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短編304.『オーバー阿佐ヶ谷』4

4.

 月の綺麗な晩だった。子どもの頃に友達の家で繰り返し観た、マイケルジャクソンの『スリラー』のPVを思い出させるような。雲間から覗く満月はきっとあちこちのアパートで性の宴でも催させているのだろう。全ての健康問題が煙草のせいにされるように、あらゆる過ちは月のせいにすれば良い。そうすればきっと誰も傷つかない。

 予感はあった。
 ーーー私はきっと怪物に出会える。
 芸術家だけが持つシックスセンスがそう告げていた。今まで一度も的中することなく錆びついたシックスセンスが。

 ただ、怪物と呼ばれるその”もののけ”の様相を聞き忘れた為、街ゆくどれが怪物なのかは判別のしようが無かった。全部といえば全部、怪物に見えるような気もするし、それは演出家男の頭の中にだけ存在する妄想の産物のような気もした。孤独は時に精神を蝕むものだから。

          *

 飲み屋街と言えど、深夜二時近いこの時間では開いている店も限られる。夜の町は静かに暮れていく。一軒また一軒と消える灯りは、冷え冷えとした月明かりをより輝かせる。私はただ照らされるに任せた。待てど暮らせど輝かぬこの身を。
 終電は既になく、かといってこの町の在住者としては寝るにはまだ早い。酔った頭で路上に放り出された人間が考えることにろくなことはない。まだ開いてる店を探して更に酒を飲むか、家に帰って孤独を抱きしめるか。どちらの扉の先にも救いはなかった。

 スターロードの直線を駅に向けて歩く。さしたる目的はない。酔い覚ましという名の時間潰し。貴重な人生の時間はこうして自ら潰しているに過ぎない。そうして気付いた時には何も持たない老人になっている。金も伴侶も優しささえも。縮んだ肝臓と黒くなった肺だけを抱えた、そんな老人に。

 人の姿も声すら無い道は私に産道を連想させる。退却という選択肢はそこになく、ただ前に進むのみ。温かな居場所を振り切っての死の行軍。人生なんてその繰り返しだ。新しいことなんてない。巨視的に見れば、出産される道程を強迫反復しているだけだ。

 ーーーこんなにも詩的に考えられる私が何故、売れないのだろう。

 見る目のない大衆が住む世間という場所は、実に生きづらい。私が痛みの経験と引き換えに生んだアートは羊水すら拭い去られることなく、ネグレクトの憂き目にあっている。アートの水子、というものがいるとすれば、私の背中には数百万体は憑いているに違いない。どおりで身体が重い訳だ。体重から骨と筋肉と血液量を引いた値が”水子”分なんだろう。”アート水子”供養の寺社仏閣は何処(いずこ)?ライザップ?

          *

 自虐思索にも飽きた頃、高架下への曲がり角で見知らぬ背中が目についた。猫にしては大きく、人間にしては歪な形だった。二足歩行で歩むその背中は毛むくじゃらで、脱毛サロンのビフォーアフターに推挙したいくらいには目立っていた。



#阿佐ヶ谷  #飲み屋 #スターロード #小説 #短編小説

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