見出し画像

船井幸雄記念館(桐の家)@熱海

自粛前の人混みを避け熱海へ

今年は、コロナで時間もありそうなので、仕事以外でも何か書いてみようかと思い、Notesにアカウントつくってみた。しかし、よくあることだが二回投稿した後にはすっかり興味を失いその存在すら忘れてた。

4歳児でもつくれるパン焼きに挑戦した話 (前編)

4歳児でもつくれるパン焼きに挑戦した話 (後編)

テレワークで如何にオンラインでプレゼンやファシリテーションするかを学ぶこととなり、ビジネススクールの授業はZoom。教師業も大きな変革期にあるのだろう。これまでにないくらい自宅にいることが増え、妻との関係値をうまく安全域に維持することも求められる。またの外出制限を控え、自粛前の人混みを避け熱海までドライブでガス抜き。とりあえず目指した来宮神社が駐車場満車で早々にナビで出てきた船井幸雄記念館へ行くことにした。

GoogleMap

船井幸雄記念館

船井幸雄って誰?


その筋では有名な、コスモスクラブ主宰。船井総研創業者。「天才経営コンサルタント」「経営の神様」。今後、日本の経営コンサルティング業についての歴史が書かれるなら、日本生産性本部と並び一章があてられる存在だと思う。記念館では、日本マーケティングセンター時代からの会報もアーカイブとしてみられる。大阪船場、繊維問屋が、70年代のファッション化の潮流のなか、トレンド分析、商品構成最適化などの、経営近代化の手法として、米国のチェーンストア理論のローカライズとは別系譜の、日本型マーケティングの源流がここにある。

船井総研

日本生産性本部

ペガサスクラブ

経営コンサルタントの視点では、晩年スピリチュアルへ傾倒した異端コンサルタント。一倉定、新しくは、大前研一といった、通俗的な経営コンサルタント像からみると、ただ怪偉な存在であり、SFファンがロン・ハバードの変節についていけなかったような感じに近しいかもしれない。

一倉定

大前研一

ロン・ハバード

一方、スピ界隈の人たちからは、主流からの支持を獲得した大導士的存在。中村天風のポジションか。

中村天風

船井先生の奥様からお話を伺う

船井先生の死後、お線香をあげさせてくださいと、場所を探し当て訪れる方が多く、断ることもできずお困りだったそう。会社の方にご相談されたところ、記念館にしたらどうかという提案があり、先生が81歳で亡くなられるまでの11年間を過ごされたご自宅を一般公開することとなった。館内には、出口王仁三郎の自筆書、神代文字のような書画。隕石もあり、持ち上げてみると、漬物石大からは想像できない重さに驚く。お庭には、先生が生前よくおすわりになっていたストーンサークルがあり、座ったり飛び跳ねたり、イヤシロチを体験することもできる。

画像1

画像2

画像3

画像4


一通り館内をご案内いただいた後、晩年船井先生が座られていたリビングの椅子より、窓の外の樹々を眺める。「自然には直線がなく、全てが重なっている」と、ここで先生がよく話されていたそう。この印象が、先生考案のマンダラ図の源泉にあるのかもしれない。ベランダへ、つぐみがやってきて、バードバスで水浴びを始めた。先生のお言葉が焼印されたお饅頭と瓦煎餅をいただく。

画像5

『あっち側』へ傾倒した訳


奥様に、「先生が精神的なものにご興味をもたれたきっかけのようなことはあったのですか?」と質問させていただいたところ、「ご一緒する経営者の多くは、通常の知覚では計りにくい信念や思考パタンをもっておられました。経営コンサルタントとして、それを解明せずにはいられなかった。私たち家族は、『あっち側』といっておりましたが、それが最後までの関心となりました」とのこと。船井先生は生涯400冊以上の本を書かれた。子供の頃から文章を書くことがお好きだったそうだ。

NLP(神経言語プラミング)が、スピリチュアルコミュニティで過度に参照されたように、企業経営における船井メソッドの本質が失われないことを心から望む。リチャード・バンドラー、ジョン・グリンダーや、ミルトン・エリクソンのセッション記録がかろうじてまだ日本語訳で読めるように、船井先生の前期作品の読み直しもいつかしてみたい。テキスト電子化の流れのなかで一旦忘れられてしまうと、隠された知の復元は困難になろう。なにより、神が死に疫病の蔓延する世界で独り経営に悩む者としては、先生御手ずからの経営指導を受けられたら、どれほど心強かっただろうかと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?