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ビールと私

ビール。Beer.どことないオヤジ臭さとそこはかとない威厳を感じさせるその響き。

金色に輝く液体は、かつて幼かった私にとって憧れの大人の象徴であった。

一日の疲れもほどほどに、夜は19時過ぎ。父の運転する車が駐車場に停まる音が聞こえた。数瞬。間もなく玄関の戸は勢い良く開かれ、閉められた。
家族の誰よりも大きな足音をバタつかせて父は「よーし呑むぞ~!」と浮かれた声を家のそこら中に響かせた。

その声を聞いた母は早速と冷蔵庫から一本の瓶ビールと透明なグラスを取り出す。私や姉達の使うそれらとは違い、一際大きな父専用のグラスだ。

TVアニメに夢中になっていた私も姉達も、部屋着に着替える父の背中に向けて「おかえりなさい」と声をかける。
「今日も疲れたな~」と父。言い終えるが早いか、母は先程取り出した瓶ビールを二つのグラスを盆に載せて食卓に置いた。

ポンッ!

小気味よい音の後に、手酌でトクトクと注がれるビール。

食卓には塩辛だったり味噌キューだったり、子供達に出す夕飯とは違う「おつまみ」が次々と並べられていく。

私達「子供」はそれらを見て感嘆の息を漏らし、父の目を盗んで手を伸ばそうとした。
すかさず母が「子供の食べる様な物じゃないよ」と言い、私達は想像の中でそれらの味を楽しむに終わった。

律儀にも母が卓に着くのを待つ父。
着座する母を見るや否や、揚々と父は母用のグラスに金色の液体を注いだ。
2人で小さく乾杯して、グラスに口を付けた。
子供達はその様子を見て、またも想像の中で金色の液体の味を思い描くことを楽しんだ。

そんな、家族の温もりや大人達への憧れを含んだ象徴だった。それがビールへの印象だった。

かつて幼かった私も大人になり、会社の先輩達に連れて行かれた夜の店で初めて口にしたその味は、想像以上に苦くて、刺激の強い飲み物だった。

駅前大通りから一本外れた路地に構える雑居ビル。
お世辞にも綺麗とは言えない建物に入り、狭いエレベーターに押し込まれる。何階のボタンを押したのかは客引きのお兄ちゃんのみが知る。
目的の階に着きエレベーターを降りてほんの数歩。薄明るい室内に飛び交うネオンの光と共に、異国の面容の女性が出迎えた。私と先輩達は楽しい時間を過ごした。


そこから私は酒呑み生活にハマることとなる。フィリピンパブにでは無かった事は幸いか。
毎夜毎晩、私の住んでいた安アパートの冷蔵庫にはキンキンに冷やしたビール缶が鎮座し、けれどけっして長居はせず。そしてその数が減ればまた新入りが顔を出す。入居者の後が絶えない「酒達の人気物件」となっていた。

そして私は、ついには彼らが居ないと眠れない夜というものを経験するにまで至る。

家族の温もりや大人への憧れの象徴だった存在が、随分とつまらないものになったものだった。

それでも私は彼らを手放せない。

グラスに結露した水滴が滴り落ちるにつれ金色の輝きは増して、今夜も私の喉を無感動に鳴らさせる。


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