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墓 標

法 と は 何か

法の目標は平和であり、それに達する手段は闘争である。法が不法からの侵害にそなえなければならないかぎり―しかもこのことはこの世のあるかぎり続くであろう―、法は闘争なしではすまない。法の生命は闘争である。それは、国民の、国家権力の、階級の、個人の闘争である。

世界中の一切の法は闘いとられたものであり、すべての重要な法規は先ずこれを否定する者の手から奪いとられねばならなかった。国民の権利の前提は、いつなんどきでもそれを主張する用意があるということである。法は単なる思想ではなくて、生きた力である。だから、正義の女神は、一方の手には権利をはかる秤(はかり)をもち、他方の手には権利を主張するための剣を握っているのである。秤のない剣は裸の暴力であり、剣のない秤は法の無力を意味する。秤と剣は相互依存し、正義の女神の剣をふるう力と、その秤をあつかう技術( わざ) とが均衡するところにのみ、完全な法律状態が存在する。

法とは不断の努力である。しかも、たんに国家権力の努力であるだけでなく、すべての国民の努力である。 ( イエーリング『権利のための闘争』)


 さて、タイトルに合わない書き出しに疑問を感じつつ、本題へ。

 生きている証 とは……

 争いの無いセカイは存在しない。仮にそのようなセカイが存在するとするならば、それは、死んでしまったセカイではないだろうか。
 生きる力を感じるには、争いがつきまとうモノなのだろう。なぜならば、他者の存在が無ければ、自らが生きているという実感は沸かないからだ。所詮、相対的な状況下で他者と比較しなければ、自らの存在確認ができないと考える。その上で他者が存在すれば、摩擦が起きる。争いの発生だ。ただし、その争いは、傍若無人なモノでけっして無く、秩序ある争いなのだと信じたい。


 争いの無いセカイは、理想郷であって、理想郷は到達できないからこそ、理想郷なのだろう。

 「山のあなたの空遠く 幸い住むとひとのいう」(Carl Hermann Busse)

 理想状態は、人の考え得る最高の状況なのだ。最高の状況には、簡単に辿り着くことはできない。そもそも存在し得ない、完成された完全なセカイなのだ。ゆえに、辿り着いた先それは、なにも存在しない死んでしまったセカイなのだろう。

 生きることとは、「(誕)生」と「死(去)」の狭間で、自らの生き様と向き合い、ココに在していることの主張を続ける、闘いのことなのかもしれない。

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