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雪組ボイルド/Frozen Holiday感想━ファンダムとのコミュニケーションをもうすこし詰めて描いてほしかったかも

 宝塚雪組「ボイルド・ドイル・オン・ザ・トイル・トレイル/Frozen Holiday」を観劇しました。作家が自分の意志を超えて大きくなってしまったムーブメントに悩まされる話と、雪組の歴史やタカラジェンヌたちのこれまでをよく知るファンたちに向けたメタ的演出の多いショーというなんとも不思議な組み合わせでした。

 感想を書いていきたいと思いますが、やはりどうしても昨年秋からの宝塚歌劇団にまつわる一連の事象が頭にちらついた上での感想になってしまっているかと思うので、その点ご了承のうえ読み進めていただけますと幸いです。

「なんでもできる作家パワー」のつかいどころ

 「Death Takes A Holiday」「ディミトリ」それから宙組の「シャーロックホームズ」。この3作が私が現地で観劇したことのある生田大和演出ですが、今まで見てきた宝塚作品のなかでは3作ともかなり上位のお気に入りです。なので今回もものすごく期待して見に行ったのですが、思ったほど「最高……!」とはなれませんでした。これまで見た3作に比べると、「ボイルド〜」がもっとも物語の展開において演出・脚本家の裁量が大きい作品かと思うので、「生田作品、好きだと思っていたけどもしかして好きなのは演出だけだったのか!?」と若干ショックを受けました。"推し演出家"を見つけたと思っていたんだけどな……。

 発想と演出は最高だと思います。シャーロックホームズとドイルがやりあうとか絶対面白いしポスターが最高だし、舞台セットも面白かったです。また、1回目の観劇を終えたあと、「ホームズは絶対に普通に袖からは登場しないで本の中やせり上がりや舞台の奥から出てくる」という気づきツイートが流れてきて、2回目観劇で自分でも確認して、「天才か!?!?!」と思いました。

 ドイル邸パーティで悪魔の格好で登場するホームズなんて本当に見事ですよね。パーティに来た人々の間からあらわれていつのまにかそこにいます。ドイルが悪魔だと思い込んでいるからホームズは悪魔の格好をしているのですが、ドイルは「自分がホームズを悪魔だと思い込んでいるから」ではなく「自分の周りにいる人々がドイルの存在や意向以上にホームズを求めてしまったから」悪魔の姿をしていると思っている。そんなホームズが人々がいたはずの場所に忽然とあらわれる。悪魔の格好になって歌い踊るあーさホームズからは若干の「トンチキをスター性で捩じ伏せてる」感があるのですが、演出とドイルの内面描写としては見事だと思います。

 ただ、題材の扱い方と展開には納得感が薄かったです。「物語の中ではなんでもできる」のはいいのですが、やはりルイーザの病気の件でそれを使うのは安直すぎるでしょ……と思ってしまいました。実際ライヘンバッハに行ったのはルイーザの療養のためで、結核で死にかけたルイーザはそのあと10年間生きていたらしいですし、話の流れとしておかしいわけではないのですが……。

 創作された物語の中のドイルがドイルによる創作物語の中のホームズと話すことだってできるし彼を殺してしまってもまた会うことができる。なぜなら「ボイルド〜」は創作された物語だから。で十分おもしろい構造になっていると思うんですよね……。ドイルがホームズの姿をみることができるように、どこかで生田大和の「なんでもできる」作家パワーを使う必要がある、ということなんだと思いますが、結構その点がNot for meでした。

タカラジェンヌと「作家パワー」

 和希そらの「退職します」「どこにもいかねえよ」で結構十分なくらい生田大和の「なんでもできる作家パワー」は発揮されてるんですよね。もう和希そらが退団する事実は変えられないのに、「どこにもいかねえよ!」と言ってくれる。これだけで、作家パワーの使い方としてはいいと思います。一方、ルイーザの病気の治り方はどうもご都合展開すぎるような気がしてしまいました。無理にドイルの直面する現実に干渉させなくても良くて、客席に座る我々が「物語ではなんでもできるよね!」とドイルと生田大和と目配せができればそれで十分じゃないでしょうか。そこ、ホームズとドイル、ルイーザが目配せする必要はあったのか……?

 宝塚の脚本家の「なんでもできる作家パワー」で最も大きいのは、スターにやらせたい役をやらせることができるという点です。そのスターとそのキャラクターの邂逅でなければいけなかった、と思える瞬間こそが愛しいです。彩風咲奈さんが演じた中で最もそれを感じたのは、個人的にはお披露目の冴羽リョウでした。比較的学年の近い相手役のコンビで、片方が片方を一方的に助けるのではなくてお互いにお互いを必要としている様子を見せているのがとても感動しました。

 個人的にはそのバランスが悪く、「そのスターだったからなんかよかった風になってるよね」みたいなキャラクター、作品にあまり納得できないです。今作は、メイン三役、とくにルイーザにそう感じてしまいました。

 ルイーザを演じた夢白あやは、女だけを集めて男尊女卑を再生産する宝塚歌劇団の雰囲気をものともしない稀有な娘役です。夢白あやが演じると、物分かりが良くてかわいらしいtheヴィクトリア期の貞淑な妻といったキャラクターにも、芯があり1人で生きていく力があるしなやかな女性のような一面が加わります。夫のために東奔西走しまくっているキャラにも関わらず、です。正直、ルイーザを演じたのがもし夢白あやじゃなかったら、特徴的なところの特にないトップスターの妻の役になってしまっていたような気がします。

 そんな夫婦を使って、ドイル夫妻つまりトップコンビの問題だけ見た目上解決したように見えればOK、という結論にされたことに若干がっかりしました。デスホリもディミトリも終わり方がとっても綺麗でしたし、宙組ホームズも有名作品の宝塚ナイズドとして「すごい!これはアリ!」と思えたから、比較してしまったのもありそうです。

 また、これは完全に「生田大和自身がどうやらかなりシャーロックホームズに思い入れがあるらしいから」という結論に尽きるので言っても仕方ないのですが、それでも「なんでシャーロックホームズを選んだんだろう」と思ってしまいました。ホームズはあまりホームズらしい活躍をしているようには見えなかったです。「なぜなら君が書いたから」と歌い、ホームズたちの世界がドイルたちの世界で描かれたフィクションだということは理解していそうなのにドイルをずっとワトスンと呼んでいるのも「ん?」と思いますし。

 余談ですが、作り手を主人公にした物語を作るなら、ドイルと似た悩みがあったと考えられる有名な画家のアルフォンス・ミュシャが思いつきました。ミュシャは、パリでポスター画家として大活躍したのですが、彼自身はずっと故郷チェコやスラヴ系の人々のアイデンティティを鼓舞する歴史画を志向していました。

 夢白あやが、ポスターに描かれるアール・ヌーヴォーの曲線美を湛えた美女とスラヴ民族を鼓舞する絵画に描かれた意志の強そうな少女を演じながら、愛国的な画家の彩風咲奈を翻弄していたら……なかなか妄想のしがいがあります。

作家を取り巻くものが道化で終わってしまった勿体なさ

 宝塚のオリジナル作品は、だいたい「トップスターが演じるキャラの陣営」vs「2番手男役かそれに準ずるキャラや概念の陣営」の構図がわかりやすすぎるほどわかりやすく描かれますが、この作品はそうでもないのが大きな特徴だったように思います。

 ホームズに売上を支えられる編集者たちにくわえ、一般的な雑誌読者たちが、ドイルの意のままにならない存在としてえがかれます。なので、ストーリー中盤まで「ドイルが思う以上にホームズを求めるファンダムの人たち」がいわゆる第二勢力なのかなと思いました。

 しかし、ストーリーは最終的にドイル自身の葛藤のみに焦点が当たる形になります。ファンダムは特にコントロールする必要はなく、あくまで自分がホームズの世界の創造主として上手く付き合っていこう、という結論になるのです。ファンたちは、ただ「ホームズに会わせて!」などとかしましく騒ぐ奇特な人たちのような印象でおわってしまいました。

 これ自体には多少物足りなさも感じますが、悪くはないと思います。しかし、このお芝居の結末と今回のショーの相性がすこぶる悪かったです。

ファンはもう少し作り手つまり宝塚歌劇団に誠実さを求めてもいいんじゃないかと思った

 「うっかり描きたかったジャンルじゃないものを描いたらファンとか編集をコントロールできなくなっちゃったけど書くのは俺だから!」という結論の物語を見た後に始まる「Frozen Holiday」。雪組100周年を祝い、3番手スターの餞の場面がたくさん用意された、極めてファン向けな内容のショーでした。

 宝塚歌劇団が110年続いてきたのは、(さまざま問題はあるのですが)長きにわたってファンを満足させ、彼らの心を掴んで離さなかったからです。ファンがいなければ続いてきていないでしょう。今作もまさに、ファンの反応を予測し、ファンを喜ばせるために作られたショーでした。戦争やコロナ禍といった歴史的な危機の中でもともにあってくれてありがとう。お祝いしよう。そういう、舞台上と客席のコミュニケーションが何よりも大切な作品でした。

 しかし、「つい先ほど『作り手は俺!』って言ったじゃないか」というのがチラチラ気になってしまい、ついでに『作り手』つまり宝塚歌劇団のファンへの不義理までよぎり始めてしまいました。

 たくさんの餞場面を用意され、異例の待遇でトップスターと2人だけで踊る場面を用意されていた和希そらをみて特にそう感じました。彼女は、96期生の筆頭路線男役としてさまざまな目を向けられてきました。実際、彼女が心から満足して宝塚を去るのか、本当はトップスターになりたかったかなんて、誰にもわかりません。彼女はホームズと違って生身の人間ですから、さまざまな思いがあっただろうと察せられます。それなのに、『作り手』はまるで彼女をホームズのようにコーティングして客の前に登場させます。

 宝塚歌劇団は、一昨年からいままで「世間がこういう流れだから仕方なくこうする」「ファンがどう思うかは知らん」というように見えてしまう態度を何度も取り続けてきました。そんな劇団から『作り手』としてスターとファンのメタな関係を前面に押し出したショーを提供されると、少し気持ちが迷子になりました。どんなことがあっても舞台の幕は開くとか、困難を乗り越えるとか、このタイミングで歌わせるなら後手後手じゃない割り切った対応をとって欲しかったです。

 トップ娘役は96期からはあんなに出たのにトップスターは出せないんだな。和希そらを「惜しまれながら退団する稀有なスター!」みたいにプッシュするけれど、これまで劇団は不祥事の対応について「ファンがなんかごちゃごちゃ言ってるけど所詮我々が決めることなんで」みたいな態度だったじゃない……と思ってしまいました。

 和希そらに真っ白な衣装で見せ場を作り、トップスターと2人きりの時間を過ごさせたって、解決していないわだかまりがある状態では素直に喜べません。だって、この物語の操り手である宝塚歌劇団は、物語の登場人物ではない生身の人間であるタカラジェンヌを、まるで自分たちがコントロールできる物語の登場人物みたいに扱ったじゃないか。ありとあらゆる不祥事の渦中にいるジェンヌの本当の気持ちが大切にされているのかファンには全くわからないまま、劇団が付け焼き刃で決めた「この子たちは悪くないでプッシュします」「準備が整ってないので舞台に出しません」と、シャッターを下ろされてきたのに。ずいぶんと調子がいいじゃないかと思ってしまいました。

 こんな感想を抱かせてしまうような運営、演出家にも失礼だと思うんですよね。ものすごく複雑な観劇体験でした。夢白ちゃんは何を着ても最高にかわいいということと、人生のメリーゴーランドを出されたらそりゃ〜手を叩いて喜んじゃうよね〜と思ったことだけを記憶に残して、頭を空っぽにして劇場をあとにしたかったです。

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