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2004年10月23日17:56の記憶

今日は、中越大震災の日です。あの日から19年も経つと思うと、時の経つ速さを実感します。

2004年10月23日17:56の記憶

人間は衝撃的な出来事は忘れずに覚えているものです。

当時、筆者は高校2年生でした。(若っ😅)
その日は土曜日でした。
土曜日にも関わらず、一日中、学校で模試がありました。
夕刻、ようやく終わって、やれやれと学校を後にし、自転車で本屋へ。

買いもしない参考書を物色し、家へ帰り、家でゴロゴロしていました。

台所では、母が夕食の準備をしていました。
リビングでゴロゴロとテレビを見ていました。
当時、日テレ系列で「テレビおじゃマンボウ」という番組をやっていました。

中山秀征さん、麻木久仁子さんが出演していました。
麻木さんが、
「それでは、皆さん!また来週〜!!」
と言ってカメラがフェードしていった瞬間、

一瞬のカタカタした揺れから、下から突き上げるような大きな揺れになりました。

震度6弱の揺れの中では、何もできず、
殺虫剤をかけられて、裏返しで足をばたつかせるゴキブリのような状態でした。

棚は倒れなかったものの、階段の照明は壁にぶつかって砕け散り、とても歩けないような有様になっていました。

只事ではない、と近所の人たちが表に出てきます。
どうする?どうする?と相談して、近くの中学校へ避難することになりました。

電気は止まっているので、あたりは暗く、何とも不安な気持ちでした。

避難しようとした矢先に、隣の一人暮らしのおばあちゃんのことを思い出しました。

隣のおばあちゃんにも声をかけて一緒に避難します。

公民館の方が、中学校の体育館のカギを開けてくれました。

しかし、非常灯以外の電気はつかず、真っ暗です。

真っ暗な体育館の中に次々と近くの住民が集まってきます。

真っ暗な中、体育館へ避難している時にも何回も余震がきます。

体育館の照明やバスケットボールのゴールが落ちてくるのではないかと不安で仕方なかったです。

20:00頃、近所の街灯が付きました。
中学校の卒業生である私は、体育館の照明のスイッチを知っています。

私がパチっとスイッチを入れると体育館の水銀灯がついて、ぼやぁっと明るくなりました。

体育館でどこからともなく拍手が起きました。

夜空にはヘリコプターが何機も飛んでいて異様な雰囲気。

とりあえず電気が復旧したので、私たちは家に戻りました。

テレビが付きました。水道も弱いながらもチョロチョロと出ます。

有り難いことにその日、家で寝ることができました。

今でも不思議なのですが、あれだけの揺れだったにも関わらず、食卓の中華炒めは無事でした。
家で家族で食べた冷めた中華炒めの味を今でも覚えています。

テレビは全て地震の報道。

地元の知っている風景がガタガタに崩れた様を見てショックだったことを覚えています。

これまで安全神話を保ってきた、新幹線が自分の身近で脱線している様子はなんとも衝撃でした。

私たち家族の住んでいたところは揺れは大きかったものの、壊滅的な被害はなく、すぐに日常に戻りましたが、山沿いを中心に壊滅的な被害を受けたところも多く、復旧にも時間を要しました。

しかし、街中には、なんとか日常を取り戻そうと人々が協力しようという勢いがあったように感じています。

一応?理科教員である筆者は、

中1での地震の単元で、中越地震での経験を語ります。

初任の頃は、生徒も中越地震を経験しているので、とてもホットな記憶を共有できました。
一方で、地震で大きなショックを受けた生徒もいたので、配慮しながら題材を選んだ記憶があります。

ですが、年々地震の記憶のある生徒は年々成長していくので、今では中越地震を経験した生徒はいません。

地元で起きたことなのですが、彼らはうまれていないので、
写真や当時のニュースの映像で、見覚えのある場所を紹介しながら、どんな様子だったかを伝えていました。

地元で起きた地震のことを子どもたちに語ることは、地元の理科教員の仕事の一つだと感じています。

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