179. わかりあえる部分が少しでもあればそれでいいんだと思う
どうして、わかりあえないんだろう。
わたしたちは一体、どれだけのことを理解し合えているんだろう。
悲しくなることがある。
他人ではなく家族だからこそ
「わかりあいたい」「わかってほしい」
という気持ちを捨てられずにいる。
でも、仕方ないんだと思う。
家族だって、ひとりひとり、違う人間なんだから。
みんな、言えない気持ちをたくさん抱えているのだから。
重なる部分が多いほうがそりゃ嬉しいけれども。
ほんの少しでも、重なる部分があればそれでいいんだと思う。
その重なる部分が、心の架け橋になるから、
きっと、きっと、私たちは大丈夫なんだって思う。
白と黒だけで判断するのはやめよう。
わかりあえる、わかりあえない、じゃない。
わかりあえる部分がほんの少しでもあればいいじゃない。
ほんの少しでも心が重なる部分があればいいじゃない。
帰省中、自分の親なのに分かりあえないことが多くて
涙が出そうになって思ったこと。
あとがき
この記事をアップした直後、
「親は大事な存在なので、礼を尽くそうと考えていますが、わかりあえる存在だとは思っていない」「どう関わるかという技術を今も訓練している相手」というコメントをいただきました。
自分が恥ずかしくなりました。
私は親を「わかりあえる部分のある存在」だと
思っていること、
そして、
礼を尽くすことよりも、
「わかってほしい」
「どうしたらわかりあえるのか」
ばかり考えていた自分に気がついたからです。
自分の捉え方、関わり方を見直していきたいです。
本日は以上です。
未熟者のたわごとを最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
貴重な気づきをくださり、心から感謝しています。
読んで下さるあなたがいるから、今日もnoteが書けています。 またお時間のあるときに見に来てくださると嬉しいです。