見出し画像

187. 限りある時間を何に使うかということ

「時間がなくて、書けない」と聞いて、心がざわざわした。


父が発起人となって、一昨年亡くなった父の母(私にとっての祖母)の文集をつくっている。

今年の1月くらいに父が原稿の執筆依頼を始めた。

先日、実家に帰省した際に、父に文集の進捗状況をたずねたら、
「まだ原稿を集めているところだよ」
「お母さんは、時間がなくて書けないんだって」と聞いて驚いた。

私の母は、仕事もボランティアもしているし、多趣味でもある。
いつも忙しいのは知っているから、
「そうなんだ」と言って終わった。


でも、心がざわざわした。


私がすぐに父に思いの丈をかいて
原稿を送れたのは、私が忙しくないからだ。

私には「時間」があったから。

でも、それだけじゃない。
おばあちゃんが大好きだったから、
どうしても伝えたい「思い」があったから書いたのだ。

もし、すごく忙しかったとしても
私ならなんとか時間をつくって
どんなに拙い文章でも
書きたいと思う。


母には、その「思い」がないのだということが寂しかった。

何に時間を使うかということは、何が大事かということだから、

母にとっては、おばあちゃんに寄せる文章を書くことより
仕事やボランティアなどの方が大事なのだと思った。

私はそのことに違和感を覚えたから、
心がざわざわしたのだと思う。



その時、noteのことを思い出した。

やるべきことが多い。
娯楽や情報が溢れている。

やらなきゃいけないこと、
やりたいことで、誰もが忙しい。

でも、noteの街には

限られた時間を使って

思いを綴る人がいる。
綴られた思いを読む人がいる。
綴られた思いに、思いを寄せる人がいる。


思いを表現することに
表現された思いを共有することに
表現された思いに思いを寄せることに
価値や喜びを見出す人がいる。


そのことに、胸が熱くなる。


スキやコメントをもらうたびに
嬉しくてたまらなくなる。

「ありがとう」の気持ちでいっぱいになる。

この人は、他のことをさておいて、
私の記事を読むことに
私の記事に思いを寄せることに
時間を使ってくれたんだな、ということに
心がふるえる。

会ったこともないのに
noteで出会った方々に
心が通う感覚を覚えるのは
限られた時間をnoteに使っているという共通項が
あるからのように思うのです。


今日も読んでいただき、ありがとうございます。
あなたの大切な時間を使っていただき、ありがとうございます。

サポートをいただくたびに、クリエイターの一人として、 とても大きな幸せと励みをいただいています☺️✨