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ちょっと真面目に語る

今日は朝から雨。。。気温も下がり気味。
ということで、家に引きこもっている。
相変わらず、私の腸さんは私に何を訴えているのだろうか。
教えて腸さん。
加えて喉の痛みが中々取れません。
『咽頭炎』って結構辛いな。

心理学の様々なメモがたくさんある。
それを少し整理しようとしている日曜日である。
そして、卒研の資料を読もう。

自分のために生きる。
これはどうなのだろう。
誰かのために生きる方がよっぽど生きる糧になるのではないだろうか。
とも思う。
自分のためだけれど人のためにもなる生き方が理想なのかもしれない。
自分を愛する度合いしか他人を愛することしかできないとも言われているし。これは科学的に証明されているモノだろうか。

私は何に興味があるのか。もうずっと向き合っている。
最近なんとなくわかってきたような気がする。
そうは言っても、私はこれからもずっとモラトリアムで生きていくような気がする・・・。
思春期のアイデンティティの確立は永遠に続いていくのだろう。
まっ、それが『私』なんだから仕方がないと最近は受け入れている。
焦ってジタバタする必要はない。むしろそれが『私』なのだと。
少しずつ目の前のやるべきブツと向き合い、
共に精一杯全力で駆け抜けていきたいと思っている。

何かを抱えている人 ー 仮にAさんとしよう。
私はAさんの行動の本当の意味は?Aさんが本当に言いたいことは?
Aさんが何を感じている?そのAさんの感じていることをAさんが感じているように感じてみる。私がしたいことというのは、そのAさんが発する言葉の裏にある『何か』を一緒に考えてみることなのであろう。

昔は、いちいち他人のすることに腹を立てたり、否定に入ったり、蔑んでみていたり、反論したりしていたと思う。自分が正しいと思うことは頑固として譲らないそんなめんどくさい人間であった。これって、ものすごいエネルギーを使う。心臓がドキドキで今にも飛び出してきそうなくらい。きっと表情もものすごいことになっていたのだろう。

自分が正しいという思いを初めから持たなければ、こういう余計なエネルギーを使わなくて済む。何しろ自分が一番疲れてしまう。

いくらこちらが正しいと思っていても、相手も自分が正しいと思っているのだから、人間というものはおもしろい。
私もOK。あなたもOK。これで良いのだが、その頃の私はそうではなかった。今思うと恥ずかしすぎるくらい恥ずかしいとあの頃の自分に言ってあげたい。

最近は、人は皆(自分も含めて)、価値観・世界観の異なる宇宙人同士と思っている。特に、学生と接するときに、そう思っていると何よりも自分の心の平和を感じる。

そうね。だから私は英語を話していると楽なのかもしれません。
私の心のどこかで、そもそも分かり合えない、互いに違う生き物だってことを前提としているから、だからこそ、思ったことを必死に伝えようと、相手が自分の欲することを正しく理解してくれたかどうかを確かめようとコミュニケーションを取ろうするのかもしれません。

文化の異なる学生を接しているとある意味楽かもしれない。時折、勿論『えっ?何で?』と思うこともあるけれど、それぞれ国も違う、言葉も違う彼らということは、価値観、世界観も違う、こちらの常識はあちらの非常識だし、あちらの常識はこちらの非常識となるわけで、こちらの正しさを主張だけしていたら、誰も幸せにはならない。そもそも、こちらが正しいと思っていてもあちらの文化では正しいとは限らない。彼らは自分のやっていることは正しいと思って動いている、それを私はただただ尊重しながら、見守っていくことで、両方に穏やかな空間がやってくる。

学生たちに限らず、苦手だなぁと思うする人たちや、不快に思う状況に出会した際、マインドフルネスを習慣化してきてから(マインドフルネスだけではないと思うが・・・私の中でいろんなものが統合されてきたとも言える)、相手はどういう気持ちでこのような言動をするのだろうと、少し自分にポーズを与えて、その状況を俯瞰できるようになってきた気もする。それをすることによって、互いに傷つくことなく、不快な気持ちにならず、何よりも私自身が快適な気分で生きていけているのではないかと、これを書きながら感じている。

自分が嫌だなぁと思うことを人に言わない。しない。
なぜかと言うと
それをすると、いずれまた、その嫌だなと思える出来事が
自分に降りかかってくる。何度も何度も・・
その度に何よりも自分が嫌な目に遭い続けることになる。

『言霊』とはよく言ったものだ・・。
そして、人を蔑む言葉は美しくないから・・・。
どうせ生きるのなら、カッコよく美しく生きていたい。





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