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どこでもドアの致命的欠陥

ここで言う致命的欠陥とは柳田理科雄氏の空想科学読本にて展開された、莫大な運動エネルギーが云々と言った類いの話ではなく。

結論から述べると、名前が終わってる。
胡散臭いと言うのもありますが、「どこでもドア」という固有名詞がこの機械の持つ機能性や性能のポテンシャルを損なっていると思いませんか?

どういうことかというと、例として自動車を挙げます。
細かく定義するとまた違いますが自動車は字の通り、「自ら動く車」と言う定義をされるわけです。

これは自動車の登場以後、馬車や牛車などと対比して分別したものと見て問題ないでしょう。
現代では日常的には自動車を「車」と略しますが、平安時代には「車」は一般に牛車を示す語も先述の証左ともなり得るのではないでしょうか。

また、「車」は本来「車輪そのもの」や「車輪のついた乗り物」を示す語ですが、先述の通り、現代では日常会話での頻出度の違いから「CAR」の車に置き換わっているわけです。
そりゃそうでしょ、誰が日常会話で本来の意味の「車」を使うんだって話し。だいたい車輪は車輪だし、「車輪のついた乗り物」なんて電車か自動車くらいだから。

さて、ではどこでもドアですが、ご存じの通り最強無欠の移動手段でしょうあれは。
あんなのが発売されたらフォードの自動車も卒倒の一大ムーブメント。全てのパワーバランスがひっくり返る。
どこかしらからの黒い圧力がかかりそうな気がしないでもないですが、それはさておき普及率は車の比ではないでしょう。

で、そうなった暁にはどこでもドアも当然略称名が生まれるわけですよ。

そう、「ドア」となるわけです。

「車で行く。」「車貸してくれない?」などの会話が全て「ドア」に置き換わるわけです。
上のような会話ならまぁ理解できます。
「うちの車壊れた~。」「○○の家って車ある?」

「うちのドア壊れた~。」「○○の家ってドアある?」
とかになるわけです。

例えば、どこでもドアが壊れたのでドア修理を注文したら建具屋がちょうつがいとネジドリルをひっさげて来かねないのです。
だってドア修理だもん。注文通りです。

こんな具合に、どこでもドアは存在が一般化して社会に定着してからの問題点を孕んでいるわけです。
そもそも「どこでもドア」って名前のキャッチーさが能力値に対してただ足引っ張るだけだし。
きっと販売元は未来の夢グループに違いない。

でも結局「移動ドア」とかにしても「自動ドア」と聞き間違えやすい。

そもそもとんでもない性能に対して「ドアを模倣する」という行為があまりにも邪魔すぎる。蛇足。はっきり言って蛇足。
別にキャッチーにしなくても評価されること間違いないんだから飾りっ気なんていらないんだよあれは。

今から未来を憂いています
21世紀から愛を込めて

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