【SS-3】青春の指図
遅刻はいつものことだった。
今更焦ることもない。そんなことはもう、どうでもよかった。増殖し肥大し続けるモヤモヤで僕の頭の中は埋め尽くされていた。そのことでいっぱいいっぱいで、遅刻のことなど構っていられなかった。
ただ、日々の単調さに嫌気が差していたのだ。
ちょっと違う道のりで登校してみるか、むしろ学校とは反対側にひたすら進んでみるか。そんなちょっとした気紛れで解消されてしまうチャチな嫌気なのだが、いまの僕にはそれが全てで、愛らしさなんて微塵にも感じず、ただただ鬱陶しいだけの気怠さが纏わりついている。
晴れた夏の日。
雲一つなく、空の高さがいまいち分からない。分からないから、狭くて窮屈に感じてしまう。
ぶつくさ文句を言いながらも、無い頭で考えごとをしていると、無意識にいつもの道のりで学校に向かおうとしてしまう。惰性か、根は優等生か。無理してはみ出そうとしているのか。そんなのダサすぎて認めたくないが、きっとそんなところだろう。
変化のない焦りに駆り立てられる。”何か”、どこかにないだろうか。
ブロック塀で囲まれた一軒家の曲がり角、地面にT字をかたどったビニルテープが張られているのを見つけた。
ちょっと面白かった。誰が何のためにその目印を残したのだろう。
角に差し掛かる手前ならまだ分かるが、この位置では角から飛び出してしまっている。こんなところで立ち止まっては、交差する対向の人にとって邪魔である。しかも、T字のとおりに立つと、交差する相手に背を向けることとなってしまうので、もっと厄介だ。
どうせ、自分はなにをしているんだと数秒後に呆れるのは目に見えているが、こういうのを見つけたら試してみないと気が済まない性分である。
もしかしたら、その視点でないと見えない景色だったり、気づけない何かがあるのかもしれない。たぶん、ないけれど。
T字に合わせて両足を配置し、淡い期待を込めて顔を上げてみる。
――おお、見慣れたド田舎だ。それ以上の発見はない。
自らの馬鹿さ加減に少し笑いが込み上げてきた瞬間、何者かに背中を突き飛ばされた。
「痛っ、なにすんだよ」
「すみません!」
振り向くと、相手も尻餅をついていた。
とても可愛らしい女学生だった。
こんなだだっ広くて車もそれほど走っていない田舎ではヒトと肩が触れ合うことすら奇跡に等しいのに、何故こんなにも透明感溢れるお嬢さまが全力でぶつかってきたのか。
はち切れんばかりの胸が衝突の余韻でまだ揺れているように見えたが、そんなあり得ない錯覚を起こすほど僕は混乱していた。
こうなってしまえば、とにかく、紳士の振る舞いをしなくてはならない。普段使わない脳味噌だが、ここぞというときの回転は速い。
「……気にしないで。そっちこそ大丈夫?」
手を差し伸べたら、相手もそれに応えた。自然な流れだ、自然と手に触れることができた。たまにはやるじゃないか。
気温が三十度を超える真夏日ゆえ、彼女の髪は少しだけ汗で湿っていて、赤らんだ頬に上目遣いも相まって、余計な思慮で不用意に鼓動が高鳴るのを認識するだけで精いっぱいだった。
「この辺りに転校してきて、今日が登校初日なんですが、遅刻しそうなんです。ご迷惑おかけしました」
彼女は訊いてもいないことを早口で捲し立て、そそくさと走り去ってしまった。
僕は彼女が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
この近辺に学校なんて、そう幾つもなかったはずだが――。
足元にあるビニルテープでできたT字の目印のことなんてとっくの昔にどうでもよくなっていた。すべてはそこに立ったことで始まったというのも、すっかり忘れてしまっていた。
教室の後方の扉から忍び込む。
「遅いな」担任は教科書から顔を上げようともしない。「カトウ、ちょっと前に来い」
呼び出された僕は渋々、教卓のほうへと向かった。
通路に面した机に引っかけられた荷物という荷物を片っ端から足に当てながら時間をかけて進む。お馴染みの光景で、顔をしかめる女子と、尻を叩いてくる男子のワンパターンな反応もデフォルトである。
「カトウ、席替えだ」担任は叱る気力もないと言わんばかりに、淡々と箱を差し出した。「シミズが風邪で寝込んでるから、お前は残る二つの席のどちらかだ。シミズには可哀想だが、遅刻したお前が籤を引け」
残る席の位置を確認しようと教卓から教室を見渡すと、ひとりの生徒と目が合った。
僕はひとつ心臓が大きく脈打つのを感じて、フリーズした。
目が合うと、彼女はその猫目を一瞬だけ更に大きくし、そのあと少し微笑んだ。
これは陳腐なラブコメ漫画か、安直な妄想がなせる夢か、はたまた暑さによる幻か。だが、頬を抓ったり、まばたきをするのも惜しいぐらい、彼女はそこにいる。僕はどんな顔をして彼女に応えただろうか。
「ああ、あそこにいるのは転校生のツジタだ。仲良くしてやってくれ」
「あれあれ?カトウ、なに見つめあってんだよぉ!もしかして、もうできてんのかぁ?」
転校生だと紹介する担任、肩を組んで茶化してくるクラスメイト、駄目だ、何も入ってこない。停止状態を脱するために一度深呼吸をし、冷静な頭脳で彼女の隣の席が空いているのを確認した。もう一方は教卓の目の前だ。
担任に差し出された箱をもう一度見ると、うち一本の籤が赤く光っていた。
これは何かの罠だろうか?
だが、わざわざ裏をかいて赤が当たりだったとしたら堪ったものではない。このまま赤を引いて外れだったとしても、一方を赤く塗ったことに対する抗議をして有耶無耶にすればよく、ここは素直に赤いほうの籤を引くことにした。
「あの、奥の席だな。早く座れ」
呆気なく、彼女の隣を我が物としてしまった。
こういうときは大抵外すのが落ちで、余りにも現実味が湧かなかったため、籤をわざわざ赤く塗っていた理由を訊きそびれてしまった。誰も何も言わないのは何故だろう。
彼女は僕が座ろうとするのを見て、小さく会釈した。「よろしくね」
「……よろしく」
「カトウ君っていうんだね。さっきはごめんね」
「……いや、全然いいよ。気にしてないから」
なんだこのスカしたスカスカな会話は。自分史上最低に面白くない。いつもならば開口一番の下ネタで自ずから最低評価を捥ぎ取りに行っていたのに、僕らしくなくて気持ちが悪い。
「趣味、訊いてもいいですか?」彼女は下唇を噛みながらも、やけに話しかけてくれる。
「うーん」色々な単語が駆け巡る。「趣味は……読書かな」
本はろくに読めた試しがない。国語の評価も1なのに、というよりかは体育を除くすべての評価が1なのに、すぐにバレる嘘をなぜ吐くのか。
「奇遇ですね」彼女は目を丸くした。「私も読書が好きなんだ。なにを読むんですか?」
自分の蒔いた種だが、困ったことになってしまった。教科書を開き、読む振りをして適当に目に入った作家の作品を言っておけばいいか。
ふと、目が留まる。夏目漱石という著者名がシャーペンでぐるぐると何重にもマークされた痕跡があった。
はて、教科書なんぞろくに開いた試しなどないのに、いつ書いたのだろう。クラスメートの落書きとしてもセンスがないし、テストにでも出るというのだろうか。
「夏目漱石の、ええと」急いでいるからか、ツルツルと滑ってページが捲りにくい。「アレだよ、アレアレ……さんよんろう?」
「三四郎ですか」「私の一番好きな本です。素敵ですよね」
どうやら正解だったらしい。
『こころ』というのが教科書に掲載された作品の表題だったが、少しツウぶりたかったので、作者紹介にある適当な作品を選ぼうとした。すると、そこにもシャーペンでマークされた作品があったので、反射的にそれを読み上げただけである。
本当は全く知らない。
それからというものの、取り留めのないことを沢山話した。
彼女はとても博学で、知らない単語が出ることもしょっちゅうだったが、それでも教室を見回せばなんとなくヒントが浮かび上がり、話を合わせることができた。
なんだか、すべてが思い通りに運んでいる。
「この教室、暑くないですか」彼女は少し顔を赤くしていた。
時間を忘れて話し込んでしまっていた。
時計を見やれば既に夕刻である。教室には西日が差し込んでおり、じわじわと室温が上昇していることに全く気が付いていなかった。
彼女は軽く汗ばんでおり、シャツがぴったりと肌に密着している。
僕は目を疑った。
彼女の胸元が、赤く光っていたのだ。
思えば今日は、いろいろな指図に従ってきた。T字の目印、赤いくじ、浮かび上がる文字。それらに抗うことなく従っていれば、ものごとはトントン拍子に進んだ。
もしかしたら、これも、そういう指図なのだろうか。
いまがそのタイミングだという、神からの思し召しなのだろうか。
僕の手が彼女の胸に触れると、途端に閃光が走った。
衝撃が走り、気づけば天井を見上げていた。
青春がはじける音だった。
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