私を見兼ねて国枝さんがため息をついた。

「この馬鹿の言ってることは話半分で聞き流していいから。ただ覚えておいて欲しいのは、私達はいつでも白石さんの味方だってこと。やりたいことがあるなら全力で応援するし、できることがあれば協力するわ。だからさっきみたいに、思ったことがあったらどんどん言いなさい」

国枝さんは谷垣さんの頭をポンポンと叩きながら言った。
その後、豪快にビールを飲み干すと、谷垣さんの前に紙コップを差し出して、おかわりを注いでもらった。
国枝さんは本当に頼りになる人だ。
私は思い切って、今思いついたことをみんなにぶつけることにした。

「今度の学祭に今井君のお母さんを招待するっていうのはどうですか・・・?」
「ほう・・・学祭に招待ですか。確かに学祭でしたら、保護者を始めとする学外の方も入場可能ですからね」
「でも、招待してどうするの?」
「それは・・・」

思い付きの発言だったから、そこから先は考えていない。
でも、とにかく今井君のお母さんが来てくれれば、何かを変えることができるんじゃないか、という漠然とした思いはあった。
私が言い淀んでいるところに、谷垣さんが割って入る。

「白石さんの言いたいことは、こういうことです。演劇の力で今井君のお母さんに今井君の気持ちを伝えよう、と。そうですよね?白井さん」
「あ・・・えと、実はそこまでは考えてなかったんですけど・・・。でも、そういうことができたらいいなって聞いてて思いました」
「じゃあ、決まりですね」

谷垣さんはにっこりと微笑んだ。
それを見て国枝さんが慌てて尋ねる。

「え、何が決まったの?」
「今回の学祭は今井君のお母さんに向けて演ります」

「そうと決まれば、もう一度乾杯!」と紙コップを掲げた谷垣さんに、国枝さんが突っかかる。

「いやいや、ちょっと待ってよ。今井君のお母さんに向けてやるって、それどんな演劇よ」
「それは、これから考えますのでご心配なく」
「いや心配するわ!ていうかそんなことしたら、他のお客さん達、きょとんってなるよ、絶対」
「大丈夫です。表現というものは案外、特定の誰かを思い浮かべてその人に投げかけるように行うことで、広く万人の心に刺さったりするものです。元からすべての人にウケようとしてやると、メッセージがぼやけてかえって陳腐なものになってしまいがちですからね」

谷垣さんは演劇のことになると水を得た魚のように元気になる。
見ているだけで何かが起こりそうでワクワクする。
ふと、隣にいる今井君のことが気になった。
私達だけで盛り上がってるけど、今井君はどう思っているんだろう。

「あの・・・自分で言っておいてなんですけど・・・今井君は大丈夫?話がどんどん進んじゃってるけど」

皆の視線が今井君に向けられる。
今井君は少し俯き、テーブルの上の柿ピーを見つめている。

「正直・・・母親の前で演技をするのは、ちょっと気が引ける」
「そう・・・だよね」

そりゃあそうだ。
若い男子が母親に自分の演技を見られるのは恥ずかしいことだろう。
私だってお父さんや弟には見られたくない。
ましてや自分のことを監禁するほど歪んだ愛情を注ぐ母親なんだ。
見られたくなくて当然だ。

「母との関係は、本当は自力で解決しないといけない問題だと思ってる。だけど、自分一人だけじゃ根本的な解決は難しいとも思う」

今井君は「でも」と顔を上げて続ける。

「でも、演劇サークルのみんなとなら乗り越えられる気がする。・・・今回は、白石さんの提案に賭けてみたいと思います」

今井君の顔には少しだけ不安の色が残っているが、明るさが取り持っている気がする。
私の提案に賭けてみたいと言われたことがなんだか嬉しい。

「それじゃあ、今回の学祭は今井君のお母さんに向けた演目ということで・・・」
「あ、でも、僕の私情に皆さんを付き合わせてしまうことになっちゃいますけど」

今井君は心配そうに言った。
これには国枝さんが答える。

「今更何言ってんのよ。もうあんたの私情には私達から首を突っ込んでるんだから、もはや演劇サークルの重大な問題なのよ」
「そうですよ、今井君。ラグビーの世界にはこんな言葉があります。One for All,All for One」
「ダサッ・・・!」

2人のやり取りに今井君が噴き出した。
それを見て、部室にいる全員が腹を抱えて笑い出した。
今井君が戻ってきた。
ようやくそのことを実感した瞬間だった。

次の日、大学では今井君の話で持ちきりだった。
それもそのはずだ。
取締役就任発表を目的とした記者会見の後で、就任は延期することが発表されたのだ。
事態は私たちが思っているより、大きな波紋を生んでいた。

「あんたら、ホント話題に事欠かないわね」

ユミが呆れながら言った。
これには苦笑いで返すしかない。

「そうそう。お昼のワイドショーでも取り上げられてたわよ。お騒がせ王子とかあだ名付けられちゃってさ」
「お騒がせ王子?」
「今井君のこと。まあ、取締役に就任するってことで記者を集めたのに、その後すぐに延期にしますって発表は確かにお騒がせよね」

客観的に見ればそうかもしれない。

「でも、あの時はああするしか・・・」
「わかってる。そんな人じゃないもんね、あんたも今井君も」
テレビでどんな叩かれ方をしても、理解してくれる人が近くにいると安心する。

「ありがと、ユミ」
「まあ、付き合い長いからね。でも、あんたらのこと全然知らない人達にとっては良いニュースじゃないんだから気を付けなよ?」
「はい・・・気を付けます」
「でも良かったじゃない。ずっと待ってた愛しの王子様が帰ってきたんだから」
「ちょっとやめてよ」
「今井君がいなかったここ数か月間のあんた、見てらんなかったからさ。やっと元気な顔になって私も嬉しいんだよ」

自分では普通の振りをしていたけど、知らないうちにユミにも心配をかけてしまっていたんだ。

「じゃ、私バイトだからそろそろ行くね」

立ち上がるユミに声をかける。

「心配かけてごめん、もう大丈夫だから」

「そうみたいで安心した。またうちのカフェに来てよ。ご馳走するからさ」
「うん。ありがと」

ユミを見送って、私はアングラへ向かった。

部室には谷垣さんが居た。
この人はいつ来てもいるが、授業とかどうしているんだろうか。

「お、来ましたか。案の定今回も大炎上していますね」
「・・・そうみたいですね」
「お騒がせ王子ですか・・・言い得て妙ですね」

谷垣さんは満足そうに頷いている。

「そんな吞気に構えてていいの?」

国枝さんが部室に入ってくるなり、そう言った。
外に居ても中の会話が聞こえるぐらい、ここの部室の壁は薄いらしい。

「大炎上してますが、とりあえずは想定内です。我々は何度も炎上してきましたが、何度も鎮火させてきたのも事実です。こういった報道は時が経てば風化します。それより問題なのは・・・あの山形とかいう記者の記事です。あれが世に出回ったとき、我々の立場がどうなるのか、といったところでしょうね」
「私達が今回の一件に関わっていることが世に知れたら・・・批判の対象は一気に演劇サークルになる」
「その通りです。山形記者の前では啖呵を切りましたが、こればっかりはどうなるのか、記事が出てみないとわかりませんからね。下手をすると大学側から何らかの処罰を受けることになるかもしれませんね」

処罰という重い響きに私は少し怯んでしまった。
それに気づいた谷垣さんは「パン」と手を鳴らして、明るい声で言った。

「どうなるか分からないことは考えても仕方ありません。私たちは目の前のできることをやるだけです。主演俳優も張り切ってますしね」

そう言って窓の外を指差した。
窓の下を覗くと今井君が走り込みをしている。

「監禁生活で体が鈍っているそうです。かれこれ1時間はあの調子です」
「1時間・・・!?」
「・・・陸上部にでも入るつもりでしょうか」

さすがに心配になった国枝さんが窓から乗り出した。

「おーい!そろそろ休憩しないと体がぶっ壊れるぞー!」

国枝さんの声に気が付いた今井君は、足を止めて顔を上げた。
私達3人が見下ろしてることに気づき、笑顔で親指を立てた。
「大丈夫」ということなのだろうか。

「仕方ありませんね。我々も行きますか」
「・・・はい!」
「なんか陸上部みたいね・・・」

私達は今井君と合流して走り込みをした。
今井君がいない間もランニングは欠かさなかったが、今日は一段とペースが速くて、ついていくのがやっとだった。
もしかしたら、みんな心の底では不安を抱えているのかもしれない。
その不安を払拭するかのように坂道を駆け抜けた。
私は途中で走れなくなって、アングラの前にへたり込んでしまった。
それに気づいた今井君が隣に駆け寄って座った。
谷垣さん、国枝さんの2人はまた、坂道を下って行った。

「ごめん・・・少し休んだらすぐ行くから、今井君は先行ってて」
「俺もちょっと休憩。先に走りこんでだからね」
「そっか。・・・なんか今日、いつにも増してペースが速いよね」
「やっぱり・・・?ブランクがあるからそう感じるだけかと思った」

「ちょっと安心した」と今井君は青空を見上げた。
それに倣って私も空を見上げた。
ふんわりと浮かんだ雲がゆっくりと動いている。

「・・・ありがとう」

今井君がぼそっと呟いた。
聞き間違いかと思い、今井君の方を見た。
まだ空を見上げている横顔は、鼻筋から顎、首のラインがとても美しかった。

「白石さんが記者会見にいることに気づいたとき、すごく嬉しかった。本当は心の中で助けに来て欲しいってずっと念じてたんだ」

空を見上げたまま「格好悪いよな」と言って笑った。
「そんなことないよ」という私が言っても、首を横に振るだけだった。

「待ってて、て言ってここから飛び出したのにさ。結局、助けに来てもらってるんじゃ世話ないよ」
「それは・・・仕方ないよ。あんな状況じゃ、誰でもそうだよ」
「そうかな・・・」
「そうだよ・・・」

しばらく沈黙が続いた。
雲はゆっくりと空の上を流れていくだけだった。

「私はずっと、待ってたよ。今井君のこと」
「・・・ありがと」
「だから、帰ってきたらね。おかえりって言おうと思ってたんだ。でも、バタバタしちゃってて言いそびれちゃった。だから、改まって言うのも変な感じだけどさ」

私は今井君の横顔に向けて「今井君」と呼びかけた。
今井君がこちらを向く。
目と目が合う。

「おかえり」

今井君は照れ臭そうにはにかんで笑った。

「ただいま」

数秒、見つめ合った。
それだけで、これまで今井君が居なかった空白の時間が埋まるような気がした。
ほんの数秒のことなのに、目を合わせているのに耐え切れなくなって、目を逸らして息を大きく吐いた。

「やっと言えた・・・」

漏れ出た声に、今井君が可笑しそうに笑う。

「そんなに言いたかったの?」
「笑わないでよ。今井君がいない間、帰ってきたらちゃんと出迎えるんだって決めてイメージトレーニングしてたんだから。本当はもっとロマンチックな再会になるかと思ってたんだけどさ」
「現実はイメージするほど綺麗に収まらないもんだね」

そう言って今井君はまた遠くの空の雲を見上げた。

「でも、こうして2人でゆっくり雲を眺めている時間だって、俺にとっては大切な時間だけどね」
「・・・え?」
「へたり込むほど走った後、2人並んで見上げた雲はこんなに綺麗だった。その思い出を共有してるだけでさ。特別な気がするんだよ」

そう言われて雲を見上げた。
確かに、普段は何とも思わない雲も、こうして今井君と一緒に見ると違うように見える気がする。
それからは特に会話もなく、ただゆっくりと動く雲を眺めていた。
そこへ、国枝さんが走って上がってきた。

「そこ!いちゃついてんじゃないわよ!」
「「いちゃついてないですよ」」

私たちは声を合わせて立ち上がった。
その姿を見て、国枝さんは噴出した。

「あんたたち、息ぴったしじゃん」
「いいコンビになってきましたね」

国枝さんの背後から谷垣さんが顔を出した。

「さ、休憩が済んだら部室で台本を配りますよ」
「もう出来たんですか?」
「細かいところはまだ決まっていませんが、おおまかな流れは作りました。あまり時間がないですから、プロットの段階でお渡ししておきます」

部室に戻ると台本のプロットが谷垣さんから配られた。
と言ってもA4用紙一枚に大まかな設定等が書かれているものだった。

「すみません、まだこれだけしか出来てなくて・・・」
「いや、一晩でこれは十分凄いですよ」

今井君の声にお世辞の色は感じられない。
心から出た言葉だろう。
演技すらままならない私からすると、台本だとか設定だとかを考えてくる谷垣さんは異次元の存在に思えた。

谷垣さんは頭を掻きながら苦い顔で言った。

「いや~、設定は考えたんですけどね。やっぱり肝心のメッセージの部分がどうしても思いつかなくて」
「メッセージ・・・?」
「はい。今回は今井君のお母様に向けた特別な公演になります。以前、お母様との関係についてお聞きしましたが、やはり、赤の他人である私が想像で創るのには限界があります。そこで・・・」

谷垣さんは手のひらを上に向けて、今井君の方を指した。

「今回の肝のセリフの部分は、今井君にお任せしようと思っています」
「僕が・・・?」

急な指名に今井君は驚いている。
でも、今井君のお母さんに向けた公演なのだから、今井君の言葉で伝えられるのが一番良いという気もする。

「お受けいただけますか・・・?」
「僕にできるでしょうか」
「いつになく弱気ですね・・・。唐沢マリンの時には即興で演じることができました。あなたの言葉には聞いている人の心を打つ力があります。大丈夫、自分に力を信じてください」

今井君は俯いたまま、何か考えている様子で「少し、考えさせてください」と答えた。

「もちろん、今すぐに考えろとは言いません。公演に間に合えばそれで結構です。じっくりと考えてもらって、納得のいく言葉を紡ぎ出してください」
「・・・わかりました」

こうして、学祭公演の一番大切な台詞は今井君が考えることになった。
それからは、発声練習をしたり、プロットを読み込んだり、演技プランを確認したりと、各自思い思いの自主練に移った。
国枝さんが声を上げたのは、日が暮れた頃だった。

「これ、山形の記事じゃない・・・?」

その声に皆が手を止めて、国枝さんの元に集まる。
国枝さんはスマートフォンをみんなに見せた。
画面には「【独占取材】今井ホールディングス御曹司、取締役就任延期の裏側ーお騒がせ王子の真実とはー」という見出しのネットニュースが映し出されていた。

「・・・読み上げるわね。『昨日、今井ホールディングスの御曹司、今井トウマ氏の取締役就任会見が開かれた。しかし、この会見後、すぐに取締役就任は撤回された。この一件は昼のワイドショーでも”お騒がせ王子”と称されて大きく取り上げられている。取締役就任延期の裏側に迫る』」
「意外と固い文章ですね。本当に山形記者ですか?」
「この後、私達のことが書かれているから、山形記者で間違いないと思う。『会場では大学生の集団が目撃されている。聞けば、今井トウマ氏の友人だという。彼らは取締役就任を阻止するために記者会見に紛れ込んだものだと思われる。会見直後、この大学生の集団と今井社長の間で何らかのやり取りがあり、その後、今井トウマ氏の取締役就任延期が発表されたという筋書きだ』」
「・・・ここまでは正しい情報ですね」
「大学生の集団というのは、ちょっとネーミングセンスがないですね。我々にもお騒がせ王子みたいな愛称が欲しいものです」

谷垣さんの冗談に、今井君は苦笑いをした。
国枝さんはその冗談を無視して、厳しい口調で続けた。

「問題はこの後よ」

続けて国枝さんが記事を読み上げる。

「『一度決定した取締役就任を延期にするという決断を下した今井社長。学生集団と一体、どのような取引が行われたのか。学生集団の中には、若い女性の姿があった。これは極秘ルートで入手した学生集団のうちの一人の写真である」

記事には黒い棒で目元を隠された女性の写真が掲載されている。

綺麗な鼻筋と美しい顎のライン、これは・・・。

「国枝さん・・・?」
「多分、記者達を引き付けてあんた達を控室に行かせている間に撮られたんだと思う」
「やはり出回りましたか・・・。方々手を尽くして食い止めたつもりだったんですが・・・」
「食い止めたって・・・どういうことよ?」
「あの時、会見に出席していた記者達の会社を調べて、写真を記事に使ったり、二次利用することはやめるようにお願いしたんです。聞き入れられない場合は、写真を買い取りました」

谷垣さんがそんなことをしていたなんて気が付かなかった。
昨日は確かお酒を飲んで酔っ払っていたはずだ。

「山形記者に先を越されたか、別のパイプを持っていたか・・・。とにかくこうやって写真が出回ってしまったのは私の責任です」

「すみません」といつになく真剣に謝る谷垣さんを、国枝さんは咎めることはしなかった。

「まあ、今回はよくやった方よ。それにしても山形って記者のやり方が気に食わないわ。何か仕返しができないかしら」
「仕返し・・・?」
「そう。山形の記事が嘘だってことを証明するの」
「うーん・・・それってかなり難しいような・・・」

今井君は考え込んでいる私たちに諭すような声で言った。

「仕返しなんてすれば、また恨みを買って変な記事を書かれるよ」
「その通りです」

谷垣さんが続けた。

「相手を憎み、陥れることは簡単です。しかし、我々は曲がりなりにも舞台に立つ人間です。疑いがあるなら、舞台で証明してやりましょう。そんな記事、吹き飛ぶぐらいの最高の芝居をして」
「・・・それって」
「そう。演劇の力で山形記者を超越するんです」
「そんなこと・・・」

そう呟いたのは国枝さんだったが、私も「そんなことできるはずない」と思った。

「できません・・・今のままではね」

谷垣さんが国枝さんの言葉に続けた。

「台本を大幅に修正します。今回の事件を絡めて、一本のお芝居を作り上げます。皆さんも一から役作りをしてもらいますよ」
「ええ?今から」
「ええ。今からです」
「そんな・・・そもそも台本の修正なんて、間に合うんですか?」「むしろどんどんアイデアが沸いてます。今晩にでも台本は仕上げます」

そう言ってパソコンに向かい、タイピングし始めた。
後ろから覗くと、台本の修正に取り掛かっているようだった。
国枝さんはため息をついて、私達を見た。

「こうなったら喋りかけても返事しないから」
「すごい集中力ですね」
「悪だくみだけは一流なのよね」

これから台本が大幅に変わるということもあり、その日は解散となった。
話しかけても返事をしない谷垣さんと、少しやることがあるという国枝さんを部室に残して、私と今井君は部室から出た。
しんと静まり返った暗い階段を2人並んで降りていく。

旧サークル棟・アングラの階段は薄暗く、切れかかった蛍光灯が不規則に足元を照らしていた。
心細さからか自然と2人の距離は近くなる。
あの記事のことを今井君がどう思っているのか気になった。

「あんな風にあることないこと書くのって最低だよね」
「・・・うん。でも、世間に迷惑かけてるのは事実だし。俺のこといろいろ書かれちゃうのも仕方ないって思ってる」

今井君の声が暗い階段の踊り場に響く。

「でも・・・国枝さんの写真が出回ってあんな風に書かれたのは許せない。だから・・・」

今井君は階段の途中で立ち止まって言った。

「学祭、絶対成功させよう」
「うん」

そう言うと、今井君の顔に笑顔が戻った。

「なんかお腹すいちゃったなー」
「そういえば、稽古に集中してて何も食べてないね」
「ちょっとコンビニ寄ろっか」

私達は大学の近くのコンビニで肉まんとコーヒーを買って、河川敷のベンチに腰掛けた。
夜の河原は人気がなく、ただ川のせせらぎが聞こえてくるだけだった。
川の向こうにある家やアパートの部屋は所々電気が消えていた。
きっともう寝ている人もいるんだろう。
こんな時間に2人だけで肉まんを食べるという状況が、なんだか悪いことをしているみたいで少しドキドキした。

「夜中にさ、外で食べる肉まんって異常に美味いんだよね」
「私、こうやって外で食べるの初めてかも・・・でも、なんかわかる気がする」

そう言って、私は肉まんを一口食べた。
その様子を今井君が覗き込んでいることに気が付き、少し恥ずかしくなる。

「どう?外で食べる肉まんは?」
「う・・・ん。まだ、餡に到達してないから何とも・・・」

私が齧った肉まんを見て、今井君はくすっと笑った。

「そうだよね。肉まんはさ、こうやって半分に割って食べれば最初から餡を楽しめるよ」

そう言って、肉まんを2つに割った。
中から白い湯気とともに中華餡の香りが立ち上り、さらなる食欲を搔き立てる。
私も真似して肉まんを2つに割って食べた。
ジューシーな豚肉と甘じょっぱい味付けが口いっぱいに広がる。

「美味しい・・・今までで食べた肉まんの中で一番かも」
「そうでしょ?やっぱり、夜中に外で食べる肉まんは格別なんだって」

私の反応に満足したように、今井君も肉まん食べ始めた。
私が食べるのを待っててくれてるのが、ちょっと可愛いなと思った。
自分が勧めたものにどんな反応をするのか、それを確認してから食べたかったのだろう。
今井君にもそんな一面があると知って、少し嬉しくなった。

確かに、夜中に外で食べる肉まんは格別だった。
でも、夜中で外だから、だけじゃないことに薄々私は気づいていた。
きっと、今井君が隣にいるから、こんなに美味しいんだ。
1人で食べてたら、こんな気持ちにはならないはずだ。

その気持ちを言葉にしたら、今井君はどんな顔をするだろうか。
隣で美味しそうに肉まんを食べる今井君の横顔を見ていたら、今はまだ、このまま、こうして居られれば十分だな、と思い、肉まんを頬張った。

次の日、午前中の講義を終えて、食堂に向かうかコンビニで済ませるか考えていると、後ろから声をかけられた。
聞いたことがある甲高い声に嫌な予感と共に振り返ると、唐沢マリンが立っていた。

「約束通り、今井君を連れて帰ってきたようね」
「あ、その節はどうも・・・」

私が会釈をしようとするのを右手で止めた。

「お礼は結構。別にあなたのためにやったことじゃないんだから。それより、今井君が大学に帰ってきんだから容赦しないわよ」
「容赦って・・・」
「あなたがぼーっとしているうちに、今井君は私のものになるってことよ」
「そんな・・・物みたいに言うのはやめて」
「あら・・・?いつから今井君の女みたいな態度になってるの?今井君を取り戻したからって調子に乗ってんじゃない?あなたなんて今井君と釣り合うわけないんだから」

唐沢マリンは喋っているうちにヒートアップしてきたので、私は俯いてやり過ごした。
この人はやっぱり苦手だ。
唐沢マリンは鼻息を深く吐き出すと、仕切り直しとばかりに話題を変えた。

「まあいいわ。今日は宣戦布告に来たの。私はこれに出て優勝するんだから」

手に持ったチラシを見せつけてきた。
そこにはキラキラしたフォントで『ミスコン』の文字が踊っている。
投票で大学の中でNo. 1の女子を決めるイベントのことだ。
噂には聞いていたが、そんなものが本当に存在していることに寒気を覚える。

「ミスコンに優勝したら今井君を迎えに行くの」

唐沢マリンはうっとりと妄想を浮かべているようだ。
どこまでも痛々しい人だ。

「お言葉ですが・・・今井君はミスコンで優勝するような子、タイプじゃないと思うんだけど」
「あら?あなたは何も知らないのね。うちの大学のミスコンで優勝すると権利が与えられるのよ」
「権利?」
「好きな相手と1日デートする権利よ」
「は?」
「この権利を使って今井君を指名するつもり。デートで距離を縮めて一気に今井君を私の物にするんだから。舐めた口聞いてられるのも今のうちよ」

そう言い残すと、唐沢マリンは高笑いをしながら去っていった。
短時間でこんなに人を疲れさせるのは一種の才能だと思う。
その時、また背後から声がした。

「ふうん、あの子ミスコン出るんだ」

振り向くと国枝さんが笑みを浮かべていた。

「聞いてたんですか?」
「途中からね。唐沢マリンが舐めたこと言ったら飛び出してやろうかと思ったけどその心配はなかったみたいね。あんた、ちゃんと言い返してたじゃん」

国枝さんは「成長したじゃん」と言って、私の頭をわしゃわしゃっと撫でた。

購買でパンを買った後、私たちは旧サークル棟・アングラへ向かうことにした。

「ほんと口悪いよね、唐沢マリン。友達とかいるのかな」
「会うたびに嫌味ばっかり言いますもんね」

「だよね」と国枝さんは笑い飛ばした。
そんな国枝さんを横目に見ながら、私は言った。

「まあでも・・・悪い人じゃないですから」

唐沢マリンが助けてくれなければ今井君の記者会見に潜入することはできなかった。
真意はどうあれ、そのことについては感謝している。
国枝さんは私の顔を見つめて、私の考えを確認したいような顔をした。

「本気で言ってんの?あいつアングラを爆破しようとしたんだよ?未遂で終わったから何とかなったけど、あのまま爆破されてたら立派な犯罪者だよ?」

確かに唐沢マリンは目的の為なら何でもする女だ。
爆破予告のことを思い出して少し背筋が凍った。
そんな人間に対して挑発的な発言をしたと思うと少し怖くなる。
でも・・・それでも、私は信じたい。

「きっと唐沢マリンも変わろうとしてるんだと思います」
「そうなのかな・・・。人ってそう簡単に変われるもんかな」
「変われますよ。少なくとも私たちが演劇の力で魔法にかけたんだから悪い魔女だって改心しますよ」
「演劇の力ねぇ。あんたもすっかり谷垣信者になっちゃったもんだわ」

国枝さんは私の背中をバンバンと叩いて笑った。
「そんなんじゃないですって」と抗議しても、お腹を抱えたまま笑った。
何がそんなに壷に入ったのだろうか。
笑い終わった後で、「ふーっ」と息を吐いてから言った。

「でもさ、あんたのその考え嫌いじゃないよ。私はいろんな悪意にさらされて生きてきたからさ、考え方が曲がってるだけかも。あんたみたいに馬鹿正直で素直に物事を捉えることって大事だと思う」

褒められているのか貶されているのかわからなかったが、国枝さんはとにかく機嫌が良かった。

「私も負けてらんないな。後輩がこんなに成長してるのに、何も変わらないって恰好悪いからね」
「そんなことないですよ。国枝さんはそのままでも十分」
「いや・・・私には私の向き合わなきゃいけないことがあるんだよ。でも、今決めた。ちゃんと向き合うって」

国枝さんの言っていることが何を意味するのか、この時の私にはわからなかった。
だけど、国枝さんの前向きな姿を見ると私も嬉しくなった。

「よし。アングラまで走るか」
「え・・・?」
「ほら、置いてくぞ」

いきなり走り出した国枝さんの背中を追って、パンが入ったビニール袋を揺らしながら、アングラに続く坂道を駆け上がった。

それから私達は、来る日も来る日も稽古に励んだ。
今井君のお母さんに向けて今井君の想いを届ける為に、そして山形記者に一矢報いる為に。
それぞれ、さまざまな想いを持ちながら稽古に臨んだが、最終的にはそんな目的なんて忘れてしまうぐらい演劇に没頭していた。
何かに熱中する時間は、悩みや苦しみから解放されるものだ。
みんなで演劇を作っている時間が尊くて、私はしばしば口元が緩んでしまっていた。
その度に、今井君の家庭のことや山形記者のことを思い出して気を引き締めていた。
それでもやっぱり今が楽しい。
今、演劇に熱中できる時間がなによりも嬉しい。
演劇サークルのみんなには申し訳ないけど、私にとってはそれだけで十分幸せだった。
そんな楽しい時間はあっという間に過ぎていった。

「いよいよ、学祭公演ですね」
「台本が出来てからはあっという間でしたね」
「白石さん、今回は台詞、問題なく覚えられましたね」
「はい。一人で覚えるより掛け合いながら覚える方が覚えやすいってことに気づいたので、前回みたいに躓きませんでした」

学祭公演当日、私と谷垣さん、そして今井君は部室を楽屋代わりにして公演開始まで待機していた。

「それで、今井君のお母さんは来てるんですよね?」
「はい。最初は断られましたが、父の協力もあって何とか来てもらうことになりました。山形記者の方はどうですか?」
「メールに返信がなかったので来ないかと思いましたが、さっき喫煙所で見かけました。よほど暇なのかこちらが巻いた餌に釣られたのか・・・いずれにせよ、これで役者は揃いましたね」

控室代わりとなった部室に国枝さんが入ってきた。

「同じ学科の子に受付代わってもらったんだけど、結構お客さん入ってるみたいよ。ほぼ満席だって」
「ほんとですか?」
「色々と注目を集めてますからね〜」

確かに、今井君と私のキスシーンの動画をSNSに上げて炎上したり、爆破予告を受けたり、今井君の取締役就任取り止めが話題になったり・・・ここ半年、大学は常に演劇サークルの話題で持ちきりだった。
演劇サークルがまた何か面白いことをやってくれるんじゃないか、集まったお客さんはそんな期待をしているのかもしれない。
純粋に演劇を楽しみにしている人なんてごく少数かもしれない。

「ま、何が目的だとしてもお客さんはお客さんです。冷やかしのお客さんまで虜にするのが一流の演技です。今までやってきたことを満席のお客さんにぶつけましょう」
「「はい!」」

私と今井君の声が重なった。

開演まであと10分。
やれるだけのことはやった。
緊張して早くなる鼓動を抑えながら、私はステージ裏の袖に向かった。



学祭公演が終わって、一通りの片付けを済ませると、私は部室に戻った。

「お疲れ様でした。最高のお芝居でしたよ」

谷垣さんが声を掛けてくれる。

「いえ、私なんてまだまだ・・・」
「そう謙遜なさらずに。今日の白石さんのお芝居には何か深みのようなものを感じました。それはきっとあなたが人間的に成長している証拠です」

たしかに演劇サークルに入ってから数ヶ月経って、いろんなことが起きた。
その度に、驚いたり、怒ったり、悲しかったり、寂しかったり、笑ったり・・・色んな感情が育まれた。
それを今日の舞台にぶつけたつもりだ。
自分で意識したところを褒められて、頬が緩んでしまう。
それを見破られないように、話を逸らす。

「ところで・・・国枝さんは?」
「なんか用事があるとか言って飛び出して行きましたよ」
「そうですか・・・今井君も両親と話してくるって言って出ていっちゃいました」

さっきまで4人集まって学祭公演をやっていたことが嘘みたいに、部室は静かだった。
なんだか祭りの終わりみたいで、寂しく感じた。
私の表情からそれを察したのか、谷垣さんが笑いながら言った。

「ずいぶん寂しそうですね」
「いえ・・・ただ、なんていうかこう・・・終わっちゃったんだなって・・・」
「それも頑張った人にだけ与えられる特別な感情です。その言葉にできない感情を大事にしてください」

谷垣さんはなんだか嬉しそうに笑う。
ひとが感傷に浸っているというのにこういう顔をするのがこの人の悪いところだ。
だが、不思議と悪い気はしない。
きっと谷垣さんも似たような思いを抱いていることに私も気づいていたからだ。

「さて、と」と谷垣さんが立ち上がる。

「どこか行くんですか?」
「ええ。学祭公演は無事終わりましたが、学祭の催物はまだまだこれからが本番ですから」
「はあ・・・学祭公演の準備に夢中で他のイベントのことなんて何も考えてなかったです」
「それじゃあ、一緒に行ってみますか?」
「どこに?」
「学祭のメインステージですよ」

学祭実行委員会に所属しているユミから貰ったパンフレットによると、キャンパスの中心にある図書館の目の前に特設ステージが設けられていて、そこでは軽音楽部のバンド演奏や落語研究会のお笑いステージ、手品同好会のマジックショーなどが行われるようだ。
少し空いた窓からその賑やかな雑音が漏れ聞こえてくる。

「失礼ですけど・・・谷垣さん、こういうのに興味があったんですか?」
「それ、どういう意味ですか?」
「いえ・・・てっきり演劇にしか興味がないのかと」
「失敬な!私だってちゃーんと世の中のエンタメをおさえていますとも」
「・・・失礼しました。でも、もう結構いい時間ですし、イベントもあんまりやってないんじゃないですか?」
「何を言ってるんですか!これからメインイベントが始まるんですよ」

私はメインステージのタイムスケジュールに目を落とす。
キラキラしたフォントで書かれた『ミスコン』という文字が目に留まる。
まさかと思って谷垣さんの方を見返すと、笑顔で頷いた。

学祭のメインステージでは、青色の法被を着た学生がマイクを握り司会進行をしていた。
メインステージの周りには、人だかりができている。

「さあさあお待ちかね!学祭のメインイベントと言えば〜?」
「ミスコン〜!」

司会の学生の呼びかけに、観客がまばらに応える。
一部の学生は盛り上がっているようだが、少し離れたところから腕組をしながら冷めた目で見ている人たちもいる。
こういう集まりに喜んで参加する人の気が知れない。
谷垣さんはどう思っているのか気になり、顔を覗く。
谷垣さんはこちらの視線に気が付いて、少し小声で言った。

「面白いでしょ?」

意外な言葉に私は反発してしまう。

「どこがですか!」
「ここにはいろんな学生がいます。前ではしゃいでいる人、後ろで冷めている人・・・みんなうちの大学生ですよ?普段はみんなゾンビのような顔で授業を受けている」

そう言われてみると、この人達が普段からこの大学にいるようには思えない。
むしろ学祭の時だけわざわざ呼んで来てもらっていると言われた方がしっくりくる。

「あの司会者の人もそうです。あれも司会者という役を演じているんです。もちろん、その役に向いているということはあるんでしょうが・・・あの人だって静かに本を読んだり、誰とも話したくない日だってあるはずです」

法被を着てマイクを握る司会者が、部屋の隅で本を読んでいるところを想像してみる。
はたして彼にそんな瞬間があるのだろうか。

「白石さん。みんな何かの役を演じているんですよ。」
「そういうものですかね・・・私にはあの人はずっとお茶らけて生きてきたように思えますけど」
「たまにそういう人もいますけどね。そうだとしても悲しいことがあれば泣くし、腹が立てば怒るでしょ?」

今度は司会者が泣いているところを想像する。
それは想像できなくもない。

「そういう意味では、あの人のあの演技・・・参考になりますよね。白石さん、あなたはあのステージの上でああやって騒いだりできますか?」
「それは・・・できる気がしません」
「ですよね。私でも怪しいです。そういう意味では、とても勉強になるかと」
「はあ・・・」

谷垣さんの言う面白いという言葉の意味は、案の定演劇に纏わることだった。
分かったような分からないような気持ちで話を聞いているうちに、イベントが進行していく。

「それでは、エントリーナンバー1番の方、お願いします!」

司会者が高らかに呼び込み、袖から派手な格好の女子学生が堂々とステージに上がる。

「エントリーナンバー1番、唐沢マリンです。モデルのお仕事をやっています」

堂々とした足取りでステージに上がった唐沢マリンは大胆なスリットの入った真っ赤なドレスで、ポーズを決めると、前方に群がる男子学生が湧き上がる。

「マリン様〜!」
「ウインクください!!」

よく見ると、唐沢マリンとデコレーションされたうちわを手にしている。
唐沢マリンがライブ配信をしていたときのコメント欄を思い出す。
こうして目の当たりにすると、男子達の熱狂ぶりに圧倒される。

「案外人気ですよね、唐沢マリン」
「ルックスだけはいいですからね。性格は別として」

ステージの上で盛り上がっている様子を遠巻きに見ていると、それに気がついた唐沢マリンがこちらに挑発的な視線を向ける。
勘違いをした男子生徒が「ふぅ〜!」と声を上げる。

「それでは唐沢さん、意気込みをどうぞ」

司会者がコメントを促した。

「絶対、グランプリを取りたいです。投票お願いします!」
「すごい熱意ですね〜。誰かデートしたい人がいるんでしょうか?」

男子学生が「おおー!?」と湧く。
私はミスコンのチラシに目を下す。
『グランプリには副賞として好きな人とデートができる権利が与えられます!』と書かれた文字を読んで頭を抱える。

「これ・・・本当なんですかね?」

谷垣さんにチラシを見せると、「ああ」と何でもないように答える。

「毎年の恒例ですね。ミスコンの優勝者とデートした人は必ずカップルになる、なんていうジンクスまであるぐらいです。もちろん、指名された男性は断ることはできません。何故ならこの大学で一番人気の女性の誘いを断ったりなんかすれば、大学中の男達の恨みを買ってしまいますからね」

そう言って大笑いした谷垣さんを見て、私は少し苛立つ。
他人事だと思って、呑気なことを言っているのが腹立たしい。
もし、唐沢マリンがグランプリになったら・・・。

「私がグランプリになったら指名する人は決まっています。それは・・・」
「あーーっと唐沢さん!指名する男子はグランプリになってから、ね!それ最後まで引っ張らないと」

男子学生達が「えーーーーー」と残念そうな声を上げる。
唐沢マリンがグランプリになったら、十中八九今井君を指名するはずだ。
以前会った時に本人から宣戦布告を受けたのだから間違いない。
こんな場で指名なんかされたら、今井君でも断ることができないだろう。
私の不安そうな顔に気がついて、谷垣さんが言った。

「今井君が取られちゃうんじゃないかって、不安になってますか?」
「えっ・・・いや、そんなんじゃ・・・」
「大丈夫ですよ、きっと」

谷垣さんは何を根拠にこんなことを言っているのだろうか。
現に多くの男子達が有らん限りの盛り上がりを見せていることからも唐沢マリンの人気は明らかだった。

学祭スタッフの指示で唐沢マリンが所定の位置に着くと、次の候補者が呼び込まれる。
教育学部の2年生だ。
キャンパス内で見かけたことはないが、大人っぽい雰囲気の綺麗な女性だ。
軽く自己紹介をすると、唐沢マリンほどではないが、会場は盛り上がりをみせる。
次の候補所が現れても私の不安は拭い切れない。
谷垣さんは何を根拠に大丈夫だと言っているのだろうか。
横目に谷垣さんの表情を読み取ろうとするが、へらへらと笑っているだけで思考は読み取れない。
ふと、今井君のことが気になった。
ご家族との話は終わったのだろうか。
もしかしたら、話が長くなって、その足でどこか食事に行っている、なんてこともあるいかもしれない。
考えてみれば、当の本人がこの場にいないのであれば、唐沢マリンが今井君をデートの相手に指名したとしても、あまり意味がないのではないか。
学祭が終わってから、今井君に事情を説明したとしても、知らぬ存ぜぬで逃げ切れるのでは・・・などという淡い期待を抱いていたのだが、3人目の候補者がステージに現れたときにその期待は泡となって消えた。

「こんなところにいたんですね・・・部室に帰ったら誰もいないから、探しましたよ」

まさかと思って声のした方を見ると今井君が谷垣さんに話しかけている。

「それは申し訳ございませんでした。それで・・・ご家族とは話ができましたか?」

今井君がこの場に現れても谷垣さんに動揺した様子はない。

「おかげさまで・・・母とも向き合うことができました」
「そうですか。ああいう形のエンディングにしたので、ちゃんと伝わるか心配していたのですが」
「ちゃんと伝わったみたいです。むしろ、ああいうポップな感じが説教臭くなくて効果的だったみたいです。メッセージを押し付けるような形だったら反発を生んでいたかもしれません」
「なるほどなるほど・・・」

今井君のご家族の問題は私も心配していたので、少し安心した。
心なしか今井君の表情も明るい気がする。
谷垣さんとの会話が終わると、今井君は自然と私の隣に並んだ。

「これ、ミスコンだよね・・・」
「うん。谷垣さんが見たいって言うから・・・」

私の趣味ではないということを強調しておきたい。
結果が気になるのも確かだが・・・。

「え?唐沢マリン?」
「そうなの・・・」

真っ赤なドレスを着た唐沢マリンが今井君の存在に気が付いた様子でこちらに向かってウインクする。
前方の男子たちがやはり勘違いをした様子で盛り上がりに拍車がかかる。

今井君は苦い顔でステージを眺めている。
唐沢マリンの今井君への執着は歪で、一時はアングラを爆破しようとまでしたのだ。
たとえ彼女がミスコンで優勝したとしても今井君がなびくはずはない。
それでも、唐沢マリンが今井君とデートに行くのは嫌だ。
きっと唐沢マリンはどんな手を使っても今井君を自分のものにしようとするはずだ。
そんなの考えたくもない。

「それでは、最後の出場者の紹介です」

司会者がステージの少し下を見ながら言った。
きっとカンペがその辺りに置いてあるのだろう。
演劇をしている身からすると、少し格好が悪いように見える。
そんなどうでもいいことを思っているときだった。
唐沢マリンの時よりも大きい歓声が上がって、ステージに目を凝らす。

「え・・・?」
「あれは・・・」

今井君と私が顔を見合わせる。
今井君の隣にいる谷垣さんが「さすがですねぇ」と笑みを溢した。

「演劇サークルの国枝ヒトミです。趣味はお酒を飲むことです」

ステージ前方の男子だけでなく、後方の観覧客も歓声を上げながらステージに近づいていく。
国枝さんは真っ黒なドレスを見に纏い、モテオーラ丸出しのままミスコンの舞台に立っている。
さっきまで王妃役をしていたとは思えない・・・いや王妃の役もそれなりに気品があったのだが、それとは全く違う色気を発している。
盛り上がる観客の様子を見て、唐沢マリンが顔を歪めている。

「それでは国枝さん、意気込みをどうぞ」

司会者に促されて国枝さんはマイクに向かって語りかけた。

「私は、いつも地味な格好をしています。こんなドレスとか・・・人前で着るなんて、ステージの上だけです。国枝ヒトミとして、こんな煌びやかな恰好をするのは久しぶりです」

少し間を置いたが、話に続きがあることを察したのか、タイムスケジュールが巻いているのか、司会者は国枝さんの話の続きを待った。

「私が地味な格好をしているのは、誰かに思いを寄せられるのが嫌だったからです。思いを告げれられて、断るのが嫌だったから・・・」

その言葉に盛り上がっていた男子達が静かになる。

「でも・・・そんな私にも、この人にだったら心を開いてもいいかなって思える人ができました」

一度静かになった観客達がざわめき始める。
100人殺しの国枝ヒトミに思い人がいたことに驚きを隠せない様子だ。

「こうなってはじめて、今まで私に告白してきた人達の気持ちがわかった気がします。恋をするのって辛いし、切ないけど・・・それでもその人のことを思うとすごく幸せなんだって気付きました。だから・・・」

国枝さんは顔を上げる。
一瞬こちらの方・・・いや、すこしだけ横を見た気がする。

「だから私はミスコンに出ることにしました。今日は優勝するつもりです」

国枝さんの言葉に困惑していた観客がまた湧き上がる。

「さあ、候補者が出揃いましたので、アピールタイムに入ります。それではエントリーナンバー唐沢マリンさんお願いします」

髪をかき揚げながら、唐沢マリンがステージの真ん中へ歩く。
マイクスタンドの前に立ち、喋り始める。

「アピールの代わりに、重大発表をしたいと思います」

前方の男子生徒が「うぉぉぉぉ!」と雄叫びを上げる。
私は今井君と顔を見合わせて首を捻った。
一体なんの発表があるのだろうか。

「さっきも言いましたが、私はモデルをやっています。親の反対が厳しくて、肌の露出を控えてきました。でもーーーーー」

おもむろに真っ赤なドレスを脱ぎ始める。
男達の声が雄叫びを通り越して絶叫に変わる。
少しでもステージに近づこうと男達がおしくらまんじゅうをしている。
どこかの国の暴動のような光景だ。
真っ赤なドレスを脱ぐと、白い肌に映える黒いビキニが姿を現した。
男達の視線と絶叫を一身に浴びて、満足そうな表情で唐沢マリンは言った。

「私、唐沢マリンは本日からグラビアデビュしまーす!」

唐沢マリンの言葉にステージ付近の男たちはお祭り状態だ。

「なにそれ・・・」

呆れて思わず口に出てしまった。
隣の今井君も同様に絶句している様子だ。
こういうのをコンテストに利用するのはずるい気がする。
ムカついた気持ちを谷垣さんにぶつける。

「こんなの、いいんですか?ステージで水着になるなんてルール違反なんじゃ」
「そんなルールはありませんよ。それに・・・唐沢マリン、意外と・・・大きいですね」

谷垣さんは鼻の下を伸ばしてだらしない顔をしている。
男の人ってみんなこうなのだろうか。
今井君は違うはず・・・そう思いたい。
ステージに目を戻すと、ビキニ姿でポーズを決めている唐沢マリンの横に立つ国枝さんの表情が鬼の形相になっている。
谷垣さんが唐沢マリンの水着姿に鼻の下を伸ばしているのに気がついたのだろう。
私は急いで谷垣さんに声をかける。

「谷垣さん、顔!顔!鼻の下、伸びてますよ」
「え?あ、ああ・・・私としたことが下品な顔になっていました。普段から表情のコントロールは心掛けているのですが・・・」

その様子を見た今井君が、神妙な面持ちで言う。

「谷垣さんまで誘惑してしまうとは、唐沢マリン、恐るべしですね」

今井君のコメントは何か少しズレているような気がしたが、実際観客の盛り上がりを見ると、水着を披露すると言うことはこのミスコンという大会においてかなり大きな武器になることは明白だった。
もし、このまま唐沢マリンが優勝してしまったら・・・。
私の不安な気持ちは一層増していく。

「国枝さん・・・」

祈るような気持ちで国枝さんを応援した。

ステージの近くにはたくさんの男子学生が群がり、皆が一様に唐沢マリンの水着姿を拝んでいる。
とても大学内とは思えない光景に目を逸らしたくなる。
スマホを取り出し、写真や動画を撮り始める人も見受けられる。
これには司会者も慌てた様子で呼びかける。

「動画撮影はやめてください!」
「いいじゃない・・・私はモデルよ?好きなだけ撮ってもらって構わないわ」
「そうは言っても・・・」

司会者では判断が付かなかったのか、司会者は他のスタッフに確認を取っている様子だった。
ステージの奥にいるスタッフがOKサインを出したので、司会者が訂正をする。

「えー、ご本人も公認ということですので、写真・動画の撮影はOKとさせていただきます。ですが、他の候補者の方の撮影につきましては、本人の許可がなければ、NGということでお願いします」

司会者のGOサインに合わせて、それなら自分もといった様子で、次に次にシャッターが切られる。
先日の記者会見を思い起こされる。
横に目をやると谷垣さんもスマホを取り出している。

「ちょっと、谷垣さん!」
「いえ・・・ちょっとだけですから」

この人の撮影癖は何とかならないんだろうか。
ステージ上にいる国枝さんから厳しい視線が向けられていることに谷垣さんは気づいていないようだ。
いつもは鋭い考察をしているのに、恋愛がらみになると本当に鈍い人だ。

「なんかこれ、別の大会になってない?」

今井君が呆れた様子で呟いて、私もそれに同意する。
まともな人がすぐ隣にいて助かった。
この空間にいると、むしろ私が異質な存在なんじゃないかと思うぐらいの熱狂ぶりだった。
それぐらいに唐沢マリンはこのミスコンの空気を自分のものにしているわけだが。
それから次の候補者のアピールタイムに移ったが、観客の目は唐沢マリンの裸体に向けられていて、とてもやりづらそうだ。
水着姿に対抗できるようなアピールはできずに、3人目の候補者にバトンタッチする。
3人目も同じく、会場の空気を変えられるような武器は持っていないようだった。

「まるで会場全体が唐沢マリンのファンみたいですね」

いつの間にか冷静さを取り戻した谷垣さんが言った。
さっきまで唐沢マリンを撮影していたから説得力がないが、これには私も同意見だった。

「国枝さん・・・大丈夫でしょうか」
「大丈夫・・・と言いたいところですが、水着は破壊力抜群ですからね。さすがの国枝さんでも何か策を用意していないと、この空気に飲まれてしまいうでしょうね」

谷垣さんの不吉な言葉とともに、3人目の候補者のアピールタイムが終了した。
4人目の候補者、つまり国枝さんがステージの真ん中に歩き始める。
観客はまだ、唐沢マリンに対して視線を向けているようだった。

国枝さんがステージ中央のマイクスタンドに向かって真っ直ぐに歩く。
その優雅な歩き方は会場の空気なんて意に介していないように感じられる。
マイクスタンドの前に着いてもすぐには話し始めずに、会場の様子をじっくりと眺め始めた。

「・・・国枝さん、どうしたんでしょうか?」
「何か、考えているようですね。ただ会場を眺めているというよりは、一人ひとりの様子を観察しているようにも見受けられます。どんな客層なのか、判断して即興で何かをしようとしているのかもしれません」

この今にも湧きあがりそうな観客の前で即興で何かを披露するというのだろうか。
そうだとしたら、物凄く度胸がなければできないはずだ。
いくら国枝さんでもそんなこと、たった一人でできるのだろうか。
いつの間にか、唐沢マリンが優勝してしまうんじゃないかという不安より、国枝さんへの心配の方が勝っていた。
一通り会場を眺め終えた国枝さんは、今度は俯いて目を閉じた。
胸に手を置いて、祈っているような表情をしている。
ざわついていた観客が次第に静かになっていく。
アピールタイムにもかかわらず、マイクスタンドの前で立ち尽くしている国枝さんを不審に思い、司会者が声を掛けようと駆け寄ろうとするのを、唐沢マリンが手で制する。
司会者を見つめ、顔を横に振る。

「おや、唐沢マリンが司会者を止めてますね。まるで・・・国枝さんのパフォーマンス、この空気を壊さないように努めているように見えますが、今井君はどう思いますか?」
「どうでしょう・・・唐沢マリンが国枝さんの得になるようなことをするでしょうか?何か思惑があるんじゃ・・・」
「どんな思惑があるにせよ、あの行動が国枝さんの為になったのは確かです。見てください。あんなに湧き上がっていた観客達が、食い入るように国枝さんを見つめています。ほら、誰も余所見なんかしてないでしょう?国枝さん、何もしていないように見えて、凄い集中力を感じます。観客達も国枝さんのオーラに引き込まれて、今にも何か始まるんじゃないかという期待を抱いているようです」

谷垣さんの言葉を受け、ステージ上の国枝さんに視線を戻す。
国枝さんは目を瞑っているだけなのに、何故か切なく儚い感情が湧き上がってくる。
ステージに1人ぽつんと佇んでいる姿から目が離せなくなる。
学祭のメインステージ、ミスコンのイベントというのに、会場はしんと静まり返っている。
その場にいる全員の視線が国枝さんに注がれている。
そして、その視線を一身に受けた国枝さんがゆっくりと顔を上げた。

ステージの上の国枝さんは、一点を見つめている。
視線の先には特に何もない。
だが、まるでそこに何かが存在しているかのように、遠くの空を見つめている。
観客たちは息を飲んでその姿を見つめている。
通りすがりの人達もこの異質な状況に思わず足を止める。
そこだけ時間が止まっているかのような感覚に陥る。

それは、いつも部室で会う国枝さんとも、お芝居をしている国枝さんとも、記者会見のときにモテオーラを開放したときの国枝さんとも違っていた。
時間にすれば、数秒程度の出来事だろうが、ただ立っている人に対してこんなにも美しいと思ったのは初めてのことだった。

そこにいる誰もが国枝さんに見とれて言葉を失った。
そして、その停止した世界に動きを与えたのも国枝さんだった。
その、黒く大きな瞳から一粒の涙が零れ落ちた。
その涙はゆっくりと頬を伝い、地面に落ちた。
朝露に花弁を濡らす蓮の花を思い起こさせる、美しくも儚い涙だった。
人々がその余韻に浸っている中、国枝さんは深々とお辞儀をした。
これで国枝さんのパフォーマンスは終了という意味だということに気が付いたのは、少し時間が経ってからだった。
まるで別次元から急に現実世界に戻ってきて、頭がふわふわしているような状態だ。
我に返った観客から、長いお辞儀をしている国枝に向けて、ぱらぱらと拍手が送られる。
最初はまばらだった拍手がだんだんと伝染していき、しまいには会場全体を巻き込んだ大喝采に変わる。
それを受けて国枝さんはもう一度、軽い会釈をして、他の候補者の隣に戻る。

「圧巻の芝居でしたね」

隣にいる今井君が少し興奮気味に言った。

「ええ。素晴らしいものを見せてもらいました。国枝さんがこんな才能を秘めていたことに気が付かなかったなんて・・・私は部長失格です」

谷垣さんが「してやられた」といった表情で頭を掻きながら言った。
部長失格な部分は他にもたくさんある気がしたが、それを口にすることはしなかった。
正直私も、国枝さんのお芝居に驚いていたのだ。
というか、あれはお芝居といえるのかどうかはわからないが、それでもとんでもないものを見てしまったということだけは私にも分かる。
他の観客たちも口々に先程の国枝さんのパフォーマンスの感想を言い合っている。
興奮して言葉にならない人や、何かに例えようとして失敗している人、感動して涙を流している人までいる。
さっきまで圧倒的に唐沢マリンを応援する空気だったのが、国枝さんの話題で持ち切りになっている。

「これはひょっとすると・・・」

私が希望を胸に呟くと今井君もそれに同調する。

「優勝するかも・・・」

私と今井君は顔を見合わせる。
その今井君の顔の後ろから谷垣さんがにょきっと顔を出した。

「そうとも限りませんよ」

谷垣さんの言葉が気になって聞き返す。

「どういうことですか?」

あれだけレベル違いのパフォーマンスをして観客を魅了したのだ。
あのパフォーマンスの前には、唐沢マリンの水着など霞んで見える。
谷垣さんは人差し指を立てて、話し始める。

「これが女優のオーディションであれば優勝は間違いなく国枝さんでしょう。しかし、これはあくまでミスコンです。いいパフォーマンスをした人が正当な評価を受ける大会ではありません。審査は投票で行われますので、人気の高い人が優勝します。ご覧の通り、ここには唐沢マリンのファンがたくさんいます。この組織票をどれだけ動かせるかが勝敗の鍵を握っているのです」

谷垣さんの説明に今井君が「確かに」と頷く。

「まともな審査員が評価するのであれば間違いなく国枝さんが選ばれるでしょうね。でも・・・審査員であるここの観客達は、唐沢マリンの水着姿にあんなに湧き上がっていましたから、彼らの評価基準にあまり期待はできませんね」

確かに2人の言っていることは正しい。
正しいけど、私は同調することは出来なかった。

「私は信じたいと思います」

谷垣さんと今井君がこちらを向く。

「国枝さんを?」
「国枝さんもだけど、ここにいるお客さん一人ひとりの心を信じたい。あれだけのパフォーマンスを見て心が動かない人ばかりなんて、そんな世界は嫌だ。きっと伝わっている。そう信じたい」
「白石さん・・・」

今井君は私の方を見つめて、何かを言いかけたときに、その隣にいる国枝さんが大きなため息と共に頭を掻きむしった。

「いや〜、年を取るってよくないことですね。純粋な心を忘れ、こうやって穢れていくんですから。舞台に立つ我々が観客のことを信じないなんて言語道断ですね。今回は白石さんの言うことが正しいです。ここはひとつ、この場にいるお客さんのことを信じましょう」

言おうとしたことを取られてしまった今井君がくすっと笑った。

「確かにあの演技を見たら、きっと心が動くはず。そう信じたいね。そうでなきゃ、これから僕達がやる演劇だって、誰の胸にも刺さらないことになるからね」
「うん・・・信じよう。みんなの心を」

ステージに目を向けると司会者が進行を進めていた。

「それでは投票に移りたいと思います。お手元のスマートフォンから投票することができます。
専用サイトにアクセスしていただき、一番いいと思った人に1票だけ投票してください。最も票を集めた候補者がグランプリとなります。皆さんの投票で今年のミスコンが決定するというわけです」

司会者は会場を盛り上げようと努めるが、先程の国枝さんのパフォーマンスの影響もあってか、さっきほどの盛り上がりはない。
説明通り、皆一様にスマートフォンサイトにアクセスして、投票を開始しているようだ。

私も自分のスマホを取り出して、ミスコンチラシのQRコードから専用サイトにアクセスする。
簡単な形式のアンケートページが表示され、候補者を選択するチェックボックスが現れる。
当然、国枝ヒトミにチェックを入れて、投票をクリック。
・・・これで、後は結果を待つだけだ。
隣の2人も同様に投票を終えたようだ。

「しかし寒くないんですかね・・・唐沢マリン」

少し冷めた口調で今井君が呟く。
水着姿の唐沢マリンは、季節外れ感が否めない。
今年は少し暖かい日が続くとはいえ、半袖だと少し肌寒いくらいだ。

「確かに・・・絶対寒いはずだよね」

にもかかわらず、寒そうに肩をすぼめたりする様子は見せない。
むしろ、堂々と胸を張り、自分の裸体をアピールしているようだ。

「彼女にもそれなりの覚悟があるってことです。やり方はどうあれ、素晴らしい根性だと思います。捻じ曲がった性格は別として、彼女の勝利への強い執着は評価に値します」

確かに、私には真似できないだろう。
絶対真似したくないけど、それで今井君とデートする権利が得られるなら・・・。
いや、駄目だ。
そもそも、みんなの前で今井君を指名するなんて私にはできない。
その時点できっと、このミスコンに出場している人たちは、強い覚悟があるのかもしれない。

そんなことを考えているうちに、投票の集計が終わったようで、司会者が高らかに進行を進める。

「さあ、たった今、集計が・・・終わりました。今日、新たなスターが誕生します。皆さん、心の準備はよろしいですか?」

司会者の煽りに前方の男子学生が声を上げる。
投票を挟んで、またかなり空気が変わったようだ。
ステージ上の司会者の元に、スタッフが駆け寄り、真っ赤な封筒を手渡す。

「この封筒の中にミスコンのグランプリの名前が書かれています」

司会者は封筒を掲げ、観客に見せつける。
そして、ハサミで封筒を切る。
マイクの前で封を切っているからジョキジョキといった音がスピーカーから流れる。
そして、封を開け、中に目を通した司会者はわざとらしく驚きの表情を見せる。
「おーーーー?」と前方の観客が反応する。
それを見て満足気に微笑んだ後、目一杯息を吸い込んでマイクに向かって高らかに言い放った。

「第34回芽玖祭ミスコン優勝者はーーーーー」

両手を合わせてお祈りをする。
国枝さん、絶対優勝してください。

「エントリーナンバー4番、国枝ヒトミ!!」

発表と共にファンファーレが鳴り響き、クラッカーが鳴らされる。
観客達の温かい拍手に見守られながら、国枝さんがステージ中央に誘導される。
国枝さんは綺麗な笑みを浮かべて司会者からトロフィーを受け取る。
幸福に満ち溢れたその瞬間は、いつの間にか溢れた涙で滲んでいた。

溢れそうな涙を手で押さえる。
雫が手に染みて指先を湿らせた。
悲しみの涙とは違って心地よい温もりを感じる。
今井君の横にいる谷垣さんがスマホを確認しながら言った。

「投票の内訳が出ていますね。国枝さんと唐沢マリンは結構僅差だったみたいです。他の2人はだいぶ離されていますが」

今井君が疑問をぶつける。

「結局、お客さんの心を動かすことはできたんでしょうか?」

国枝さんが優勝したのは紛うことなき事実だが、唐沢マリンと僅差ということは心が動かなかった人も半数はいたということになるのかもしれない。

「それはどうでしょうね・・・唐沢マリンのファンは組織票としてぶ厚い層を持ってますからね。本当は国枝さんに投票したくても仕方なく・・・なんてこともあるかもしれませんよ」
「・・・そう、信じるほかないですが」

スマホを触りながら谷垣さんが答える。

「最近はSNSという便利なものがあります。ここに書かれていることが答えってことでいいんじゃないですかね」

谷垣さんに言われて、私もSNSを見てみる。

『国田ヒトミマジ神』
『国田ヒトミしか勝たん』
『マジで鳥肌たった』
『国枝って100人殺しの人?』
『唐沢マリン脱いでて草』
といったネット特有のつぶやきの中に熱のある文章が見られる。

『ミスコンは男子が女子を評価するような風潮が嫌いだった。だけど今回、国枝さんのパフォーマンスを見て、かっこいい、こんな女性になりたいと思った。』
『ミスコンのイメージ変わった。来年私も出てみようかな』

このような女性からのつぶやきが何件かあった。

「もしかして、女性の票が多く入ってるんですかね?」
「そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれません。全部憶測です。ただ記憶に残るパフォーマンスをして優勝した、それでいいじゃないですか」

谷垣さんの言葉に私と今井君は頷く。
きっとみんなの心に届いたから、国枝さんは優勝したんだ。
そう思うことにした。

私たちがそんなやり取りをしているうちに、ステージ上では受賞の段取りが進められていた。

「それでは、優勝者、国枝ヒトミさんにコメントを頂きたいとおもいます」

国枝さんは手渡されたマイクを握り、静かに話し始める。

「えー・・・演劇サークルの国枝ヒトミです。私に投票してくれた方、そして、この場にいる全員に感謝の気持ちを述べたいです。本当にありがとうございます」

先程とは打って変わって軽くお辞儀をする国枝さんに拍手が送られる。
国枝さんが決意を帯びた表情で続ける。

「最初も言った通り、私は異性から思いを告げられるのが嫌になった時期がありました」

国枝さんが話始める。
お客さんのほとんどは何の話かわからなかったはずだが、先程のパフォーマンスの後だからか真剣に聞く様子が見受けられる。

「贅沢な悩みと思われる方もいるかもしれません。誰かに好かれること、私だって悪い気はしません。ですが、それを断ることが次第に苦しくなっていきました。そんなとき、ある人に教えてもらったんです。異性から告白されない方法を」

ある人というのは谷垣さんのことだ。
演劇サークルへの勧誘をする際、言った言葉だった。
誘い文句としては変わっているなと改めて思う。

「その日からなるべく地味に目立たない自分を演出してきました。その甲斐もあってか、今ではキャンパスで見向きもされなくなって、私にとってはそれが居心地がよかったんです。だけどそれも今日でおしまいにします」

国枝さんは顔を上げる。
とても晴れやかな表情だ。

「これからは堂々と自分らしく生きていこうと決めました。だから今度は誰かから思いを告げられるんじゃなくて、自分が思いを告げる番だって・・・そう思ってます」

そう言って、息を大きく吸い込んだ。
そして、少しのけぞるような恰好で叫ぶ。

「演劇サークル、3年、谷垣ジン・・・私とデートしなさい!!」

国枝さんはやっぱり谷垣さんを指名した。
頬が緩むのを我慢しながら、横を見ると、谷垣さんがいない。

「あれ?」
「谷垣さんは?」

今井君と顔を見合わせた後、後ろを振り向くと、谷垣さんがこっそりと逃げようとしている。

「今井君、そこ!捕まえて!」

私が言うが早いか、今井君が谷垣さんに飛び掛かる。
毎日坂道で走り込みをしている甲斐もあってか、数秒で取り押さえられる。

「なんで逃げるんですか!」
「いやぁ・・・こんな場で指名されてしまうとは・・・困りましたねぇ」
「困りましたじゃないですよ、ほら!行きますよ」

少し遅れて追いついた私と今井君とで挟み込むような形で谷垣さんをステージまで連行した。
観客の隙間を縫って3人で歩いていく。
衆目に晒されて、もはや抵抗する様子はなさそうだ。
ステージの前まで連れて行っても、自分で上がる様子がないので、仕方なく3人でステージに上る。

「おおーっと!!何かと話題の演劇サークルが全員集まりました」

司会者が囃し立てて、会場からは拍手が寄せられる。
ステージの隅で立つ、水着姿の唐沢マリンが「ふん・・・」と鼻を鳴らした。
谷垣さんは「あ、どうも」と片手をあげて、苦笑いを浮かべながらお辞儀をした。

「私たちは、これで・・・」

ステージから降りようとしたところを国枝さんに止められる。

「あなたたちもここに居てよ。演劇サークルのみんなに見守っててほしいいの。ね?いいでしょ?司会者の人」
「え、ええ・・・会場も盛り上がってるし、いいでしょう」

そんなやり取りがあって、谷垣さんを連行し終わって、特にやることのない私と今井君もステージの端に立たされることになった。

「それでは、改めましてーーーーーミスコンでグランプリに輝いた国枝ヒトミさんがデートの相手に指名したのはなんとなんと!演技サークルの部長、谷垣ジンさんでした!谷垣さん、今の気持ちはどうですか?」
「いやぁ・・・こんな形で舞台に立つのは初めてですね。まさか、大学一の美女からデートのお誘いを受けるなんて、身に余る光栄ですよ、ほんと」
「そうですよね。ご自身のお名前が出たときはさぞかし驚かれたことと思います。さて、国枝さんに質問します。理想のデートプランを教えてください」
「プラン・・・?そんなまどろっこしいのは、性に合わないわ」
「あの、国枝さん?」
「私はずっと待ってたんだからもう先延ばしなんて嫌。ほら、行くわよ」

国枝さんは谷垣さんの手を取って走り出した。

「ちょ、ちょっと」

司会者の静止を振り切り、ステージを降りて観客の間をすり抜けていく。
谷垣さんも困った様子で頭を掻いているが、抵抗の意思はなさそうだ。

「どこいくんですかー?この後、写真撮影とか色々あるんですよー!」

司会者の呼びかけに、首だけ振り向いて答える。

「そういうの、私やらないから。そこの唐沢マリンって子が全部やってくれるから、じゃ、あとはよろしく」

そう言い残して本当に去っていってしまった。
ステージに残された私と今井君は顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。

「えー・・・本日の主役がいなくなってしまいました。前代未聞の大事件です。まったく、演劇サークルの皆さんはいつも事件を起こしますね」

司会者の怒りの矛先が私達に向けられる。
私と今井くんは、ペコペコと頭を下げながら平謝りをする。

「すみません、自由な人達なんです、とっても」「悪気があってやったことではないので勘弁してください」

そんな私達の姿に見兼ねて唐沢マリンがステージの中央につかつかと歩いてくる。

「それじゃあ、ミスコン優勝者から直々に指名を受けたこの私がこの場の主役を引き継ぐわ」

唐沢マリンが髪をかき上げ、ポーズを決めるとやはり前方の男子生徒達が雄叫びを上げる。

「マリン様〜!」
「最高ー!」
「一生ついていきます!」

ステージから見ていると、改めて凄い声援だなと思った。
唐沢マリンは観客の視線を独り占めにしている
司会者はインカムでスタッフとやり取りをしているようだ。
この場の収拾をどうつけるのか相談をしているのだろう。
私が辺りの様子を窺っていると、今井君が私の袖をくいっと引っ張った。
今井君の方を振り向くと、ステージの上手側を指差している。
この隙にステージから抜け出そうという合図だった。
私は静かに頷いた。

ミスコンの会場から抜け出した私達は、特に目的地もなくキャンパス内を歩いた。
学祭期間中ということもあり、キャンパス内はお祭りムード。
通り沿いには屋台が出展されていて、そういえば学祭公演の準備に終われて屋台を見て回るなんてことできてなかったな、と思った。
今井君もそれに気がづいて、「ちょっと屋台見てく?」と言ってくれた。
国枝さんと谷垣さんがどこに行ったのか気になったが、デート中の2人を邪魔するのは野暮だと思い、ここは今井君と学祭の屋台を楽しむことにした。
屋台のアメリカンドッグを買った私たちは、どこか座る場所がないか辺りを見回したが、目ぼしいスペースがなかったので、仕方なく食べ歩きをすることにした。
隣でアメリカンドッグを頬張りながら、今井君がさっきのミスコンでの出来事に言及する。

「すごかったね・・・国枝さん」
「うん・・・演技もそうだけど、大勢の観客の前で谷垣さんを指名する勇気も凄いと思う。私だったらあんな風に大勢の人の前で告白するなんて絶対にできない」
「そうだよね・・・というか、谷垣さんとデートしたいんだったら、そう伝えたら別に断れることもないような気がするんだけど・・・何もミスコンに出て優勝しなくてもさ」
「確かに・・・」

今井君の言う通り部室で2人きりになったときにでも言えばいいのだ。
「明日、デートしてください」って。
その姿を想像して違和感を感じる。

「いや、言えなかったんじゃないかな?」
「え?」
「普段一緒にいるから、面と向かって言いにくかったんだと思う。だからミスコンに出場して、優勝出来たら言おうって決めてたんじゃないかな。みんなの前でしか言えなかったんじゃないかな」

今井君は少し考えてから「確かにそうかも」と呟いてから、アメリカンドッグを頬張った。
それを見習って私も一口頬張る。
ケチャップの酸味と少し甘い生地、そして中のソーセージの肉感が口の中に広がる。
一口食べて、初めてお腹が空いていることに気が付いた。
そういえば、朝から何も食べていない。
これだけお腹が空いていれば、アメリカンドッグなんて一瞬で食べきれてしまえそうだが、今井君の前でそんな姿は見せられないから、一口ずつ頬張っていく。
アメリカンドッグに夢中になっていることを誤魔化すために、ミスコンの話を続ける。

「でも、国枝さんが優勝してよかったよ」
「・・・なんで?」
「だってほら、もしも唐沢マリンが優勝してたら、きっと今井君が指名されてたから―――――」

そう言いかけて、ハッとする。
誤魔化すためとはいえ、つい本音を漏らしてしまった。
アメリカンドッグを頬張って、さらにそれを誤魔化す。
それでは、最初のアメリカンドッグに夢中になっていることを誤魔化した意味がなくなってしまう。
誤魔化そうとすればするほど、ドツボにハマってしまう私を見て、今井君は噴出した。

「確かに・・・俺も助かったよ、ほんと」

今井君はアメリカンドッグを食べ終えた後、「あのさ」と切り出した。

「今日の公演、実は結構緊張してたんだ」

今井君が急に打ち明けるから、この学祭の雑踏の中に流れてしまいそうになる。

「え、嘘?全然そんな風に見えなかったよ?台詞も完璧だったし」
「うん、まあ・・・舞台に立てばさ、あとはみんなを信じるしかないって割り切れたけど。昨日の夜とか全然眠れなかったし」

今井が照れ隠しに笑うと少年みたいな顔になる。

「なんか意外・・・今井君でも緊張することあるんだ」
「失礼だな。俺だって人並みに緊張だってするよ」
「そうだよね」

私は自分の両親のことを思い出す。
良くも悪くも平凡な両親。
向き合うべき問題もなかったから、今井君の言っていることがいまいちピンと来なかった。
質問に質問で返すのは良くない気もしたけど、今井君が取り立てて回答を求めている風でもなかったので聞きたいことを聞いてみることにした。

今井君のことを完璧な人だって思っている人は多い。
実際、容姿端麗、運動神経抜群、頭脳明晰と絵に描いたような優等生だ。
だけど、親と喧嘩して、家出をしちゃうぐらいには繊細な心を持ち合わせた、私達と同じ普通の大学生なんだ。

「なんだかんだ、お客さんの前で演技するの初めてだったもんね」
「うん・・・それもあるけど、今回は親も来てたから」

そうだった。
いろんなことが目紛しく起きたし、私も私で台詞を覚えたり演技のことにいっぱいいっぱいだったから、今井君の家族が来ていたことをすっかり忘れていた。
今回の公演は元々今井君のお母さんに向けたメッセージだった。

「親と向き合うのって体力使うよ。うちの親だけかな?」

「それでどうだった?これからうまくやっていけそう?」
「どうかな・・・これからのことはまだわからない。わからないけど・・・公演が終わった後、母さん、泣いてたんだ」
「え?」

意外だった。
今井君から聞いた話だけでは、とても怖い人。
あるいは歪んだ愛情を子供に注ぐ母親の像が頭にあったからだった。
でも、これも偏見なのかもしれない。
今井君が普通の大学生であるように、その両親も私のところと変わらない普通の親なのかもしれない。

「まあ、どういう涙だったのかは正直よくわからない。それでも、何らかの形で心を動かすことには成功したらしい。その後のフォローは父さんに任せてあるから多分大丈夫だと思う」
「今井君の伝えたかったこと、伝わってるといいね」
「ありがとう」
「うん」

私はアメリカンドッグの棒を紙の袋にしまいながら答えた。
今井君はもう一度私に向き直って「ありがとう」と繰り返した。
改まってどうしたのだろうと、今井君の方を見ると、真剣な目をしていることに気がついた。

「どうしたの?急に・・・」
「白石さんのおかげで親と向き合うことができたから、お礼を言っとこうと思ってさ」
「それなら谷垣さんに言ったほうがいいんじゃない?脚本や演出は全部あの人がやってるんだから」
「それもそうだけど、俺の背中を押してくれたのは白石さんだから」

今井君がサークルに戻ってきた日のことを思い出す。
お酒を飲みながらお母さんとのことを口にした今井君に対して、演劇サークルで手助けできないか提案したのは私だった。

「背中を押したというか・・・谷垣さんの言うように、私のエゴ、我儘みたいなもんだけど」

私は自嘲気味に笑うのを見て、今井君が首を横に振る。

「そんなことないよ。もし、それがエゴだとしても、俺は嬉しかった。一人じゃないんだって思えた。白石さんがいてくれたから、母親と自分の言葉で話すことができたんだ」

今井君はもう一度私の目を見て言った。

「ありがとう」

真っすぐな瞳が私を捉えて離さない。
たった数秒のことなのだろうが、数十秒にも、数分にも感じられた。
この感じ、知ってる。
初めて今井君とお芝居をしたとき、谷垣さんからの無茶振りでキスシーンを演じることになった、あの時と似ている。
見つめ合う二人は、次第に距離を縮めて―――――。

「もう!やめなさいってば」
「いいじゃないですか・・・あとちょっとなんだから」

背後から聞きなれた声が聞こえてくる。
振り返ると、谷垣さんと国枝さんが木の陰に隠れてこちらを見ていた。
谷垣さんの手には例によってスマホが握られている。

「なんで2人ともそんなところに?」
「デートに行ったんじゃないんですか!?」

私達に見つかってバツが悪そうに木の陰から姿を現す2人。
谷垣さんはまだしも国枝さんまでそんなところに隠れるなんて。
どんなデートプランなんだ。

「いや、いますぐデートに行く、なんてのはあの場から抜け出す口実よ」
「え?」
「だって面倒くさいじゃない。写真撮影とか」

国枝さんはあっけらかんとして言った。

「じゃあ、谷垣さんを指名したのは・・・」
「あれは・・・まあ、気まぐれよ、気まぐれ」

国枝さんは真っ赤な顔で手を横に振る。
分かりやすい人だ。

「そういうわけで、取り留めもなくキャンパス内を歩いていたら、見覚えのある二人組があるいていたので、後をつけていたというわけです」

赤面する国枝さんの代わりに谷垣さんが説明を続ける。

「それで、盗撮ですか」

今井君が呆れた様子で尋ねる。

「いや・・・その盗撮というとまた語弊がありますよね。サークルの記録映像みたいなもので・・・例えば何かの折に編集してムービーみたいなものを流すときにとても有効だと思うんですよ」
「すぐに消してください」
「でも、結構いい映像が」
「消しなさい」

最後は国枝さんに言われて渋々動画を消す谷垣さんであった。


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