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自分から見た「母親」という存在

この前、部屋の掃除をしていたら、不思議なノートを見つけた。
見たこともないB5サイズのノート。使い古されているような使用感に思わず開いてしまった。

それは、母の日記だった。
といっても10年ほど前の。

自分の母は、とても賑やかな人。
「大切だよー、大好きだよ。」って伝えてくれるし、
「今日こんなことあった」って話してくれる。
そのあとに必ず「あなたの一日はどうだったの?」って聞いてくれる。

良き理解者であり、話し相手でもある。

体調が悪いとすぐに気付いて、朝時間がない中、コンビニまで車で走り必要なものを買ってきてくれる。
朝早くから夜遅くまで家にいない家族のために、母にも母の仕事があるのに、それに加えて家事を殆ど終わらせていてくれる。

自分にできる事は風呂洗いと夕飯の食器洗いだけ。

喧嘩するときもあるし、怒られるときもあるけれど
その次の日には必ず明るい声で「おはよう」と声をかけてくれる。

自分にとっての母は何でもできる、
いわば万能な人というイメージがあった。

しかし。
見た日記にはそんなこと、一つも書かれていなかった。

書かれていたのは後悔悲しみ落胆と。

「母」でない「一人の女性」としての母であった。

今までで一番大きな喧嘩をしたとき。
母の日記には
「どうしてこうなってしまったんだろう。
どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。」との記述があった。

子どもの立場として、母親に怒られることなんてざらにあって。
喧嘩の最中は
「わかったよ!」「本当に嫌だ」
なんて
少し、嫌だっただけで、言葉をポイポイ投げつけて
はーむかつく。なんて思ってる。
子どもの頃は自分を守るので精一杯。
母の気持ちって血が上っていると
考えられなかったりする。
(あくまで一個人の経験だけどね)


すっごく傷つく言葉を言われても、
やっぱり母親が好きだし。
必要だし。

だから、母親の傷ついた表情を見て、
「ごめんなさい」と謝る。
大好きなあなたにそんな顔させてごめんなさい。と。
大好きなあなたをこんなにも怒らせてしまったことが悔しくて、もどかしくて泣いてしまう。

自分ってなんてダメなんだろう。
そうやって落ち込むし、
反省する。

怖いからってときもあるけれど。(笑)

そして、怒られた後も、喧嘩した後も怒りから後悔がきて。
自分が悪いってわかっていると言う事も自分で身にしみて感じて。
罪悪感でいっぱいになる。

明日気まずいな。いやだな、顔合わせるの、
そう思いながら眠りについて、朝目覚めると、
いつもと変わらない母の姿に安心する。

「昨日はごめんね」ってするっといえる。
痛かったおなかも治ってくる。

母が自分を生んだ歳に近くなるにつれて、母親の凄さを身にしみて感じる。
自分は母親の様にできるだろうかと不安になる。

けれど、日記を見て、母も人間だったんだ。
万能な人ではない。後悔と失敗と。学んで蓄積して今がある。

自分の中の母親と日記の中の母親が乖離しすぎてて。
はじめ見つけたときは衝撃が大きかった。

だけど、今はなんだか安心する。

こんなに自分に向き合ってくれてありがとう。
沢山考えてくれてありがとう。
あいしてくれて、ありがとう。

…ワンピースみたいになっちゃった(笑)

日記を見つけてからは母に感謝があふれてくる。
こうやって向き合ってくれていたんだなと心がジーンとする。

日ごろ接する人でもある特定の側面しか見えていないことがあるのだなと
学んだって話でした。

では、また。


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