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自分語りとコンテンツの狭間

私がずっと考えてきて、最近少しだけ掴みかけているかもしれない?ってことを書き残してみる。

自分語りについて


いまどき、自分語りを面白がって見てくれる人も少ないのかもしれない。
現代、ひと1人が接する情報量の多さたるや。20年ちょっと前、インターネット黎明期にもてはやされた個人の雑記サイト風味のものなど、見る時間もないだろう。

従来の私は、自分が運営するサイトやブログでは他人に見せるコンテンツと自分語りのコンテンツが結構入り乱れることが多かった。
古くからの個人ブログ・個人テキストサイトの名残りなのだろうが、現在はそういう「ごった煮」のブログは誰からも求められていない。

隙あれば、自分語り。
自分語りがよくないように言われる風潮がある。
お気持ち表明なんて茶化されたり。

でもさ、本来、誰かとコミュニケーションを取る際に、自分のことを語るのと相手の事を聴くのって半々だったりしません?

プロセスを開示することは誰かのヒントになるのかもしれない


私の場合は思考と感情を整理するのに、文章を書くことが割と有効だととらえている。だから文章を書くという作業が私には必要だ。

それと同じほどに重要なのが、メモ書きやタスク管理だ。
私の持つハウツーの類は「どうすれば非正規雇用を脱出して、せめて人並みに暮らすにはどうしたらいいのか?」という自分自身の中に自然発生的に沸き立ったニーズが源流となっているので、それなりの創意工夫はしてきたつもりではある。
例えば手帳術についてならば一晩は語れるくらいのこだわりとハウツーがある(と自分では思っている)。そして、手帳に書き込むための筆記具についても同様だ。

いうても、私はマネタイズに成功した文章書きではない。
毎年手帳を5冊も6冊も使い分ける手帳マニアではない。
筆記具も、高級万年筆を使い分けるような猛者ではない。

いたって普通の、まぁ多少は筆記具選ぶときは自分なりのこだわりはあるけどね、程度のおっさんだ。

だけど、普通のおっさんがボールペンやシャープペンシル等の筆記具を語ると一定の反響がある。

同じように、iPhoneやタブレット、ノートPCなどについて語ると、やはり反響はある。

先日遂に一旦完成した私の作業用デスクは、SNSに画像を掲載しただけなのに、同日にココに書いたnoteよりも反響があった。

色々な事を自分なりに工夫して暮らしているだけなのだが、あまり誰かが教えてくれないほどのスキマ情報にこそニーズがあるのかも?という手応えを、少し感じ始めている。

確かに手帳やメモ書きの実物をお見せしたり、それがどの程度進捗していたり、なんていうのはそういえばなかなかお見掛けするものではないような…。まして、マニアでもない一個人がこれいいよ!ってレビューは。

自分語りと、ハウツーのご紹介は似て非なるものである


私がよく、タスクをすべて書き出したメモ用紙や1日10個目標を書きだしたものをSNSに挙げたりする。元はと言えば、「公言してしまって引っ込みがつかないように」という自分のため100%の動機だったのだが、意外なまでに「参考になる」というご意見を頂戴する。

これと同じ構図で、1日終わる際に「よかったことリスト」を作って寝るのをご紹介しているのだが、私のフォロワーさん方で、明らかにこの「SNSに箇条書きで人生オープンソースにする」スタイルの影響だなとわかる方が増えてきた。

これは凄く嬉しいことだ。

私の創意工夫が、大筋で支持されていて、同じようにそれぞれの人生、暮らしをよくしていこうという一助になっているのではないかという自己満足感がある。

で、最近気付いてきたのだ。
私、もしかしたら自分語りをしながら、明らかに読者、フォロワーの方々を意識している。
ただのナルシズムで終わらないような、何かのきっかけやヒントになればいいんじゃないかなっていうことを残そうとしている。
誰かに読んでもらう前提に組み立てられたコンテンツと、自分自身のことをただ単に語るものとでは、同じ文章・同じ内容といえども仕上がりは当然変わってくる。

黄昏という、今のアカウントに求められないものは減らす


元々のコンセプトが無い、黄昏というアカウント。
だがおかげ様でフォロワー数は1,000を超え、ここまで書いてきたように時折、誰かの助けや気付きにはなっているらしいという場面もちらほらと出てきた。
それに伴って、ちょっと「黄昏さん」には求められていない要素なんだろうな、とわかることが1つあって、これを極力控えることにした。

即ち、政治的左派志向の残念な奴や、極端なセクシュアリズム論者に対して鋭い舌鋒を向けることを控えることにした(完全には辞めない)。

この手の奴らは、理不尽が嫌いな私にとっては唾棄すべき敵であり、最終的には粛清すべき輩だと思っている。こいつらが世の中にいることでどれほどの不条理が発生し、悪くもない一般人が困り、嘆き悲しんでいるかと考えると看過できないとは思っている。

と、同時に、この種の層の方々は、どれだけロジカルに攻めたとしても決して自らの非を認めない。同じ人間社会に在りながら恐らく死ぬまで相容れないのだろうなという諦めがある。

そこに対する終わりなき闘争を繰り広げる文言には、あまりレスポンスはない。だけど、朝夕の挨拶や、汚い字で書かれたメモ書きには反響がある。

つまり、黄昏という存在には、バカを相手にした終わりなき闘争という要素が求められていないというわけだ。

より、シンプルに楽しんでもらえるように、よほどのもの以外はスルーしようと思うようになった。

ターゲッテイングやペルソナ設定は大事、というけれど


ブログやサイトのクリエイターは読んでくれる方がどんな層なのか(ターゲッティング)、またその具体例として典型的な読者を仮定する(ペルソナ設定)という手法が大事だとされている。
この手のマーケティング手法はネットに限らず現代では広く使われており、その優劣について専門家気取りで語る人もかなり増えてきたように感じる。

ところが、こうしたマーケティング手法、私は個人的にはあまり好きでなかったりする。

メッセージを届けたい対象のレンジをあまり初めから狭めたくないなという謎の希望があるのだ。

今の私のSNSやnoteのアカウントは私と同じ属性の中年男性からだけでなく、割と女性からも読まれているのは、ひとつにはターゲッティングを狭く絞り込んでいるわけではないからだと自分では思っている。

セオリーからするとハッキリ言って邪道だ。
遠回りだろうというのはわかっている。
しかし、私は仕事でもターゲッティングをあえて緩くするという方向性で大ヒットを出したことが珍しくないのだ。

なので、まぁ多少は考えるにしても、しばらくは今のままあえて緩くしておこうかなと思っている。

どうすれば儲かるか、どうすれば儲かるか


常々考えていたことだが、マネタイズ以前の問題として、自分のSNSでの存在をどうやって認知していただくかという難題がある。

そのうえで、何らかの手法でマネタイズを実現し、どうすれば儲かるか、というのを考えたいという局面だって出てくるだろう。

今の私はSNSやnoteでお金を稼ぐことはないが、可処分時間の少ない中で精一杯文字を打ち、文章の体裁を整え、写真の準備などもやったりする。
そのうえ、定期連載なんていう狂気の沙汰もやりはじめ、これと別で不定期連載の雑記ブログもある。まだ運用方針が決まっていないけど、インスタグラムも稼働させなきゃいかんなと思っている。

そういう事情があって、自分語りをする成分をどの程度までブレンドしながら(いわゆるファンサービスの部分)、それでいて、一応有益と思っていただけるようなTipsをどういうカタチで提供できるのか?を2024年のうちにある程度は確立させたいなと思っている。

その結果として、ゼロではない具体的な成果を目指すことも決して悪ではない、というのが今の私の考えだ。

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