私たちは対話をできているだろうか
題名:他者と働く 「わかりあえなさ」から始める組織論
著者:宇田川 元一
『narative and dialogue』フレーズが表紙にあるこの本について
オンラインコミュニティで話す機会があった。
・ナラティヴ(narative)とは「解釈の枠組み」のこと。
人は関係性の中で暗黙的な解釈の枠組みを持つことがあり、
その人たちが置かれている環境においては『一般常識』となる。
・対話(dialogue)はナラティヴの溝(適応課題)に橋(新しい関係性)を築く行為である。対話には以下4つのフェーズがある。
1.準備 関係性が「適応課題」を生み出していることを認める
2.観察 相手のナラティヴを観察する
3.解釈 「新しい関係性」を作る方法を構想する
4.介入 実際に行動を起こして、新しい関係を築く
(上記は本文より抜粋。一部省略あり)
プロセスを抽象化してみると、
わざわざ改めて言うほどのことではない気もしてくるが、
会社での上司との対話を思い起こして考えてみるといかにこの対話が難しいかということが浮き彫りになる。
上司と話すときに「この人が上司である」という解釈を抜きで話すことがどれだけできるだろうか?
逆の立場になって、自分が部下に対して同じ立場で話しているつもりであっても、それが心からの言葉だと信じ切ることはできるだろうか?
(また本当にそう信じてしまってよいのだろうか?)
本の中で印象に残ったのは以下の2つ。
「上の立場であるほど孤独である」
「私もそうであったかもしれないと考える」
出世していくということは、同じ目線で対話していく人が減っていくということなのかもしれない。
そして同じような環境の中では、私も同じようにふるまうのかもしれない。
今までと同じようなつもりで対話していても、
一度就いてしまった役職からだと、前のようには話せない怖さを感じた。
信頼のおける上司だったら、この橋を渡りたいと思うのではないかというのが、今の私が考えうる希望である。
管理職になる前にお世話になった先輩、すごくお世話になったリーダー。
その人と成りを深く知っている人には、
ナラティヴの中で違う言葉を使っていたとしても、
対話していくことで変わらない部分を見つけられるかもしれない。
そんな先輩にとって、橋を渡っていける人でありたい。
そして自分も、橋を渡ってきてくれる後輩との関係を作りたい。
そんな思いが、「ひとつの会社で働きつづける」ことや、そこでの人間関係を続けるモチベーションにならないだろうかと考えたりした本だった。
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