漂 流 作 家 第1編 火車
データクラウドに保管してあった詩集を開いてみた。
人は泣くときは1人だが笑う時はみんなで笑うらしい。この詩集は最高の評価とともに最低な評価も受けている女性詩人の詩だ。変な人だと思われるかと用心して今までこの話はしないように伏せておいたのだが僕もそういった輩の1人だ。祖国のために命をかけるフリーダムファイターはもういない。
気象台が言うには高気圧が長引きそうらしい。テレビでを予報している時の気象予報士の表情は印象深いものがあったな。あの口元の横についているふわふわした丸いマイクが全く似合ってないじゃぁないか。
日差しを浴びたシャクナゲは美しい花を枝葉を空に広げて今か今かと夏を待っているんだろう。僕はそれが気に入らなくなりその美しい花を枝ごとボキンとへし折って逆さまにして排水溝に投げ込んだ。「気持ち悪いんだよ」と怒声を折れた枝のむごたらしい木に浴びせ他の花をにらみつけてみた。花は嫌いだ、何かを惹きつけようと必死になって陰部を外にだして頭は土の中で潜んでいるんだから。
「まだかよ・・、・・・・、ちぃっ」と心の内で何度も何度も考えたり暴れたり心のなかでの自由を使いまわししながらスマートフォンの画面を指でささっ、ささっといじる。30秒経過するたびに画面のロックをいちいち解除するのが手間なのだろうが傍目には正常らしからぬ、いや、むしろ現代人としてはそれが当たり前なのだがとにかくまだるっこしいのでずっといじっていることにした。
担当編集の西園のリプライが遅すぎるのがいけないんだよ一体いつまで待たせる気なんだあいつは、こっちは原稿送って2時間も待っているのに。eメールで送った原稿ってそんなにすぐ見てもらえないものなのか。
悪たれる岳の肩をなでるように真夜中の鐘の音を告げる蝶がひらりひらりと横切ってはガラスの破片が日の光に青紫に美しく輝き消えていった。
ある日の昼に、僕の担当編集が決まったことをご報告差し上げたい。僕は電話ごしで歓喜して泣いた。苦節1年、漫画家養成コースの講師をしながら頑張ったかいがあったというものだ。鼓動がすごく早くなったのを覚えている、空腹だった胃の中にするっと何か流動体が流れ込んでそれが血管を巡って背中の汗腺全てに蒸散を催促する、そんな感じ。なんかたぶんそんな感じのニュアンスで。しかし遅いとにかく西園の返事が遅すぎるのはきっと社内で何かあったに違いない。送った原稿?今はデジタルで送ることができるけど紙ベースのほうがむしろ自分の記憶にしっかりと焼き付いて、ふとした瞬間に自分の苦労を思い返せるだろうなんて少し期待も込めて原稿用紙を使っている。こっちは掲載の返事がほしいわけでお待たせしましたを聞きたいわけじゃないんだ、アシでも月刊誌でもいいからとにかく何か仕事らしい仕事を形に残しておきたいんだ、それが漫画家ってやつだろそうだろ?
この浅はかな、到底だれかの庇護無くしては生きていけない青年の漫画の腕は、一度見ただけでは一般人には分からないし担当編集にもよくわかっていないのが本音だ。東京を代表する大手の出版社である葛飾社の編集長には彼の漫画に、その筆致にかつての大物漫画家の鉄腕を見出していた。しかし順当に言っても彼の画力は学生のそれだ、精密機械のように安定しているものの決して際立った特徴のない、編集長以外にその筆致を偉人に重ねるのはおこがましく思えるほどのものだった。要するには世界に偉人はたくさんいるしその見習いもたくさんいるのだからどの偉人かということが重要ではない、見いだされることが彼の利益であり文化的な遺産として国に根付くのだろう。いろんな国のいろんな噂は秘密の花園を抜け出して興味深く伝わって広がっていく、良い時に良い巡り合わせを得ることが岳の強みなのだ。
父はその日の朝早くから役所に缶詰できっと夜までデスクワーク、母もテレビ局の技術部で忙しくしていたはずだ。今の時代に電気はおろかインターネットがないと何もままならないのに「仕事」をしに行くというのだから僕には仕事が何なのかという疑問がずっと心根に染みついている。そうだな3日に1回か週に1回ぐらいはそうやって反芻しているかもしれない。人生が電気とデータ通信に奪われた気がするのはユビークにそういったインフラを広げてしまった社会の構造に原因があるのだ。そうなんだから僕はこのまま漫画家になって漫画をずっと描いて、そして漫画を・・・・・・漫画をどうするんだったっけ
ここで少し沢山家の話をしておくとしよう。僕こと沢山岳(がく)の父親の充(みつる)は文武両道にして清濁併せのむようなまさにこれぞ公務員といった気概の持ち主であり一家では厳格な父を演じている。だがその実は祖父と祖母の傀儡のような人間で田舎の議員の後押しで民間から役所に移ったどら息子だ。こういった話の大半は岳の祖母にあたる「みね」から岳へと折に触れては伝えられていたので彼が斜に構えた性格に成長するのを幾らか促したのだと思う。岳は父がゴルフや出張で留守なのをいいことに実家から10km離れた祖母の家までお気に入りのマウンテンバイクに乗り込んでかっ飛ばしていた。小学生だった岳は祖母の貯金がなくなるまではずっと毎週末になると通い詰めては近所のおもちゃ屋、今はもう少なくなってしまったがそういった店でプラモデルとテレビゲームを買ってもらっていた。そんな岳が目に余り、というよりは期待していた道とは違う方向に頃げ落ちたと思い込んでいる充は執拗に彼を学業に引き戻そうと手を焼いていてた。ある早朝、父の目を盗んでゲームで遊ぶ岳の気配を充は察知した。鋭くとげとげしいその感覚で父親として息子の体たらくぶりに憤り、テレビゲームのコンソールに踵での一撃をみまった。砕け散るコンソールのディスクトレーのように心の靭性が未熟だった岳の心は、そうやってことあるごとに私物を壊す父親から気持ちが離れ壊れていったのだ。16歳になった岳は父に買い与えられたラップトップに正拳突きを喰らわせて液晶をたたき割った。とんだ笑い話に思うだろうか。この親にしてこの子があるのだろう。
ビルの間を吹きすさぶ風が化学物質にまみれた東京の空気をさらに暑くしているように、このスマートフォンに蓄えてある電力が何かの拍子にあるいは偶発的にリチウムイオン電池に高負荷がかかって発火したとしても不思議じゃない、そんな恐ろしいものを耳にあてがって話をしていることにすら気づかないやつはたくさんいるだろ? 僕だってそうしてるし返事ってのは待つよりも早く届くにこしたことはないんだから西園さんまだですか、と冷静さを取り戻しつつある僕はまた苛立っていた。
鳥の鳴き声でスマホの画面がメールの着信を告げた。メールの銘要はこうだ。
お疲れさまです、葛飾社の西園です
短い納期でここまで熱量のこもった作品を描けるなんて、私の期待値を大きく超えていただき編集長もうなっております
つきましてはこの後、本社会議室にて編集長を交えた3者での連載打ち合わせを行いたく思います。16時に電話でご連絡差し上げたく存じます
そっとメールを閉じた瞬間、画面にノイズが走ったが岳は気づかなかった
嬉しさと安堵が僕を包んだ後に呑酸が食道を駆け上がってくる、いつものやつだ。今朝はタケプロンを飲み忘れていたらしいが自己管理は徹底してきたつもりだ。
そういえば西園さんは誰かしらの漫画を視ているのだから熱量のこもったなんてお世辞をみんなにばら撒いて本人は何をやっているのか分かったもんじゃあない。出版に向けての調整は得意でも人気作品を世に出すようなサポートは間違っても期待しないほうが良いだろう、これは僕の直感が告げたことじゃない理論的な推論だ。うちの両親もそういった類の、金や人脈の匂いをたくさん嗅いで勝ち上がってきた非常に 計画的な何か なんだ。僕もそうなってしまった。おおよそ人の形をしているもののそれとは違った何かなんだと思う。世間と隔たりのある僕の観察眼は間違いなく彼らを社会の一部として歯車のような異質なものとして見ているし自分もそうなっていくんだと思うと悲しくなった。今日は感情の振れ幅が大きいのでなんだかすごく疲れた感じがして表参道のベンチでコーヒーを飲みながらぼーっと日光浴でもしていたい気分だ。
先ほど、元漫画家志望で今から漫画家になる沢山岳がこんな風に斜に構えた視線で社会の隅々を見まわして人生の貴重な時間の一部もしくは全部を捉えるようになった経緯を少しだけ説明させていただいたと思うが、もう少しだけお付き合い願いたい。知るからには腰を据えて知っていただきたいのでコーヒーまたは緑茶でもいれた後に始めて頂ければと思います。
沢山家の母は夫にしっかりと依存しており夫の前では発言権を持たない聴衆のように静かだがその本性は自己主張が強く何かにつけては自分の話をしたがるという側面をもっている。夫婦で1500万円ほどを稼ぐカップルをパワーカップルと呼ばせようとマスコミが仕向けているのだがそういった連中は車や身に着けるものにステータスを感じる傾向があるとの論文が出ていた。沢山夫妻はそうやってステータスが高められるものを身に纏いボロボロに朽ちていく自宅の狭いスペースに大量の衣類を溜めこんでいるのだ。岳はそれらを見るのが心底嫌で家を出た。東京にある物置のように狭い1ルームに1ヵ月12万円も支払っている時点で頭がどうかしているとは思うのだが、そこに交際相手を連れ込んでどうこうせずにひたすら漫画を描いていることは立派だった、少なくとも彼の中でそれは信仰であり執着であり情念であり続けたのだった。両親から逃げきれたと思って岳は気が付いていないが家賃は父親が母親を経由して生活費という名目で支給されているのだ。誰も親からは逃げられない。
今日も忙しく、明日も忙しく、「布団の中で4んでる人がいるんだってー」とバス停にまとまった量の女子高生がスマホを見ながらちゃべついている。
一番先に乗り込むのはどの娘だろうか、手提げかばんを両肩に無理矢理かついでいるあの娘だな、女子の集団がバスに乗った後に僕も続けて乗り込もう。踏み出す脚が妙に重くまるで身体がそのバスへの乗車を拒んでいるように感じられる。
岳の肩に1匹の蝶がひらりと六肢をもたげてとまった。ガラスのように繊細な煌めきを帯びたその蝶はさらりと粒上になって岳の身体と同化して視えなくなってしまった。急に軽くなった足取りにいぶかしげな顔をしながらバスの昇降ステップを1段ずつ登っていく。停留所の番号と時刻と何かの文字が刻印された紙きれを無造作に抜き取ると機械がチンッと軽快な音をたてて次の札を印刷した。岳は生まれてこのかた路線バスといった公共機関を利用したことは殆どなく、それでも生活に支障がなかったので上京してからの不自由さに驚いていた、世界最高峰の人口密集率を誇る首都東京は田舎から出てきたての人間にとっては違和感の塊りだった。それでも理想と現実の違いを目の当たりにした岳は多少の不自由さと引き換えに得たチャンスを逃すまいと日々努力を重ねていた。
努力は全ての生物が生存するための必須行為になっている。弱肉強食とは人間社会に適用される言葉であって生物界にはあまり関連がない言葉だ。努力に加えて社会にいる獰猛な歯車を相手に自分が先に擦り減らないように自らに油を指し続けなければ人は生きていけなくなりつつある。肥大化した自己顕示欲と虚栄心を身に着け、他者との関りを必要最小限に留めたこの場所は他府県から切り離された流刑地のように感じられる。岳は毎日繰り返される昨日と違った今日への対応にてこずりながらなんとか生活していた。飲食・娯楽をともに楽しむ相手は同僚以外に見つかるあてもなかった。
僕もあの子も前の席のおじさんも皆がみんな無言でスマホをいじりながら、その液晶にべたべたと増殖する黄色ブドウ球菌を指で転がしながら経済やエンタメのニュースを見ているふりしてるんだろ?たいして頭にも入らないのを知ってるくせに上司に話を合わせたり近所のおばさんと・・・最近はイドバタカイギなんてのは各々の家におしかけてやってるそうだからまあ、その程度のネタに情報が消費されているんだ。そういえばこの吊革はやけにべたついている、それも誰かの指の脂なんかじゃなくて何か粘っこいやつだ、ろくに消毒してないなんてとんでもない。
「おおっとぉ、すみません」込み合った車内では日常茶飯事だろこれ、肩と肩がぶつかるのは両手を上にあげてるからなんだよ、これ明日描く時のネタにしようかな。
肩とぶつかったのは脇汗吸収パッドであって、小肉中背の彼には肩がぶつかったように感じられたようだ。身の回りの些細なことが誰かを救うとしたら、こんな瞬間かもしれない。
突然バスが急ブレーキをかけて止まり、まあ東京ではいつものことなのだが車間ギリギリに止まったせいで吊革を片手にながら見していたらうっかりスマホを落としただけなのに、車内の全員が、きっとそうだとおもうけど僕を凝視してきたんだ。最近やっと出版社との契約がまとまって連載やってる漫画のアシの内定ももらった僕は浮ついた気持ちで女子高生のスカートと太ももを凝視していた。
こんな流線型を描けたらいいのに。もっと魅力的に人を惹きつけるような絵が描きたい、できれば神様が手に宿って代筆してくれたっていい、そうしたらアニメ化や実写映画化も決まるだろ?間違いないな。
タイヤはアスファルトに黒く溶け痕を残し、その中から奇妙なもやがゆっくりと立ち上りバスの吸気口から車内に忍び込んでいった。それは人がこの世界でみるとしたら水の中に浮遊するカビのバイオームのような投網のような捉えどころなく動く何か、何かというしかないほどにはっきりしないものだった。
ペンだこで膨れた部分を親指の腹でいじって爪のあま皮をむしりながら、ちりちりといらつくこの感じが毎日必ず僕をいらだたせる。人はなぜ話の最中に自然と手を握りしめてこぶしを作ってみせたり手で胸元を仰ぐのだろうか。武術や対人防御訓練を受けた人間なら必ず手で頭のそこかしこをいじりつつ話したりするものだが、平和がはびこってゆっくりと衰退しているこの国ではそんな風に出来る人間はおおよそはYouTubeの動画配信者の話を真に受けてる連中だけなんだと思う。自衛隊じゃあるまいし彼らの癖みたいなものは人間の心理的な反応として漫画のネタになるじゃないか。
岳はじっくりと車内の人間を観察している。これは彼の毎日のルーティーンの一部でありフィールドワークになっており相手の内面まで覗いた気になって満足できる楽しみの一つでもある。通風孔から涼しい風が車内を巡り排ガスのそれとは違った路線バス特有の匂いを漂わせた。そして黒いもやは静かに車内に流れ込んで宿主を探していた。これの生態とでもいおうか、行動様式については未だに解明がついておらず視える人には視えるが捉えどころなく動くのでやっかいな症状として疾病に認定されている。
・・・・・・・・岳の足元にその何か黒いもやがまとわりついた。それはこの世の理からはほど遠く恐ろしい場所から這い出てきた何かだったのだろう、音もたてず気配すらなく静かに彼のズボンを包み込んだ。狭いバスの中でそれに気づいた者は誰もいなかったしむしろ誰にも視えていないであろうそれは雲散霧消して岳のズボンのポケットに触手を忍び込ませた。人知れぬところからやってきたそれは人々の人生を狂わせる呪いを持っているのかもしれない。それはポケットの中からバスの乗客全員に向けて黒いもやを広め始めてしまった。黒いもやをあびた乗客全員を乗せたバスはいつもの神宮前のルートを外れて首都高速へと進路を変更した。岳には黒いもやが見え始めていたのでバスのルートが変わったことに気が付かなかった、ただ一人だけバスの中にひろがったもやを視ることができた。意図せずそれを吸い込んでしまった岳の眼球の水晶体に突然1っ滴のインクが落ちて両の目が真っ黒になり鼻の穴から黒い汁が噴出した。
「なんだよこれぇぇぇぇえぇ、なんなんだよぉぉおお。おおぉぉぉぉあああああああー」誰も岳の悲鳴に耳を貸そうとしない、おそらく聞こえていないのだろうにずっとスマホをいじっている。手に付着した黒いインクに取り乱し動揺を隠せずに震えた頬で手のひらの黒いインクを慌てて拭った。あいかわらず乗客は黒いもやを纏ったままで、こころなしか全員の肌の色がぬけて青白くなっているように見えた。「あのー、大丈夫ですか?」黒いセットアップに白いブラウスを着こなした女性から僕は声を掛けられた。「ぜんぜん大丈夫じゃないですよ見て分かりませんこれ?鼻からインクが噴出してるんですよ、どうみても・ああああぁぁ異常事態ですよね。異常でしょこれは」と早口でまくしたてる。女性はいぶかしげに僕をのぞき込むと、特に何も異常が見てとれないかのような顔をしていこう言った。「特になにも噴き出してませんけど、どこか具合でも悪いんですか?」と女性は不信感をあらわに見つめている。「あんた、この黒いのが見えてないの」よろめくからだをくの字に曲げて黒いインクを顔にぬりたくってみせた。それに驚いた女性は瞬きが早くなりまじまじと僕の顔を伺っている、突然女性の頭部が地面に埋まるかのように視界に沈んでいった。
歩道に乗り上げフェンスで弾みがついてしまったバスが池尻のガードレールを垂直に駆け上がるという異様な光景に歩行者と通勤中の人々の視線が凍り付いた。何が起こっているのか彼らには全く想像がつかずただ目の前の事態に凍り付いた体を震わせていた。「と、東京では良くあることだ、まあいいか。」さすがに無関心ではいられずスマートフォンをかざして動画を撮るものや写真を撮るものが一所懸命に駆け寄った。虎がバターになるより早く情報がSNSに放たれる。マスコミ各社の電話が鳴りやまない。首都高近辺にパニックが伝播して報道ヘリと警察が駆けつけようとしている。しかしバスの姿はもうそこにはなかった。誰のスマホにもカメラにも写真が写っていない。マスコミはとんだ茶番だったとさっさと引き上げにかかっている。空に薄暗い雲が広がり始めた。
岳の隣に立っていた女子高生の首が180度水平回転して「このバス、大学にぃ直行するから降りた方がいいですよぉぉお」と話しかけてきた。先ほどの女性は驚いて地面にへたりこむと「あ・ああああ・ぁぁ」と声にならない声を漏らした。尿を漏らしたかもしれないがそのまま青白く変化した。異臭が車内を包み込むがこの3人以外は誰も振り返らず微動だにしない。他の乗客の血の通わない肌と落ちくぼんだ瞳に光りは宿っておらず、うつろな両目は右上と左下を激しく往復している。
僕はその奇妙な首の動きに「いひゃぁははかかかぁ」と半笑いになって涙袋を痙攣させながら後ずさりした。狭いはずの車内がやけに広く感じてまるで自分以外には乗客がいないような奇妙な感覚に眩暈がした。黒いインクのことで頭がいっぱいになってえづいてしまい女子高生の話は頭に入らず反射的に言葉がついてでる。「ああぁぁ、そうですねそうですねそうですよー」とよくわからないことを口走っているけど今はそんな状況じゃない、というかどんな状況なんだこれ、全く意味が分からないが少し面白いじゃないかこれはひょっとして何か今凄いことを体験しているんじゃないのか。しまった、メモ帳がない。
知らない女子高生の首がありえない方向にねじれているという事態に興奮を覚え浮足立った岳は自分に起きている異常よりもこの状況をいち早く描写したいと考えた。
運転手がおもむろに振り返り、おやっと不思議そうな顔を岳に向ける。
いやいや、これはまずいぞ非常にまずい。鼻の頭から汗がじんわりと出て口の中が渇いて自分の口臭が鼻を抜けて脳を刺激した。僕は上陸してしまった。あっち側に、一番忌避するやつらの方に上陸してしまったんだ。なんてことだ、これは朝にへし折った花の呪いに違いない。8時17分に来たバスの中で「あいつ、ないわー」とフィリピン人と日本人のハーフの女子高生は、肩がぶつかっても謝らない僕に無視されたと思い込んで怒っていたんだと思う。ほんの数分前のことだった。とっさに運転手に駆け寄り降ろしてくれと頼み込んで8時21分に途中下車したはずの車内はざわついていた、無理もない。270円は小銭でちゃんと支払ったし目的地より手前に止まったのだからバス会社も儲かっているはずさ。タイヤが外れて飛んでしまえばいいのに。僕はなぜか数分前に乗ったバスの真ん中に立っている、降りた先がバスの真ん中だったことに何も違和感を感じずに今まで乗っていた、気が狂いそうだ。早くメモりたい。
黒いもやのせいでスマホの保護フィルムが割れたことに岳は気が付かなかった。メールの着信に気づくのがほんの数秒遅れてしまいAmazonからの購入通知がなりやまない。インクのついた汚い指で画面をスクロールさせ急いでメモ帳アプリを探していた、ほんの一瞬だけ内定の件というタイトルのメールの通知が見えた気がした。
見えていた気がしたから岳はそれを開いのだと思う。彼にとってスマートフォンはもはや肉体の一部でありまるで親戚の子どものような存在になってしまっている。いかなる状況でも触らずにはいられなかった。
「普段は精神科で処方された薬のおおおお陰で、僕の平静は保たれているものの一般人の頭の中は常に一定のノイズが流れている、これが集中力を奪っているものの正体だ、そそそそう、そういったノイズが・・・・・・・・」錯乱した僕は急に早口になって意味の分からない言葉を口走っている、そうだボールペンがカバンにあったはずだ、この状況を一つ残らずメモしておかないといけない、これはネタに困らない事態だ、最高の状況に巡り合っているんだ・・・・・・・・・。
昔、歩行中に一瞬うたたねをしてしまい道で寝ているところに警官がやってきたことがあった。名も知らぬサラリーマンが私の混濁した意識にぼやけて見えている。「大丈夫ですか、血だらけで人が倒れていると通報がありました。もうすぐ救急車もくるんでそのまま動かないで待ちましょうね」数人の警官がすぐに私の周りを取り囲み何か相談をして各々の役割についた。
声をかけてきた警官が身元確認をしている。「かばんいいですか、財布出しますねー。」アゴが2つに割れた目が4つある警官が、これちょっと身元確認してくれと他の警官にたのんだのを覚えている。財布の中から免許証を取り出され名前を呼ばれているのがわかった。「サワヤマサーン、さわやまさーん聞こえますか、沢山健司さーん、健司だよなこれ。もうすぐ救急車が来ますからね、がんばって」ごつごつした手が私の痩せた左手にそっとあてられて脈をとられている。「今日が何月何日かわかりますかー、さわやまさーん」耳元でやかましく騒ぐので一発殴りたいが身体が動かない。遠くから救急車のサイレンが聞こえてくるのがわかった。倒れて数分のうちに人だかりができてあっという間に私を囲んでざわざわとのぞき込んだり目を伏せたりと忙しそうな連中だ。アリ地獄にはまった蟻のような気持ちだ。
はて、私から血だらけで倒れている私が見えるがこれは一体どういうことなのだろうか。
そうだ、そう僕・私は原稿を届けに向かう途中だった、このままだと約束した時間に間に合わなくなる。ちょっと待てよ沢山健司はじいちゃんの名前だぞ、なぜ今その名前を感じた?ここは何か記憶がおかしい。
景色が暗転して岳の元に意識が戻った。相変わらず車内は静まり返っていて青白い顔の乗客が黙々とスマートフォンをいじっている。その間も黒いもやはどんどん増えて、ついにはバス全体を包み込んでいった。
岳が我に返った頃、垂直に首都高脇を駆け上がったバスはフロントを激しく地面に打ち付けながら歪んだ身体を軋ませて猫のような悲鳴をあげ、激しく火花をちらし、剥き出しになったホイールカバーのままどんどん高速道路を加速しながら逆走している。ホイールは猛火に包まれたまま何の音も立てずに風を切って少しずつ宙に浮き始めたのだった。空を走り続けている。前方から猛スピードで乗用車が向かってくる。風にエンジンとタイヤの唸る音を響かせ、もうだめだぶつかる、一瞬の間もおかずにバスの乗客を通り過ぎて行った車はそのまま刹那の霞となって視界から消えていった。深天は雲を陽光でかき消すと高速道路が闇に包まれ、太陽は月を呼び出し自らに重ねた。路線バスは暗夜を掛ける漆黒の騎士のようにごうごう風を裂いてひたすらに進み、車体はあばら骨でできた檻に変わり始めている。少しずつほんの少しずつ床が透け始め骨の檻には人骨を何かの弦で絡めて作った、骨の寄せ集めに僕は乗せられたまま月と太陽が正午の位置で重なったのを見つめていた。
ぎっぃぃぃいやぁぁぁあああー、と運転手が叫ぶと、そこにはすでに運転手の姿はなく頭の先から背中までがむかでのように角が生えた何かがバスだったそれの手綱を片手で引いている。右手には無数の棘が付いた刺又を握り天をえぐり取らんと掲げている。
「あんた誰なんだよ、どこに行くつもりだ?おろせよ、俺をおろせ」怒鳴った拍子にその異形が刺又を岳の喉めがけて突き上げた。
「生者がなぜ黄泉送りに乗っている?」異形は片手で軽々と岳を持ち上げ、おおよそ人の力では敵わないと思われるそれは岳にとどめをさそうと腕を高く掲げた。
「そこまでにしておけ、生者に手を出すことは許されぬ」天が張り詰めている。堰を切って黒煙があふれ出し、「十王が命ぞ、火車よ腕を納めよ。そのものは何人も触れてはならん」と重なり合った声が火車を戒めた。残念そうに肩をすぼめ、地獄の獄卒は岳を地上めがけて突き落とした。
「ほらよ、これでいいんですよね」悪態をつき火車は人骨の檻を軋ませ天の裂け目へ滑るように消えていった。
十人の王が1人、秦広王が岳に救いの手を差し出す。急に風がうねり、海が逆巻き海底があらわになると巨大な螺髪が岳を受け止め浜辺に寝かせた。「何故死者の魂と混ざったか、はて、此の者は」声だけが岳の耳に際立って聞こえている。薄れゆく意識、呼吸が浅くなり海水が冷たく身体におしよせて意識を失いかけた時、海難救助隊員が寸でのところで岳を助けた。
結果的に沢山健司と岳が書いた漫画の原稿はどちらも間に合っていなかった。AI生成画像にAIが使われていないように、沢山の原稿も本誌には使われなかったのだ。健司とは岳の亡くなった祖父のことだがどうやらここまでが漫画家(自称)沢山健司の一生だったようだ。凶刃に倒れた理由も分からぬままだった
もう少しましな死に方もあっただろうが、まさか路上で狂人にナイフで刺されて病院で漫画家としての最後を迎えるとは、なんと虚しい人生か、そう思った瞬間に俯瞰していた健司の抜け出したものが身体にもどって岳の呼吸がもどってくる。
がたがたと揺れる乗り心地の悪い救急車の中で走行中ずっと質問をされ続けたせいで眠くなり岳はまじめに答えるのをやめた。あわてた救命士が心電図スキャナーを胸元に取り付け別の隊員が受け入れ先の病院に状況を説明している。当番医のいる病院で手当てを受けられたお陰絵で失血死せずに生き延びる事が出来て彼は嬉しそうに久方のしがない漫画家養成学校の講師にもどった。それを宙から見ていた健司は病床で涙と嗚咽と黒いインクを口から吐き出しながら泣いた。あまりに酷く泣くものだから精神科病棟から追い出されそうにもなったが、なんとか看護士がなだめたお陰で彼は追い出されずに済んだようだった。岳は泣いていた。
そして健司は自分が死んだ事実をようやく受け入れた。健司は岳の魂と混ざり現世に帰ってきた。紫遊蝶のいたずらなのか、超自然的な存在のおぼしめしか。だが決して岳のまぶたの裏から離れることはできず、そこを借り住まいとしたのだった。
彼は天上のしみを数えながら療養したかったわけでもなければ、誰かを庇って殺人を犯した数学者でもないので病院に長居する気は毛頭なかった。毛根が抜けるよりも早く、一刻も早くこの場所から抜け出したい、ただその一心が彼を混乱の中に引きずり込む。そしてうめき声と唾をもらしながらベッドシーツを飲み込んだ。病院に預けられた彼のカバンの中に、たしかに蓋をしたまま納められていたインクが黒いもやになって漏れてあふれだした、紙袋にしまいこまれた原稿用紙に憑りついた。健司が死に、そこから35年。デジタル原稿とはいったものの手直しはやはり文字通りに人の手で加減筆操が必要になる。
混濁した意識の中で岳は自分の半生をまぶたの裏で再生し始めた。それは黒い空間にぼんやりと広がる青白い光に重なって、おぼろげに視界をゆらめきながら移動している。目を閉じても見えているものは何か。目を開いていても見えているのだろうか。明け方の4時48分に病室に看護士が血圧と体温の確認にやってきた。消毒され、清潔感のある衣服とはどこかちぐはぐな茶髪に丸眼鏡とトレンドを追いかけたようなその姿が、薄暗い病室では余計に際立って見えていた。包帯で頭がぐるぐる巻きになった岳にぐるぐる巻きになったバールにぐるぐる巻きのビニールテープをぐるぐるまきになって、岳の意識はぐるぐる巻きになって健司の意識と混ざり何かになった。何かになるということは二度とそれになることはできないほどに成るということ。健司はもうこの世にはいない、岳には健司の記憶がおぼろげに流れ込んできているのが分かった。ここは病床ではない。
それはトワリングバトンのように螺旋を描き病院の天井をするりと抜けて空に輝き、2人の魂は引き合い距離を保ちながら惑星の螺旋運動のように元の身体へ、そう岳の身体に戻った。
沢山が心を患ったのは、正確には脳機能が破綻して再構築されたのは彼の幼少期の体験があったのだろう。持ち前の鈍感さが災いして敵と味方を多く作り、いじめに遭うも気が付かずにいつの間にか畏敬の念を同級生に抱かせ一方では気味悪がられていた。学校と言う特段閉鎖的な環境には必ず群れを統制するアルファ個体が存在する。いかなる環境下においても人間はその発生摂理に抗うことはできないように遺伝子に組み込まれているのだ。
彼の時間間隔は常人の3倍ほど遅い、3時間が彼の中での1時間だった。
僕の病室にやってくるのは2交代制の看護士で、なにかあれば気軽にお声かけ下さいと丁寧に挨拶をして2時間おきに現れては去っていく。父親の管轄が医療方面ということもあり、医師には特別な配慮を要求できる立場にあるのだ。これが僕は少し気に入らなかった。父と母が病室に駆けつけた時、僕は寝たフリを決め込んで無視を続けた。父は決まって病院に行くのを嫌がったが、この日だけは別だったようだ。それでも退屈さと居心地の悪さを感じた父は母をおいて車に戻っていった。
いぶし銀をオールバックにまとめた背の高い医師がドアをノックして入ってきた。「ご家族のかたですね、沢山さんの状態は安定しており時期に目を覚ますと思います、その前に幾つか処置をさせていただきたいので診察室に彼を運びます。」優しいほほえみを浮かべた医師に安堵した母はデイルームでテレビを見に行ってしまった。そのまま帰るとは。
寝たフリをしている岳に向かって医師が言葉を投げかける。「沢山岳、起きるのです」母と言葉を交わしたはずの医師の雰囲気が急変し、病室の空気が少し熱気だって湧いた。「私は秦広王 不動。半霊になった君の手当を行った医師だ。しばらくは傷の療養も兼ねて当院にて君を見守ることにした。君の魂の半分は・・・・火車に乗った時すでに亡者になってしまったんだ。今は混乱していると思うので詳しい話は後日、診察の時にでも」今は休んでおきなさいと話し方は優しいが、何か熱を帯びた口調には恐ろしさすら感じる。「それと、半霊と言ったのは君のおじいさんの魂が君に混ざってしまったせいもあるのでね、なに、こちらの手違いが招いたことだから最後まで我々で責任をもっておじいさんの御霊を還すよ」岳は掛けられた毛布を振り払うと飛び起きてベッドに正座して背筋を正した。今日の出来事がまるで理解できていないのが顔を見てすぐに分かった。
「あの、その」唇が震えて言葉が出ない。「どちらさまでしょうかー?」精一杯振り切った甲高い声を裂いて秦広王が一節唱える「日に隠れし我が半身よ、埋火より出でよ」医師の額から割れ目が広がり、斜めに黄色く肌が変色し始めカラカラと音をたてて背中から転輪が現れ火がともる。金の糸で編み込まれた顔は夕日に輝いて見える。それと同時に六角形の金属板で編まれた剣が岳の喉元にあてられた。なるほど。化け物か。「沢山君、あの黒いインクはいつから持っている物なのか教えて欲しい」身動きのとれなくなった岳を不憫に思った不動は剣を影の中にしまい込み破れた白衣を灰にして話を続けた。黒のセットアップが不気味さを醸し出している。岳は慌てて返事をして「はいっ、亡くなった祖父の私物だと祖母から聞かされていたので30年以上前のものではないかと」あやふやな計算でその場を収めようとしている岳に向かって不動がこうつぶやく「憑物だね、なるほど。君は知らず知らずのうちに憑物に穢されたようだ」何を言っているのか分からない岳に向かって不動は話を続けた。「7日間ほど入院してもらおう、もちろんインクはこちらで処分しよう、問題はすでに漏れ出てしまったほうの・・・・」病院を黒いもやが多いときおり日のひかりで壁面が白く光って顔を出す。この不動温泉病院は病床で最期をみとる終末医療の病院という体裁だが
実際の役割は別にあり、岳のように間違って冥府に送られそうになったものを保護する施設だ。不動はそこで医師として勤務していることになっていた。突然、看護士が病室のドアを思い切り開いて駆け込んでくる。ただ事ではない。「先生、723号室の村井さんの脈拍が弱くなってます」隣の部屋のお婆ちゃんは心電図計と並んで寝ていた。もうほとんど虫の息で鼻から酸素チューブが見えていた。不動が看護士に告げる「ご家族に電話をお願いします。」「村井さん、聞こえますか。今しばらくでご家族がこられますよ、家族に会えますよ」態度を軟化させ患者の手を優しく握って患者の身体に金の繭をまとわせた。もちろん誰にもそれは視えていない、ほどなくして家族が到着すると最後の言葉を交わして村井さんは息を引き取った。不動は金の繭に包んだ村井さんの御霊を天に還した。不動が現世で働いている理由ははっきりしないが、執務室を見る限りは世界情勢などにも精通しているようだ。
不動医師が別の看護士を連れて岳の部屋に戻ってくる。「では沢山さん、今日から一週間、こちらで安静にしてすごしてくださいね。ご家族との面会は午後の14時から19時です、自分で歩けるようなら特に制限はありません。3食普通食が出ますの。毎朝9時に診察を行いますので病棟の診察室までお越しください。なにかあれば遠慮せず看護士を呼んでください、それでは失礼します。」岳を見る不動の目は金色に光って見えた。不動はゆっくりと姿をかえ黄変した金剛石の身体をあらわにし、寄り添っていた看護士は16歳ほどの少年の姿に変わり金棒をひきずって723号室から出ていく。火車に乗ったことで噴き出した憑物は冥滅したものの、インクに潜んでいた憑物が病棟の廊下を駆け回っている。黒くとがった髪は逆立ち、全身は黒く、万年筆のペン先のような顔に獣脚でいて、鋭い指で壁を登ったりぶら下がったりと落ち着きなく動き回っている。不動がつぶやく「童子よ、叩き潰せ」
びゅうと壁面を駆け上がり金棒の一振りで床もろともに憑物を滅すると二人は人間の姿にもどった。なにか二人で話を交わすと看護士は岳の病室にもどってベッドの上のナースボードに自分の名札を貼りつけた。
「本日の担当の制多伽です、よろしくお願いします。着替えをお持ちしますねサイズは僕と同じSサイズで良さそうですね」そう言ってにっこり微笑むと制多伽は関係者以外立ち入り禁止の部屋に作務衣を取りに出ていった。不動の紡いだ金糸が編み込まれた作務衣は身体の中からやる気が湧き上がってくる感じがした。
「なんて読むんだろう、せい・・たか?」童顔の20代後半に見えるけど年齢はちょっと分からないな、やっとメモをとる時間が出来た。ペンのような尖ったものは全て没収されていることに気づいた。ベルトもカバンも靴も全部、病室には紐状のものが一切ない。そういうことか。いや、どういうことだ?
岳はナースステーションまで歩いて行った、ついさっきまで廊下をうろついていた憑物がつけた傷跡はきれいに修復されている、もちろん床も、岳には知る由もなかった。
ナースステーションをのぞき込むと、後ろから制多伽が声を掛けた。「どうされましたー」岳はボールペンと紙がほしいと伝えたが申し訳なさそうに制多伽が返事をする「たぶん、描けないと思います。」「漫画のアイディアを書き留めるんですよね?」声が小さくなり、目をあまり合わせようとしない制多伽に違和感を覚えた岳がにじり寄る。「どうして描けないんですか?」ため息を一つつき終えるとクリップボードに挟まれたコピー用紙とボールペンが手渡された。「じゃあ、試しにあの雲、あれなら大丈夫ですよね、描きます」岳はしゃっしゃっと脳内で生成されたイメージをスケッチし始める。しかしそれ以上彼のスケッチが先に進むことはなかった。斜めに線が引かれたクリップボードが虚しくパタンと床に落ちた。なぜ描けないのかわからない、描きたい、それが僕の生きがいで生きている意味で全てなんだ。「あの。お気を悪くされないでください、とりあえず今日は安静です」おもむろに背中を押され部屋に戻される岳の目から涙が伝って床に波紋を起こした。
制多伽が部屋を立ち去った後、岳は2時間ほど泣き続けた。色んな声や思い出、辛かったことや楽しかった日々の記憶が全てぐちゃぐちゃに崩れて思い出せない。終わった。漫画家としての一生がたったの1日で終わりなんて。呆気なさすぎる結末に岳は声をあげて泣き喚いた。ほとんど人のいない病棟に虚しく泣き声だけが響いていた。
翌朝、朝食を食べ終わると少しけだるい気持ちでベッドを這い出て診察室に向かった。沢山さんどうぞーと声がする。他の患者より先に呼ばれたのでそろりと診察室へ入る。やっぱり不動医師だ。優しい笑顔で迎えてくれたがどことなく緊張してしまう。昨日の今日では無理もないって言って欲しかった。「それではこちらにお座りいただいて、少し採血させてもらいますね」ささっと出てきたのはやっぱりあの看護士、そして昨日はいなかった別の看護士もいる。「微熱が続いているようですので少し抗生剤の点滴をさせてもらいます、先端恐怖症は特にないですよね」二人の看護士がバックヤードに入った瞬間、自分が巨大な蓮の花の上に移動していることに気が付く。
「昨日の憑物、つまり君に憑りついていたものは滅したのだが、あやつは君の才能を抜き取っていたのだ、身の肥やしとしてね。それで、君はもう漫画は描けない、どんなに努力しても絶対に、絶対にだ。」
岳は震えながら訪ねる「漫画家に戻れないなんで、生きてる意味がないじゃないですか。どうしてそんな」絶望に打ちひしがれる岳にさらに追い打ちをかけるように秦広王は話つづけている。
「君には進むべき道があった、だがそれが失われてしまったことは我々に落ち度があるのは間違いない、憑物は宿主の才を喰らい大きく穢れて育つ。君に憑いていたたものは大きくなりすぎたのだ、滅する他なかった」「あれが野放しになってしまうのは現世の理で決まっている、君を救えたことが唯一の幸運だった」岳は納得できない。
「昨晩我ら十王は君の失われた才能の件で集まり話をした。、君の進むべき道を考えていたのだが・・・君はまだ紫遊蝶と同化したままなのだ、なのでそれを先に祓う必要がある。バスに乗るたびに火車と会うのも嫌だろう?おじいさんの魂もこちらに還してもらう必要がある、そこで先ず私から貴殿に提案したい。」もうどうにでもなれだった。岳に選択肢はない。スマホも壊れて水没してしまったし、今さら担当に連絡したところで取りあってもらえるかわからない。ビジネスってのはそんなもんだ。
「先ず我々の仕事を手伝ってみるのはいかがか、なれば君にも親しみのある閻魔殿に話を通すことは容易だ、獄卒と戯れることもできる」岳は悩んだ、火車が人の魂を地獄に運ぶ話は幼心に読んだ本で知っていた。あいつとまた遭うかもしれないと思うと気が進まない。これはまるでおとぎ話か何かか、もはやファンタジーじゃないか。この十王というやつらも他にあと9人いるとなると、ではこちらはどうかと次々に進められるに違いない。どのみち話相手は人間の敵うものではない、言うことを聞いておこう。
「分かりました、しばらくの間、お世話になります」
軽く会釈をする程度に抑えてぼんやりと返事を返すと秦広王は満足げに微笑み返した。空間が飛散して診察室に戻った。不動医師にもどった秦広王が「傷の回復も早く、特に炎症も起きていませんでしたので引き続き療養してくださいねこの調子なら来週には退院できますよ」
ありがとうございましたと診察台から降りると岳はデイルームでテレビを見ながら考えた。この超自然的な出来事を描くことがこの先一生できないなんて。抜け殻のように自分が崩れてまた新しい自分をイメージしてみる。テレビではバス失踪事件などなかったようにワイドショーの話が流れては変わっていく。実際、なかったことにされたのだ。人を超越した何かであっても隠蔽を行うのかとがっかりして机にうなだれていると、そこに八犬と名札をつけた看護士がやってきた。「そう気を落とさないでください、お昼はすき焼きができます、ここの病院食はおいしいですよー」
全く味がしなかった、歯ごたえだけが耳に響き、ほぼ無人の病室では虚無が彼の心を苦しめ始めた。深く呼吸をするとベッドに転がり込んで瞼をとじる。「じいちゃんだ!?」岳は驚いて目を開く、そしてすぐさま目を閉じる。「じいちゃん何してるの、なんでここに、というかなんで目を閉じると見えるの?かなり前に亡くなってるはずじゃ・・・え?」
健司が瞼の裏で話を始める。「岳や、大きくなったな。お前と最後に会ったのは2歳の時だった、覚えていなくて当然だがわしの顔が分かるのか?年で分かるんだ?」
ばあちゃんに嫌と言うほどじいちゃんの話を聞かされて写真もことあるごとに見せられた、2人のハネムーンの話までしかりとね。
「まあ、ばあちゃんのお陰ですよ」少し距離感がつかめず敬語で答えると健司は笑って言った「ばあさんはまだこっちに来ていないが、元気にしておるか?」嫌ってに元気ですよ。「ばあちゃん、なんか僕に跡取りになってほしいみたいで、最近は会ってないです」そうかとうなずくと健司は先ほどの秦広王の話を切り出した。「さきほどのお方は、冥府の十王様だ。決して間違った判断はされない。むしろ仕事を見て回れて幸運じゃないか、ここまでしてもらえる人間はまずいないだろう、そう思わんか?」はいはいそうですか冥府の十王様ね、なんだそれ。
岳の思考は健司にそのまま伝わってしまう。「十王様をバカにしてはいかん、わしらのような死人をしっかりとさばいて下さる、お前はその仕事ぶりを間近に見られる、まあわしもな」
閻魔様も十王なの?閻魔様しかしらないんだけど。まあいいや、もう他に探す気力もないし。
心の中の会話が弾み、疲れたから少し休もうと二人は一息ついた。次の瞬間、すとんとどこかに身体が落っこちて魂が抜け出てしまった。魂は天井を抜けて空まで飛びあがった。
「ようこそ、冥府の関所へ、そして昨日はお疲れ様。私は初江王 釈迦だ、よろしく」えー!?お釈迦様がいるのかよ?
煌びやかな御殿の横には亡くなってしまった人が長蛇の列を作っている、列に並びきれなくて人だかりができ、ひしめいている。前世ではあーだったこーだったと愚痴ったり笑い話をしたり、中には外国から来た人もいるようだった。
「今日は私が当番なんだよね、毎週この日が来ると憂鬱になるんだ。だって私、昔はのんびり過ごしてたから、こんなに忙しい仕事だって聞かされた時は気絶しそうになったよ」はははと笑いながらも朱印を押す手は全く止まっていない。「弟子がなんか色々ひろめてくれちゃってまあ、お陰でこの書類の山に埋もれて仕事してるんだよ。一番弟子の多聞第一がここに来たときは当番を変わってもらって5時間ぐらい説教してやったさ」なんか思ってた人と違う。スパン、スパンとすごい速さで判を押すそれは稟議書を回すサラリーマンみたいでクスっと笑ってしまった。
「私も若い頃はやんちゃしててねー。進撃の王子なんて呼ばれたりしたものさ、でもね、それは全く無意味なことだったんだ。」ときおり悲しそうな表情を見せる釈迦に岳は親近感を覚えた。お釈迦様とて人の子だった、あの世に来ても悲しみにくれたりするなんて。自分がたいそうちっぽけに感じた岳が釈迦に話しかける「あの、それで僕は何をすればいいのでしょうか?」
ああそうだったと首だけを岳の方に向け、忘れていましたと言わんばかりに小さな用事を頼んだ「庭園の蓮の花の具合が良くなくてね、紫遊蝶が寄り付かなくなってしまったんだ。傷んでいる花を摘んで持ってきてくれないか」なんだそんなことかよと思いながら従者に連れられ庭園に向かう。関所の殺風景で狭苦しい部屋とは違い庭園の鳥見小屋は金銀で織られた布の屋根に赤と紫、緑と黄色に彩られた垂れ幕で雅やかに飾られている。そしてその庭園の広さは東京ドーム4つ分ぐらいあった。ひらひらと紫遊蝶が舞っている。痛んだ蓮の花を摘むのに何時間かかるんだよ。そもそも蓮の花が痛んでるかどうかなんて分からねーよと岳はとりあえず目の前にある花から見ていった、すると健司が「岳よ、水が腐っているんじゃないか」と諫める。たしかに少し汚い。蓮のくきの底にヘドロのようなものがついている。これをなんとか取り除かないといけないのか、これは無茶だ。すると釈迦の声が頭の中に響いた。「おーい、言い忘れていたんだけど汚泥を吐き出す溝がそこかしこにあるから、それを抜いてみるといい。ここでは時間が存在しないから好きなだけ働いてくれていいからね、疲労も何も感じないはずだから」釈迦さんかなり適当だよね。「こら岳、罰当たりめ、そんなことをいうもんじゃない」おじいちゃんはまぶたの裏を借り住まいにして居候しているんだった。出てきて手伝ってよ。
身近な溝にある蓋を手あたり次第に抜いていくとものすごい勢いで汚泥が流れ出ていく。そこに青紫の破片がほんの少し岳の身体から抜け落ちて混ざり流れていった。
岳が遠くから釈迦に向かって叫ぶ「お釈迦様ー、この泥はどこへ行くんですかー」そんなに大きな声で叫ばなくて大丈夫だよと釈迦が返す
「まあ、いわゆる、その、地獄的な感じの方に流れていくから気にしないで」歯切れの悪い回答が返ってきた、よほどの場所に違いない。途方もない作業に終わりの無さを感じている岳には周りを見る余裕などなかったが、こっそりと釈迦の従者や弟子たちが剪定を手伝ってくれている。刈り取りの上手い者もいれば、引っこ抜いている者も。不思議なことに抜いたり切り落とした蓮のくきからはまた綺麗に咲き直して花がもどってくる。そして切り落とした蓮は光の破片になって小さく丸まった。かごにひょいと入れる。これはなかなか面白いな、もう少し、あと少し、いやもっと、そうこうしているうちに蓮の花の剪定が終わる合図が流れた。
「皆さんお疲れ様でした、ではゆっくり休んでください」と全て聞き終わった瞬間に肉体にもどされた。すぐに不動医師が岳の元を訪れてこういった「あの世の仕事も思いのほか面白かったであろう、失礼した、楽しく働いてきましたか?」岳は元気よくはいと答えた。何より釈迦に合えたことがとても嬉しかった。興奮して夜しか眠れなかった。今日の当直は矜さんだ、なんて読むのか聞いてみようかと待っていると白衣の天使が岳の部屋にやってきた。「研修生のコンと申シマス、ヨロシクお願いしますぅ」少し片言なのが気になるがかわいい。控えめに言って女神の生まれ変わりかそのものだろう。そうに違いない。血圧と熱を測ってもらった後、救急車のサイレンが遠くから近づいてくるのが分かった。それはやがて耳にガンガンと響き渡るほどの騒音になっていた。その瞬間は訪れた、救急車は全くブレーキを踏まず全速力で病院めがけて突っ込んできた、幸い斜面だったのでいくらかは失速した物の救急車の中や屋根に大量の憑物がまとわりついている。ドジョウのような憑物が窓ガラスを割って岳の部屋に飛び込んで獲物を探し始めた。きた、そう思った瞬間、太い脚がドジョウを蹴り上げ天井に叩きつけられひるんだ。ドジョウにさらに追撃が叩きこまれると、断末魔の叫びと共に赤黒いドジョウは灰になって散った。後にはポリプロピレン製のおもちゃが落ちていた
「沢山さんお怪我はありませんか?」と野太い声が話しかけてきた。月明かりに照らされた名札にはコンと書かれている。岳は自分の目を疑った、そして絶望した。天使は巨漢の童子に様変わりしていた。岳はその瞬間何かに気づいた。絵が描けなくても字はかけるじゃないか、今の光景をくすねておいたボールペンでベッドシーツに書き留めてから、矜羯羅童子に連れられてナースステーションまで走って逃げた。割れたガラスがいくつか岳に刺さっていたが出血はしていないようで、矜羯羅童子はそれをするりと抜き取ったが痛みはなかった。この病院は実像と虚像のはざまにそんざいしている。いくら破壊されようとも元に戻ってしまうという不思議な特性を利用して従者の訓練もおこなわれている。
病院に激突して転倒した救急車から憑物があふれ出してきている様子を目の当たりにした岳は怖くなって配膳運搬車の後ろに隠れてしまった。
矜羯羅童子が7階の憑物をあらかた滅すると、憑き物がおちた物品が大量に床に転がっていた。「人間はものを大切にしない、昔よりもそれが際立ってきているせいですぐに憑物が湧いてしまうのです」矜羯羅童子が破れた白衣を脱ぎ捨てると、隆々とした上半身をさらけ出した。手につけているのはなんだ?セスタスか?拳には厚く菱形模様が刻まれた帷子が巻かれており、まとった羽衣が憑物を切り刻む。恐ろしい戦いを目の当たりにして岳はますます怖くなり下膳用のエレベーターから1階に降りて食堂の裏口から外へ逃げ出そうとドアを開いてしまった。何の訓練も受けていないが反射神経だけは突出していたため難を逃れた岳をペットボトルの憑物が執拗に追い込む。逃げられない、玉砕覚悟で配膳トレーを目くらましにして重いきり憑物を蹴り飛ばそうとしたが、あしをぐねって転倒しただけだった。次の瞬間ドアと壁が鋭い刃で両断され憑物ごと海に蹴り飛ばされていた。
「大丈夫か沢山君、1人で逃げてはいかん。お前を守るのが我の務めだ、しかと我が力を見届けよ」転輪が激しく回転を始め真っ赤な火柱が不動を包み込む。
「憑物が人の世を乱すはあらぬこと。不動明王、悪鬼滅却がことわりなり」
金色の三角錐が頭からはみ出て月明かりに輝いている、片方の目に火を宿しもう一方は金色に揺らめく。剣を振りかざすと六角板金がほどけて周囲の憑物を瞬時に切り刻んだ。その速さに童子たちも驚きを隠せないでいる。
「明王様、院内は我らが始末いたします故」と8人の童子が各階を壊して暴れ回る。ここ患者がほんとに入院してるのと驚く岳をよそに不動明王の二本牙が輝き全身が金の光につつまれる。
「秘仏金色不動」。その手に握る三鈷の利剣でするどく周囲を薙ぎ払った。斬り逃した1匹の憑物が慧光童子の脚に絡みつくとすぐさま触腕をとがらせ心臓を貫いた。が、童子は全くひるまずに手に持った戟をふるい憑物を叩き伏せるとそのまま押しつぶして滅してしまった。阿耨達多童子(あのくたどうじ)は従えた龍馬を匠にあやつり水流で憑き物を一掃した。滅された灰燼のあとにはたくさんの漂着物が残った、これらは遠くはなれた韓国や中国のゴミだった。人はいつから物を使い捨てるようになったのだろうか
時を同じくして、高野山に奉納されている慧光童子の木造にひびがはいっていると住職があわてて修復を手配している。不動明王像の剣の刃が少し欠けて木くずがほろりと落ちていった。
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