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ゴミ屋敷への訪問診療

在宅医療とは:病院や診療所などの医療機関の外(自宅や介護施設など)に医師や看護師、薬剤師などの医療職が出向いて行われる医療行為のこと
(Wikipediaより)


今日の訪問診療は残すところあと一軒だった。
どんな家なんですか?と尋ねると先生が答えた。
「うーん、まぁ、俗にいうゴミ屋敷ってやつですねぇ。臭いに耐えかねたら車で待っててもらっても構いませんよ」
やれやれ。車は大通りから右折して狭い道路をゆっくりと進んでいった。
フロントガラスをワイパーが何往復も横切っている。

小さな茶色の平屋だった。
玄関はすりガラスの引き戸になっていて、その横幅の四分の三くらいにわたって堆く荷物が積み上げられているのが、すりガラス越しにぼんやりと見てとれた。

荷物のない残りの四分の一に身体を捻じ込んで玄関に入ると、目の前には廊下が伸びていて、突き当りの右手が居間になっていた。靴を脱いで廊下に上がると饐えた匂いが鼻を突いた。
あえて例えて言うならば、汗だくで三日間放置したシャツや靴下にウイスキーとチョコレートをかけたような匂い。
廊下には開封済みの醤油やら使用後と思われる割りばしやらが疎らに散らかっていた。
僕はそれらを避けて足を踏み出すと、そこの廊下の床が撓んだ。
僕はべこべこする廊下を爪先立ちで進んで、突き当りを右に曲がった。
そこで僕の目にしたものとは!

部屋は汚辱そのものだった。
飲みかけのペットボトルが見える範囲で百十二本落ちていて、そのうちの幾つかは茶色の澱が汚らしく沈殿していた。
足元には「いかおくら巻き97円」と書かれた総菜のパックが転がっていて、その横にはたまねぎと汁の残ったカップラーメンの空き容器が置かれていた。
豚丼のタレとかめんつゆとか味ぽんとか様々な開封済みの調味料が、ベッドの上だったりベッドの下だったり衣服の山の中だったりに打ち捨てられていた。
その部屋のなかでのみ生き延びることの出来るような醜怪な羽虫なんかが僕の視界をうろちょろしていた。
息をしたら玄関で嗅いだのを数百倍にしたような激臭が僕の鼻腔内に入り込んできて、僕の臭細胞が数万個死んだ。
僕は部屋の中のものに触れたら、ちょっとした傷口から未知の細菌やらウイルスやらが侵入して、僕の身体に致命的なダメージを与えるんじゃないか、と恐ろしくて出来る限り接地面積を減らして部屋の隅で突っ立っていた。
それなのに先生はずんずん部屋を進んでいって、笑顔で調子どうですか、なんて聞いている。
ごめんよ、先生、僕は呼吸するだけで精一杯なんだ。
僕は息をするたびに何か良くない浮遊物が肺に入り込んで、肺がぐちゅぐちゅに腐ってしまう、みたいな想像をしてしまう。ぐちゅぐちゅの身体。
頭を軽く振ってその想像を振り払う。

先生がバイタルセット頂戴、と言うから僕は先生に手渡すために部屋の中央へ歩いた。
もう少しで手が届くというときに右足が何か濡れているところを踏みつけた。
うわっ、と僕はよろめいて咄嗟にバランスをとるために左手を衣服の山に置いた。
ぬちゃっとしていた。
僕は絶叫しそうになるのを堪えて、先生にバイタルセットを手渡した。
もう駄目です、僕は汚辱に塗れて死んでしまうのだ。

診察が終わって外に出た。
先生がにこにこしながら、どうだったと尋ねた。
壮絶でした、と僕は答えた。
左手と右足にはぬちゃっとした感触が残っていた。
車は病院へ戻っていく。
雨は止んでいて、雲の薄いところがぼんやりと明るくなっていた。

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