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しゃべりすぎる作家たちのMBTI(2) : Fと思えばT、Tと思えばF

装飾の多い饒舌な文体、といえば泉鏡花*か、と思って幾つか読み直してみた。案外一つの文は長くない。会話で地口や掛詞めいたやりとりは随所にあるが、地の文は意外に引き締まっていて、装飾以外に意味のない形容詞が延々と連なる、といった例はなかった。女性の着物や髪型の描写が細かいとか、強い感情を引き起こす表現を繰り返す、というのも雰囲気を醸し出すのに好適と思える。確かに「必要最小限」とは言えないが、ない方がよい、と言いたくなるフレーズは見つからない。

無駄が多いのはむしろプロットの方かな。怪異現象が起きて、それが何かの伏線になるか、と読み進んでいくと、話の骨格につながらずに立ち消える(山海評判記)とか、本筋から離れたエピソードに重点を置きすぎるとか。私が好きなのは「婦系図」と「歌行灯」**で、どちらも怪異らしい怪異はない、鏡花としては市民的な話で、作者好みの「泥から咲きいでる白い蓮の花」的ヒロインが(個人的好みは別として)秀逸である。ただ、「婦系図」には出さなくとも話の進行に差し支えない登場人物が多い、という気がする。ヒロインの補佐役が二人いるが、「系図」というテーマの鍵を握る一人がいれば用は足りるのでは?。この物語はエピソードがそれぞれに美しいけれど、後半が迷走気味で、終わりがバタついているのが残念。

「歌行灯」は、設定は荒唐無稽ながら芸の境地と恋の成就にむけての収斂が見事(でもヒロインの名前が途中で変わってる?)。「芸」「恋」「貴種流離譚」「ご当地風俗」等の複数のテーマの提示の仕方のバランスの良さ、という点で、鏡花の最上の作品の一つに数えられるのは当然、と思う。ただ主要人物が能楽の演者という設定は、その世界に興味のない人間には近づきにくい。テーマバランスに「分かりやすさ」を加えれば、やはり最高傑作は中編では「高野聖」、長編では「由縁の女」になるだろうか。登場人物の個性がはっきりしていて、話の展開に不自然なところがなく、怪異はあっても「B級ホラー映画」的下品さはない(「B級ホラー映画」の価値を否定するつもりはありません。ただ泉鏡花の作品中の怪異とエンタメとしてのホラー映画とは読者へのメッセージが違う、というだけ)。

さて、個々の作品論はともかく、鏡花氏のMBTIは、と。人当たりはよく晩年にはファンクラブもあったが、20代までは極度の人見知りで、尾崎紅葉に会いに行きたくとも行けずに何か月も同郷の友人の家に居候していた、と聞けばIは間違いない。若くして亡くなった美しい母を慕い続けて、なまめかしい中にも母性を宿した女性の理想美を書き続けたところをみると、「(本来の意味で)繊細で理想家、憧憬の対象を追い求めてやまない「INFP」***、が思い浮かぶ。

たしかに「草迷宮」の母の面影をもとめてさすらう青年とか、若き日の憧れの貴婦人との再会を夢見て危ない橋を渡る「由縁の女」の作家とか、主人公にはこの型がそろっているように見える。だいたい主要人物はF、特にNFですね。Tはどうも分の悪い役に割り振られがち(「湯島詣」の「流れ星は隕石」と言う令嬢が情を解さないタカビーだとか)。が作者本人はどうか?

描写の圧倒的なリアリティを見ると、「N」より「S」を感じます。鏡花といえば「夢幻世界」とか「天上的」という評がお約束だが、最後にたどりつく場所はともかく、そこへ至る道のディテールは実に「写実的」で、特に美しからざるものの描写には視覚や聴覚だけでなく、嗅覚や触覚まで刺激される。題名は忘れたが、東京は上野あたりの医者くずれの一家に居候した主人公が描く夏の陋巷の悲惨な暮らしなど、炎天に蒸される朽ちかけた縁側の下で腐っていく濡れ落ち葉の臭いがする。

プロットが堅固というよりは融通無碍で、脇筋のエピソードを積み重ねていくうちに本筋が見えなくなり、ただ不思議な気分に引きずられるままOpen Endedで終わる、というものも少なくはないところを見ると「P」でもありそう。ストーリーに整合性を求めるのは「J」の特徴で、登場人物が自由に動くままにしているといつの間にかゴールにたどりついているのが「P」の書き方だとすれば。でもそのところが逆に現実を感じさせる、ということもある。トシ食ってみて分かりました。日々出会う現実というのはその時々で変動する定めなきもので、「整合性」は結局後付けに過ぎない、と。

総合すると「ISFP」?でも「冒険家」という感じはしない。前向きというよりは後向きだし、孤高には耐えられないタイプですね。「ISTP」職人?仕事ぶりはその通り。だけど、やはりどこかで違和感がある。対象の特質を生かしつつも結局は「制御」して「完結感」を読者に感じさせる(これは芥川のタイプかな?)というのとは違う。同じ職人芸でも、芥川の短編はどこもかしこも堅牢で、「象が踏んでも壊れない(このシャレ分かるの何歳位まで?)」。よく言えば安定感があるけど、解釈の幅が狭いとも言える。鏡花の作品は逆で、触るたびに形が変わり、その変わり様に目を奪われる。鏡花という人は書く対象と距離をとって遠近法を用いるということをしない。対象への思い入れを隠さずに対象にひきずられるまま、対象に命じられるがままに書いている、と思わせるのですね。

「対象への引きずられ感」といえばやはりF?、と言いたいところだけど、これが実は演出で、作者はすべての展開を了解しつつ、解釈の多様化を図っている、と感じないでもない。とすると…、で迷い続けております。他の鏡花ファンのご意見をお聞きしたいところ。

*明治後期から昭和初期に活躍した作家(男性)です。「岸辺露伴は動かない」のおバカ(かつすごく有能)編集者の京花じゃありません。私もTVドラマの彼女は大好きですが(映画のほうは女優さんの一人三役のせいでおバカ度が薄れたのが残念)。しかしあのデカ目メイクでホラー漫画の古典的巨匠謀図かずおの被害者少女を思い出す、というのは自分だけだろうか?。

**「歌行灯の映画化は2度。1943年のものは、主人公2人が太目で鏡花らしくない?が、セリフ回しや所作が素晴らしい。1960年のものは、男の方の主人公(市川雷蔵)は容姿がぴったりなのに、トラウマに悩まされる場面がいたずらに多く、「芸道」が見えない。ヒロインは泥をかぶって咲く風情がなくお嬢さん過ぎ。
「婦系図」は1962年にやはり市川雷蔵主演で映画化されている。まだ見ていないが是非見たい!

***2023年11月現在、日経新聞夕刊に連載中の「イン ザ メガチャーチ」はアイドルに心の支えを求める女性たちが自分は「INFP」であると称しています。

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